潔(いさぎよ)い人

自分は潔い人が好きかもしれません。それは例えば、クルマが大好きで、毎日磨き上げているような若い男性が誰か大切な人のためにそれをさらりと売り飛ばすことができたりといったことです。

潔いとは、物事に執着していないということ、今までずっと大切にしてきたもの、考え方などをいとも簡単に捨て去ることができるということ。

別の表現をすれば、大いなるパラダイムチェンジができるということを意味しています。昨日までは、こう思っていたのだけれど、条件が変わったのでまったく違うように考え直すことができるということです。

それは個人だけではなくて、会社などの団体の場合にも言えることです。会社の伝統を守ることは決して悪いことではないのですが、状況次第では伝統を破ることも大切な場合があります。

そのようなことをきっぱりと決断できるということは、とても気持ちのいいものですし、防衛的な姿勢ではない清清しさを感じることができますね。

その反対に考え方や信念、信条、そして自己像に対してのある種のしがみつきのようなものが強いと、硬直した生き方しかできなくなってしまいます。

私たちはいつも自分の心に縛られています。その心の正体というのは、長い間の体験から得たその時々の感情や思考の蓄積から作られたものなのです。

その心こそが自分だという思いを持っていますが、それは実は単なる作り物に過ぎません。それこそが世界からは切り離された自分だとすることは、苦悩を生み出すことになるのです。

賢人や見者は、「心を気にするな」という言葉を残しているくらいです。自分の心の問題は、自分がそれを持っていると考えることです。

それが作られたものだと分かれば、それを大事に保存しようとすることに何の意味もないと分かります。それが潔い行動や考え方につながるのです。

自分というものを一つの固定した何かだと考えることから開放されると、とても気持ちのいい軽やかな感覚になることができます。

昨日までの自分など忘れて、いつもこの瞬間に起きることを見て、そのときにやってくることに明け渡すことです。それが潔い生き方なのではないかと思うのです。