以前にもどこかで書いたことがあったかもしれませんが、私の父親が1歳か2歳くらいのときのほほえましいお話しです。
その頃、年老いた曽祖父(ひいじいさん)が余命いくばくもない状態で布団に寝ているところに、幼い父親は勢いをつけて突進して寝ている曽祖父に体当たりをしたのだそうです。
曽祖父が怒らないことをいいことに、何度も何度も繰り返したそうです。それを見ていた家の者はヒヤヒヤしているのですが、曽祖父が「いいよ、いいよ」というものだから黙って見ていたそうです。
父親の実家は代々医者なので、そういった安心感もあったのかもしれませんが、常識的には何かあってはいけないので反射的に「やめなさい!」と止めるはずですね。
この話しを聞いて、その曽祖父、会ったことのない私にとっての曽曽祖父は安らかに永眠したのだろうことがイメージできます。
許しとはそういうことなのだろうと思うのです。自分の身体の心配をしなくなった気持ちでは、かわいいひ孫が喜んでいることこそが自分の幸せという思いだったのだと思うのです。
ここには全く犠牲的精神のかけらもありません。相手の喜びだけを素直に自分の喜びとして感じることができるのが愛ですね。
死ぬ直前であろうと、そういう愛の気持ちになれた人は本当に幸せだと思います。その人の目は相手の罪を見なくなった目なのです。
相手が幼いひ孫だからかもしれませんが、同じ見かたを誰に対してもできるようになれたら、それは本当に幸せな心の状態になれるでしょうね。
自分が本当に幸せになりたいのなら、そんなの不可能だとあきらめずに少しでも近づけるように意欲を持って生きることが大切だと思います。