無邪気な自分への帰還

自分がハイハイしている赤ちゃんの頃に、田舎の叔父さんが撮ってくれた白黒の写真があって、それはもう間違いなく56年前の写真なわけです。

その叔父さんはカメラが趣味だったようで、それを大きく引き伸ばしてくれていたのです。その写真の自分の姿というのは、あまりにも無邪気に笑っている幼い男の子なのです。

もちろん今の自分とは似つかわしくないのですが、でも心のどこかにわずかに、その頃のまったく屈託のない純粋だった感覚についての記憶があるようなのです。

あの自由さ、なにも怖がっていない、それこそ生まれたばかりの子犬のような人懐っこさ、そうした記憶のようなものがあるのです。

自分がここにいるなどという自覚は全くゼロで、ただただ楽しいし、嬉しいし、何もかもが興味深いという気持ちでいっぱいだったのでしょうね。

それがどのくらいの間続いたのかは定かではありませんが、いつの頃からか自分のことを恥ずかしいと感じることが起こったのです。

この恥ずかしさは幼い子供の人見知りそのものとは違います。明らかに、今まで無心に遊べていたはずが、なんだかそれだけではいられないような居心地の悪さを感じるようになったのです。

それがつまり、自分がここにいるという自覚の始まりです。それが、恥ずかしさというものを生み出してしまったのです。

もちろん、この自覚がなければ自我は発達しなかったわけですから、人として生きていく上で絶対的に必要なことなのです。

でもその代償は本当に大きかったといわざるを得ません。あれほど、屈託なく楽しい日々を過ごしていたはずなのに、自分がここにいると自覚した瞬間から生きることがぎこちなくなってしまったのですから。

ぎこちないというのは、不必要な力が身体や心に入ってしまうことです。それは、たとえようもないくらいに、重苦しいものを背負い込んだと言ってもいいかもしれません。

そうやって自我の成長とともに、大人になっていくのですが、実は私たちの人生でもっとも大切なことは、ここに自分がいるという自覚を持ちながらも、あの幼い頃の無邪気な心へと戻っていくことなのです。

私は是非それを叶えたいと思います。それも、ただあの感覚を思い出すだけで、できるような気がしています。それが人としての唯一の進化ではないかと思っています。