訴えるという罠

私達は誰でも自分は正しいと思いたいものです。自分の感覚や考え方、自分が体験したことに対して抱いている思いなどは全部正しいと思いたいのです。

そしてその正しさを証明するための一つの手段として、それを自分以外の誰かに聞いてもらってその正しさを認めてもらいたいという望みを持っています。

サラリーマンの人たちが、仕事を終えたアフターファイフで同僚と飲むお酒の席などで、上司やお客などの悪口を言い合って気分を晴らすのはそういう理由があるのです。

幼い子供は、自分がどれだけ頑張ったのか、どれくらい我慢したのか、そういったことを親に分かって欲しくて、それを訴えようとするものです。

その中には、必ず自分以外の誰か、例えば兄弟とか近所の友達などがこんなひどいことをした、こういういやな事を言ったというようなことも含んでいることが多いのです。

それは、自分の正しさを証明するために、他人の正しくない言動を引き合いに出すことによってより明らかにしようとする狙いがあるのです。

自分ではまだきちっと自分を評価することができないので、親に正しい評価をしてもらって、それが自分の思いと同じであることを知って安心したいのです。

自分の正しさを証明するためには必ず比較として他人の不正を利用するのが我々人間の常なのです。そのため、不正をはたらく人をいつも身近に見つけようとしてしまいます。

何かを訴えたいという気持ちとは、こうしたことを内在させているということにいつも気づいている必要があるのです。

気づいてそれを手放していく練習をしなければ、いつまでたっても自分の周囲には正しくない、裁かれるべき人たちがウヨウヨしてしまう現実がやってきます。

誰かに話しを聞いてもらいたい、そんなの当然のこと、と気安く考えていると自分の人生を破壊していくことになるということです。

人に聞いてもらってすっきりするというのは、麻薬中毒患者が麻薬を打ってすっきりするのと大差ありません。

訴えたい気持ちに圧倒されそうになったなら、このことを思い出して自分独りでその気持ちをしっかり受け止めてあげることです。

それができるようになると、自分の気持ちを自分で処理できるようになり、周囲の人を罪人としたいという歪んだ知覚が正されていくことになります。

その先に本当の愛の自分の心を感じることができるようなる嬉しい人生が待っているはずなのです。練習あるのみですね。