私たちは、生を何十年も生きて、その後突然のように死がやってくると思っています。けれども、よく考えてみれば分かることですが、生まれたときにはすでに死につつあることが開始されるのです。
生まれたからには死ななければなりません。これが二元性の世界のルールです。生まれた瞬間に、死ぬことが決定してしまうということ。
オーバーに聞こえるかもしれませんが、これは事実です。受胎したときから死がスタートして、この世に生まれ出るときにはすでに、約10ヶ月分は死のイベントへと近づいているのです。
私たちが通常イメージしている死とは、死の最終的なイベントのことであって、死そのもののプロセスは生の初めからずっと継続しているのです。
もっと正確に表現するなら、今生の死のイベントを欲望を持って迎えてしまうなら、その死の瞬間に来世へと生が継続することとなり、来世の死も同時に約束されるというわけです。
こうして見てみると、死は生の中にしっかり組み込まれているということ。最期のイベントが目立っているので、そこばかりにどうしても目が行ってしまいがちですが…。
生は死によって生として在ることができ、また死も生によって在るのであって、互いに相補的な関係にあるのですから、生の方ばかりに注意を向けて生きるのは不自然なのです。
今日を十全に生きれば、それは一日の死がやってくるでしょう。そして、次の日はまた新たな生を生きることができるのです。そうすれば、誰も過去に興味を持たないはず。
一方不十分な生は、それを成仏させることができずに溜まっていくのです。そうすると、終わったはずの過去がいつまでも本人に襲い掛かって、今日という生を台無しにしてしまいます。
一日一日を生きて、死ぬことができれば、最期の死のイベントのときにはどんな欲望も消えてしまい、生と死の輪廻から永遠に抜け出ることになるのでしょうね。