「無難な人生」より「楽しい人生」

自我として生きている限り、ドラマは続きますね。それが、喜劇であったり悲劇であったりするのですが、心は縦横無尽に揺さぶられるのです。

愉快なこともあれば、悔しいこともやってきます。嬉しいこともあれば、悲しいことも必ずやってくるのです。

そうやって、どうにかこうにか毎日が続いていくことで、気がつくと自分でもびっくりするような年齢になっています。

45歳で人生の転機を迎えるまでは、「無難な人生」をモットーとして生きてきたように思っています。

なるべく動揺したり、苦しんだりせずに人生が進んでいけばいいなあと、そう思っていたのですが、大腸ガンという大きな厄介がやってきて、人生が変わりました。

それからは、人生何があってもおかしくないということに気づいたし、無難な人生よりも楽しい人生の方を選ぶようになったのです。

もちろん、嫌なことはなるべく起きないに越したことはないのですが、それでも起きることは起きてしまいます。

それを憂うことよりも、この自分という自我を受け持ったのですから、そいつと共に楽しむ人生になればいいなと。

何であれ、深刻になってしまうよりも、それを面白がってしまった方が勝ち!

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自我がついて来れない場所

またまたoshoの素晴らしい言葉が目に止まりました。

『沈黙の中に深く入っていくほどに
欲望も消えていく
欲望は周辺にだけ留まるようになる
それはあたかも、水面の波のようなものだ
海の中に深く潜っていけば、そこに波はない
欲望もまた、意識の周辺にだけ存在するようになる
深く潜っていけば・・
深く入っていくほどに、欲望も遠ざかる』

やっぱりそうですよね。意識の上っ面を生きているなら、そこには自我の欲望がウヨウヨしているわけです。

それを無くすことは不可能なことのようです。それはそういうものだからですね。自我を無欲にすることはできない。

だからそこから離れていくしかないのです。自我がその欲望と共に、ついて行かれない場所へ行ってしまえばいいのだと。

それが、「沈黙の中深く」ということのようですね。このことは、直感的に理解することができます。

なぜなら、自我は沈黙を続けたなら弱体化していくに違いないからです。そして何もないところでは、自我は活動できないのです。

だからそこまで自我がついてくることはできない。瞑想中に自我の欲望が消えていかないのなら、それは自我が瞑想をしている状態なんでしょう。

今日も自我がついてこれない場所まで行けたらいいなと願いながら、瞑想をすることにしようと思います。

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全く違う人生を生きていることに気づく

このoshoの言葉には、フットワークの重い自分の生き方を少し認めてもらえた気がして、ちょっと嬉しいです。

『人間は不思議な動物だ
あらゆる物を探求する
エベレストに行く
北極に行く
月に行く
しかし、自分自身の内側に行こうとはしない
これが、人間が抱えている最も大きな病だ』

ですよねえ、周囲の多くの人たちが行ったことのないところへ行ってみたい、そう思っているように感じています。

家人がよく言います。私はどこへも連れて行ってもらえないと。私は、行きたいところがあるなら、自分で行けばいいと。

そうすると、一人で行ってもつまらないと。そうなんですね、じゃあ行きたい人と一緒に行けばいいのにと。

広大無辺の宇宙にも勝るとも劣らない己の内側には、興味がない人が多いのですが、それはその人の自由なので、全くもってOKです。

だとしたら、物理的なフットワークが悪くて、訪れたことのないところに特別行きたいと思わない人がいても、それはそれで自由ではないかなと。

私の興味は、もっぱら自分の内面に向けられていて、それはもうどうしようもないのです。近くにいるとしても、人はそれぞれ全く異なる人生を生きているということですね。

このoshoの言葉、自分の部屋の壁にでも貼っておこうかな。

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宇宙と仲直りする

自分に厳しい人いませんか?今日のブログでは、そういう人に対して言いたいことがあるのです。

それは自分にもっともっと優しくしてあげて欲しいということです。人に対して優しくできても、自分に対しては厳しいという人いませんか?

それって原理的に不可能なんですね。本当は、自分に優しくすることができる人だけが、他人に優しくできるのですから。

自分を尊重することができなければ、他人を尊重することもできるわけがないのと同じことですね。

自分に優しくできない人が最初に気づく必要があること、それは自分への期待値を下げてあげることです。

期待値が高いままだと、どうしても現実との落差が目立ってしまうので、そんな自分を罰したり否定したりするのです。

そんな理不尽なことってないですよね?勝手な期待値を設定しておいて、そうならないからといって責め立てる。

そのバカさ加減に気づくことです。あなたはあなたであり、他の誰でもない。宇宙はそういうあなたを必要としているだけ。

期待がなくなれば、自ずとそのままの自分をそのままに受け止めることができるのです。ただそれだけなんですけどね。

それがどうも難しいと感じてしまうのです。今この瞬間に生きるようになると、期待がとれて、同時に過去も未来もなくなります。

背負ってきたあらゆるものから解放されて、お任せの人生がやってきます。そうして宇宙と仲直りするわけですね。

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右脳に意識を向ける

瞑想している最中にふと思って、そうだ右脳の方にたくさんエネルギーが回るようなイメージをしてみようと。

左脳には悪いけれど右脳の方に意識を向けて、イメージで両方の手のひらで暖かく包むようにしてみたのです。

すると、さっきまで今日は何だかなあと思っていた瞑想の感触が、急に深くて気持ちいいものへと変化したのです。そしてそれが持続したのです。

もちろん偶然そうなった可能性もあるとは思うのですが、それにしてもそのタイミングがバッチリだったので、これしばらく続けてみようと。

それで思ったのですが、こうした何気ないちょっとした気遣い、あるいは単なるイメージによる思い入れみたいなものって、案外効果があるのかもしれないなと。

以前このブログでも書いたのですが、イメージで身体への謝罪と感謝をしただけで、ストレスが消滅したことがありました。

その時も突然のように消えていったのには驚きました。どんなことでも、心の中とはいえ真剣にやると何らかの影響は出るのかなと。

こうしたことで気をつけなければならないのは、何回もやっているうちに気分的にマンネリになってしまうことです。

そうすると、その真剣さが薄れてきてしまって、思ったような結果が出なくなってしまうということがありそうです。

いつも新鮮な気持ちを失わないように注意して、右脳さんに十分に血液が巡っていくようにイメージしてみようと思います。よかったら皆さんも試してみてください。

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善悪の判断を放棄する

物事をすぐに善悪で判断してしまうようなクセを持っている人が多いような気がしますがどうでしょうか?

正しいとか間違っているとかが、ひどく大事だと思っているように感じてしまうのです。こういうことって、ご本人は気づいていないのかもしれないですが。

誰でも分かることだと思うのですが、善悪とか正不正をいつも気にしつつ、それが幸せになることと結びつくとは思えないのです。

自分は間違ってなかった、自分は善人と思われるはず、これは幸せというのではなく、ほっと一安心なだけです。

最も気にしていなければならないこととは、自然か不自然かということ、あるいは自由か不自由かということ。

もしも不自然で、不自由な感覚で生活しているのであれば、決して幸せにはなりませんし、何なら病気になってしまう恐れすらあります。

私たちの幸せの条件とは、自然であり自由であることだと思っています。この二つが足りてなければ、幸せになる確率は非常に低くなってしまうでしょうね。

今日からでも、正しいことや善であることへの興味を捨ててしまうことです。多少の勇気は必要になるかもしれませんが。

元々正不正や善悪などは、人間の左脳が作り上げた架空の概念でしかないのですから。実在するものではありません。

その代わりに、より自然に、より自由に生きることができるように、自分を注意深くみてあげることですね。

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瞑想を自分の風土にする?

以下のoshoの言葉には、耳が痛い。

『瞑想は二十四時間のものだ
それは一日一回やってそれでおしまい、というものではない
それはあなたの味わいにならなければならない
それはあなたの風土にならなければならない
それはあなたを包むものでなければならない
あなたがどこにいようと
あなたが何をしていようと–』

そうなんですよね。瞑想中がどれほど気持ちがいいとしても、瞑想から抜けてしまえばそれで終わり、では元も子もない。

瞑想の目的は、瞑想中の内面のあり様が日常的になることであり、そこにこそ本当の意味があるわけです。

最終的な理想の姿とは、瞑想をする必要がないくらいに瞑想的に生きることができるようになること。

これは達人の域なので次元が違うとしても、少しずつでも瞑想中とそうでない時との差を減らしていくことなんですね。

今の自分が感じている状態では、身体を動かしてしまったと同時に、瞑想が途切れてしまうという感覚です。

目を開けたり、身体の姿勢を変えた程度では瞑想状態が続くのですが、立ち上がったり歩いたりなどは全く無理なわけで。

クルマの中でも停車中であれば可能ですが、運転中は全く無理なのです。そうなると、何かまた全く違うレベルというものがあるのかもしれません。

今のところ、私の感覚としては瞑想は筋トレとすごく近いなと。少しずつ地道なトレーニングを続けて、それなりの効果が出て嬉しい。

このレベルでは、瞑想を自分の風土にすることは難しいでしょうね。

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世界は人の数だけある

あなたが暮らしている世界、ワールドの全てがあなたのものです。あなたのために設えたあなた専用のワールドなのです。

そう言われても、そんな馬鹿げた話を信じることはできないと言うでしょうね。なぜなら、この世界にあなたしかいないと言われているようなものだからです。

けれども、そうではありません。あなた以外の全ての人も、それぞれの人専用の独自のワールドを持っているのです。

そして、一人一人がそれぞれのワールドで暮らしているのです。でもそれでは矛盾が生じますよね。

それぞれのワールドで生きているのであれば、例えばあなたと誰かもう一人が共にいる空間というのはどっちのワールドなのでしょう?

それは、互いのワールドがダブっていると言えばいいのか、要するにその瞬間は互いが互いのワールドを共有している状態なのです。

そして宇宙はとてもうまい具合に、そこに矛盾が生じないようにできているのです。このように考えてみてください。

明日、あなたはAさん、Bさん、Cさんの三人と順番に会うことになっているとします。すると、Aさんのワールドでもあなたと会うためにワールドが調整されるのです。

同様にして、BさんもCさんもあなたと会うためにワールドが調整されるのです。二つの円の一部が重なっている状態をイメージすればいいのです。

その重なった部分が共有されているワールドということになるでしょうね。最後に言いますが、ワールドと言っても地球とか宇宙という意味ではありません。

あなたが認識しているもの、それこそがあなたのワールドなのですね。ご興味があれば、じっくりそれを味わってみてくださいね。

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死と隣り合わせに生きる

歳を重ねるごとに月日の経つのが早く感じるようになると、巷では言われているようですが、これ本当ですね。

最近、一年があっという間に経ってしまうというのが比喩ではなく、現実に自分の身に起きていることだなと。

だから、これではあっという間に死がやって来るなというと、本当にそうだねという人と、そんなこと言わないでという人とがいます。

後者の人は、きっと死ぬことを恐れているか、まだまだ死にたくないと思っている人であることは間違いありませんね。

これは当然、本人の年齢にも関係してくることですので、一概には言えないのですが、この年齢になって思うことがあるのです。

それは、本質的には何歳であろうと、死と隣あわせで生きていくことがいいのだろうということです。

死ぬことは私にはとりあえず関係ないとして生きるのか、それともいつ死が訪れるか分からないとして生きるのか。

きっと後者の方が、より生きている瞬間瞬間をしっかりと感じつつ、意識的に生きることができるのではないかと。

死を忌み嫌うのではなく、いつやってきても大丈夫という心持ちで生きることができたら、防衛はかなり小さくなるはずです。

そのほうが確実に充実した自由な感覚の中で、生きていけるような気がしますね。

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お気楽な人生へと舵を切る

私たち自我の一般的な、あるいは代表的な生き方には、「自分が頑張らねばならない」というちょっとした悲壮感があるのです。

様々な義務と責任を可哀想な両肩に背負って、ヒーヒー言いながら頑張るのです。決して人生は楽しいものではないと。

苦労して、我慢して正しい人間として生きたその先に、ようやく憧れの幸せが待っているのだというわけです。

『そんなの、絶対来ませんよ〜』って誰かに言われても、ひるむことはありません。そのくらい、固く信じて疑うことがないのです。

悪いことに、そうした人生を続けていると心に余裕がなくなってしまい、全てを決まりきった近視眼的な見方でしか見ないようになってしまうのです。

その人生の行先に、どうしたら幸せが待っていると思えるのか不思議です。少し冷静になれば、気がつくことなのに。

けれども、そんな人生を生きている人であっても、いずれは気づくチャンスはやってきてくれると思っています。

例えば、限界を超えてしまえば、路線を変えるしかなくなるからです。それは広い意味で自然治癒力と言ってもいいかもしれませんね。

どんな石頭の人にでも、午後の人生への転換点はやってくるのです。そのとき、人生を生きる極意に気づくのです。

人生全体を「お任せするぅ」に変えてしまえば、どれほど肩の荷が降りることか。そしてお気楽な人生へと舵を切るのですね。

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