人は誰でも自由を求めているはずですが、いざ具体的に自分は自由だろうかと考えてみると、そうでもないかもしれないという思いがやってきます。
なぜなら気がついているものもそうでないものも含めて、それこそ沢山の思い込みがあって、それらに縛られているからです。
思い込みというと何だか言葉が悪いですが、信じてしまっているということですね。この宇宙に地球があって、それは丸い巨大な天体で、そこに自分は暮らしていると。
地球の大気を数秒ごとに吸って生命を保っているのが自分なので、息を止めてみるとすぐに苦しくなってこのままだと死んでしまうという実感も持っています。
でもそれは信じているからこそ、そうなるのだということには気づいていないのかもしれません。この信じることを強力にバックアップしているのが知覚です。
私たちが頼り切っているこの知覚というものは、実は自分が見たいように見ることができるし、聞きたいように聞くことができるように仕組まれています。
それは例えば、裁判においてみんなで口裏を合わせて虚偽の証言をすることで、それが真実であるかのような印象を与えることができるようなものです。
うまくやれば、裁判官も騙されてしまうかもしれません。それと同じようにして、私たちは自分の知覚に騙され続けています。
それは言って見れば、真実ではないものを信じ込まされてしまっているということです。その中でも最たるものが、自分とは何者かということ。
この肉体をまとった物質的な生き物こそが、自分であるという信じ込みをほとんどの人たちがしています。たとえそうだとしても、それが何か問題があるのかという質問が聞こえてきそうです。
実は問題は大有りなんです。それは、私たちのありとあらゆる苦悩の原因はそこからくると言えるからです。肉体としての自分とは、決して他の肉体とは分かち合うことができない運命を背負ってしまっているからです。
それが孤独の原因です。肉体同士をいくらくっつけても、決して一つになることはできません。そればかりか、肉体同士は必ず対立を作り上げます。そこからサバイバルが始まります。
それが冒頭の不自由さを作り出すことになるのです。生きていて、何らかの不自由さを感じてない人などいないはずです。それは、自分を肉体だと信じているからに違いありません。
昨日のブログで気づけた人もいると思いますが、本当の自分は決して肉体ではないということに気づくことこそが、本当の幸せへのパスポートなのです。