意識の本質は鏡のようなもの

osho の講話から

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意識の本質はただ鏡であることだ。鏡自身にはどんな選択もない。何であれ、前に来たものが映される。善いものも、悪いものも、美しいものも、醜いものも、どんなものでもだ。

鏡に好き嫌いはない。それは判断しない。それは非難をしない。意識の本質は、その源においては、まさに鏡に似ている。

意識が分断され、鏡のようではなくなった時、それは思考(マインド)になる。思考(マインド)とは割れた鏡だ。根元では、思考(マインド)とは意識だ。

人が分け隔てするのをやめたら、二つに分割するのをやめたらーーあれに反対し、これを選んだり、これが好きで、あれが嫌いだったりーーもし人がこれらの分割から抜け出したら、思考(マインド)は再び一枚の鏡に、純粋な意識になる。

だから求道者にとっての努力のすべては、どうやって意見を、哲学を、好みを、判断を、選択を落とすかにある。しかも、それ自体がひとつの選択になるようではいけない。それが問題なのだ。

では、なされるべきことは何か。単純だ。理解が必要なのだ。何ひとつなされるべきではない。究極は努力によってではなく、理解によって達せられる。

どんな努力も人をそこに導くことはない。なぜなら、努力とは常にこの二元的思考から来ているからだ。ただすべての状況に対して、油断なく覚めているしかないのだ。

もし、油断なく覚めていたら、一瞬の啓示のもとに、思考(マインド)は落ちる。突然、あなたは鏡のような意識とひとつになっている。
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