もしもあなたが、生まれてから今に至るまで一度も病気をしたことがなかったり、具合の悪い経験をしたことがなければ、自分の健康について知ることはできません。
自分以外の誰か不健康な人を見ることで、それと比較することでなるほど自分は健康なのだろうと理性で理解することはできますが、健康そのものの実感を得ることはできないのです。
あくまでも、不健康な体験があって初めて、自分の健康について真に知ることができるようになるはずです。こうしたことは、どんなことにも当てはまるのです。
あなたが自分はなんて幸せなのだろうと感じるとしたら、間違いなくこれまでに幸せではない経験をしているということになるのです。それなくして、どうやって幸せだと認識できるでしょうか?
幸せに違いないという判断を理性によって下すことだけはできるのですが、幸せな実感を得ることは不可能なのです。このようにして、対極の経験を通過することによってしか、それを直に知ることはできないということです。
だとすると、私たちの誰もが自分を肉体やマインドと同化する理由が分かるというものです。一度でも同化する体験をしなければ、非同化することができないからです。
非同化することによってのみ、私たちは自分の本質に気づくことができるのですから。つまり、この世界というのはその気づきのために欠くことのできないものだということです。
肉体やマインドと同化した自分がこの世界で生き、苦悩し、もうダメだというところまで人物としての人生を生き、その成り行きとして本質の自己への探求が始まるのです。
それは通る道なのです。エゴがあると思い込まなければ、エゴはないと気づくことができないのです。この世界とは一体何なのだろうとか、なぜ人は苦悩するのだろうと疑問を感じている人は沢山いるはずです。
けれども、それなくして誰も真実を思い出すことができないのです。真実とは到達するものではなく、この世界という非真実を通してようやく知るものだということですね。