究極の癒しとは無目的に生きること

セラピストとしての私の立場から言うのも何なのですが、心理療法などによる心の癒しというもの自体が、エゴの力を借りて行うものなのです。

なぜなら、困っている自分を何とかしたい、という思いそのものがエゴだからです。エゴは常に、自分をもっと改善したいと願っているのですから。

その強い気持ちがなければ、誰もセッションになどやっては来ないのです。このままではダメだというエゴの思いこそが、人を癒しの道へと誘うのです。

ですから、癒しの原動力はエゴということになるのです。そのエゴの力を借りて、セッションでは強力なエゴの力を弱めようとするのですから、若干矛盾している話しなのです。

強力なエゴの代表は、いい人、真面目な人、とにかく自分を何とかしたいと思っている人、人の評価が気になる人、野心家、苦悩している人、闘っている人、などが挙げられます。

一方、癒しによって弱ったエゴがどうなるかというと、自分を優先できる人、わがままを言える人、自己表現ができる人、のような感じの人になるのです。

要するに、癒しが進むと強い自己防衛が弱ってくるということです。それまで防衛に費やしてきた労力を他のことに使えるようになるのですから、それは当然楽な生き方ができるようになるということです。

そして、エゴの力が緩んできたら、今度はようやくエゴの力を一切借りずに癒しをするように変えていく必要があるのです。そうでなければ、それ以上の癒しの進化は期待することができないのです。

ここからは全く異なる癒しが待っています。それが、無目的に生きるということ。癒しのことも忘れ、自分を改善することも忘れ、そうして未来への期待を一切手放すのです。

目的があれば、そこには思考が入り込み、エゴが生き延びるチャンスを与えることになってしまいます。もしも、何かの目的のために瞑想するのであれば、エゴは健在であり続けるでしょう。

人生に何の目的も設定せずに、ただ生きることそのものが目的となるということです。それ以外にどんな目的も持たなければ、エゴは持ちこたえられないでしょう。

その成り行きとして、覚醒することになるのでしょうね。