諦めたとは諦めていないということ

子供の頃というのは、とにかく自分ではお金を稼ぐことができませんので、何か欲しいものがあった場合には通常は親にねだることになりますね。

いくらせがんでも買ってはもらえないと分かったときに、その欲しかったものを諦めるわけですが、本当に諦めがついたときにはもうケロッとしてその事に興味もなくなってしまいます。

したがって、また他のことに興味を向けて、今度はそのことで頭がいっぱいになるのです。もしも、口先だけで諦めたと言っている場合には、子供の態度はきっと何か不機嫌だったりするはずです。

手に入れたいものが単純なモノの場合にはいいのですが、それが心の問題であるとそう簡単には済みません。

例えば、親に自分の気持ちを分かって欲しいという場合には、何度訴えてもわかってもらえないという時には、表面ではもう諦めたという状態になるはずです。

なぜなら、そうした諦めをしないでいると、いつまでたっても自分の心が苦しい状態のままで全く報われなくなってしまうからです。

そうして諦めた後は、もうあまり自分のことを親に話そうとはしなくなってしまいます。しかし、こんな大切なことを本当に諦めることなどできるでしょうか?

本質的にはほとんど無理なはずです。従って、自覚の上では諦めたことになってはいるものの、本心では決して諦めなどついてはいないのです。

もしも、本当に諦めがついたという場合には、わだかまりが残らないために、今までどおりごく普通に親に話しかけられるはずですね。

この場合には手放したという表現の方が適切かもしれません。自分のことを分かってもらえなくても、自分は何とかやっていけるという心の状態になったということです。

しかし、子供の幼い心の状態では、そんな手放しは到底無理なのです。結局、諦められてはいないということです。

それが、親に対する反抗的な態度になったり、全く口を開こうとしない無視の状態になったりしてしまうということです。

これは子供の場合だけではなく、大人になっても充分にあり得ることなのです。諦めたと思っているものについて、じっくり自分の気持ちを確かめてみて、そのことに何のわだかまりも残っていなければ、それは確かに諦めがついた、手放したということになります。

しかし、何らかのわだかまりや思い残しのようなものを感じるのでしたら、それは心の底では決して諦めてはいないと気づく必要があります。

なぜなら諦めがついていないと、その不満や思いが何らかのネガティブな要素となって、毎日の自分の生活に悪影響を及ぼす可能性があるからです。