ガリレオは約400年前に、当時の世の中を支配していたカトリック教会の教えに反対して、地球は宇宙の中心であり、その回りを太陽がまわっているという“天動説”を否定し、地球が太陽の回りをまわっているのだというコペルニクスの“地動説”を支持しました。
そのために彼は、おそろしい宗教裁判にかけられ、異端の罪で有罪とされてしまいましたが、その時の「それでも地球は回って(動いて)いる」という彼の言葉は有名ですね。
自分が正しいと思ったことを信念を持って貫き通すということに、人はその勇気と一貫性のある態度を賞賛をもって迎えるようです。
ガリレオのように、たとえ迫害されようとも毅然とした態度で、自分の信じることを訴え続ける人はすばらしいなと私もずっと思ってきました。
ところが、最近は自分にとって価値のある唯一のものは真の幸せだけだということに気付くことができたおかげで、こうした正しさや信念というものへのこだわりがほとんどなくなってしまいました。
信念を主張するということは、心のからくりを見ていると、自己防衛だということも分かってしまったからです。「コース」には、自分の正しさと幸福とどちらを選びますか?というような表現があります。
実は正しさというのは自己防衛の一つの手段でしかないのです。正しさへのこだわりは、強く防衛したいという思いの表れであって、自分を守らないでいい人にとってはとりたてて正しい自分でいることに頓着しないのです。
自分が無頓着でいられないのは、自分や自分の信じていることが正しいかどうかということではなく、自分が幸福かどうかという一点に尽きます。
そこだけが唯一自分にとって本当に大切なことなのです。つまりは、正しさに価値はないということですね。そうなって初めて、人のことも正しいかそうでないかという観点で見ることから開放されます。
つまりそれが裁かないという見方なのです。どちらの言い分がより正しいか、より事実に近いかということを争う裁判などに勝ったところで、結局幸せになることはできません。
そんなことより、自分の内面の平安な心の部分とどれだけ繋がっていることができるかということをいつも意識していることだと思います。