一生の不覚かも

実は数日前にぎっくり腰になってしまい、ちょっと辛い毎日を過ごしています。スポーツクラブのお風呂の中にある、水風呂からあがった瞬間にそれはやってきました。

最近ちょっと疲労気味だなという自覚があったし、若いころから腰はあまりよくない状態だったので、それとなく注意はしていたのですが、やはりやってしまいましたね。

中学生の頃、部活でバスケットボールをやっていたからなのか、時々腰痛の自覚があったのです。高校に入ってそれが悪化して、医者でレントゲンを撮ってもらったら、背骨の中のどれかが一つ足りない?的な言われ方をしたことがありました。

何でも構造的に、腰痛持ちになりやすいのだとか。けれども、ぎっくり腰を初めてやったのは、45歳を過ぎてから。つまり、今の仕事をするようになってからなのです。

それがある程度はもう、クセになってしまっているのかもしれません。一昨年の12月にもなった記憶がありますし、その少し前にもなって、結構つらかったのを覚えています。

あの時には、ちょっとストイックなくらいに自分に意識を向ける作業をしていたので、心理的な原因はそこにあったと思っています。

今回ももしかしたら、心理的な要因は瞑想をやり過ぎているからなのかもしれないと思っています。あまりにエゴが嫌っていることをやり過ぎると、しっぺ返しを食らうのです。

まだまだエゴの力はそれほど衰えてはいないようです。とはいうものの、腰が痛いくらいで大好きな瞑想をやめるわけにもいきません。

勿論、それなりに続けてはいるのですが、やはり?と言うのか、いつものあのフワ~っとした感覚がなかなかやってきてくれないのです。

私的には、あれはきっと脳内に快感物質がドバっと分泌された瞬間なのだろうと推察しているのですが、もしかしたら腰の痛みを緩和するために快感物質が使われてしまって、脳の方に回ってこれなくなっているのかなと。

いずれにしても、何があっても瞑想は続けていくのです。あれほど全的にくつろげるスペースは、他にはないからです。あの暗闇に溶けていく感覚は、なにものにも代えがたいのです。

よく酒飲みが、お酒を飲めない人に向かって、それは一生の損だとうそぶくことがありますが、同じように瞑想の習慣のない人に向かって、瞑想の静寂を知らないなんて、一生の不覚だと言いたいですね。