人を騙しても自分を騙すな

何とも過激?なタイトルだと感じた人もいるでしょうね。それは勿論、他人を騙すなどということは間違ったことですし、それを奨励するつもりは決してありません。

けれども、仮に誰かを騙してしまったとしても、してしまったことを反省して、もう二度とそのようなことをしないと誓うことは、それほど難しいことではないと思っています。

改心すればいいわけですから。あるいは、仕方なく誰かを騙すことになってしまっただけかもしれませんね。その自覚がありさえすれば、それを正すことは比較的容易なのです。

ところが、自分を騙してしまうと、思いの外とんでもないことになってしまうのです。それは、一度自分を騙してしまえば、騙している自覚も騙されている自覚もないために、いつまでも続くことになってしまうからです。

だからこそ、決して自分を騙すようなことだけはしてはならないと訴えたいのです。ではなぜ、人は時として自分を騙すことになったりするのか?

それはいたって簡単な理由です。自分の自覚があるままでは、とてもつらくて耐えられそうにない場合、自分で自分を騙して気づかないようにしてしまうのです。

そうすれば、額面通りの苦しみから解放されたかのようにして、生きていくことができるのです。幼い頃は、大人よりも弱い立場で生きているので、環境を変える力もなく、結果として自分を騙すことが一番簡単なのです。

自分の気持ちを分からなくしてみたり、自分の感情を正直に感じることができなくしたり、理屈によって本音を抑え込んだりといったことをするのです。

そうした生き方を始めてしまえば、大人になっても知らず知らずのうちに自分を騙し続けてしまうのです。その結果、本当の自分が抑圧されてその限界を迎えれば、お決まりのウツや感情爆発、そして激しい問題行動という形となって、本人を襲うことになるのです。

自分の内面を深く見つめる以外に、自分騙しを見破ることは難しいと思った方がいいですね。疑わしいという場合には、セラピストの力を借りることも必要かもしれません。

あなたも私もない世界

物心ついたころから、ずっと自分は自分の体験ばかりを続けてきたのですが、でもなぜ他の誰かではなくて、あくまでもこの自分なのだろうか、と思ったことはありませんか?

子供の頃は純粋なので、こんなバカげた?ことをちょっと真剣に考えたりするのです。大人になっても、こうしたことを不思議に感じたとしても決して悪いことではありません。

このようなシンプルな疑問こそが、実は真実の方向に目を向けていることにもなるのですから。実際、ずっと自分を続けているというのは、思考によって作られた錯覚なのです。

アニメは、静止画を高速で切り替えていくことで、あたかも動画のように見えるようにしているのですが、ある意味それと同じようなことがこの世界でも起きているのです。

私たち自身は継続しているわけではなく、瞬間瞬間に起きていることが、連続した流れのように見えているのです。人生という流れがあるわけではないということです。

つまり、自分がずっと自分をやっているというのは幻想なのですね。次の瞬間、他の誰かであってもいいし、オランウータンでもいいのですが、そのことに気づく術がないだけです。

一人ひとりに個別の中身があるわけではないからです。あなたの身体と、その周りを取り囲んでいる空間との境目などというものも、実際には存在しません。

この宇宙には、どんな境界もありません。すべてが有機的な一つの統合体なのです。だから、私はあなたであり、あなたは私でもあるのです。

問題行動と発達障害

このブログでも何度もお伝えしていることですが、ありのままの自分からかけ離れた不自然な生き方をすればするほど、ヤダ~!!という本音を抑圧してしまいます。

そしてそのエネルギーが限界を超えると、一挙に表舞台に出て来て、感情が爆発したり、無気力&疲労感のようなウツ症状がやってきたりするのです。

それと同時に、必ず「問題行動」も発生します。問題行動は、自分ではどうしてそういう行動をするのか分からないために、一般的に常態化してしまうのです。

オネショや不登校、その他のあらゆる問題行動の原因に本人が気づかなければ、いつまでもそれを繰り返してしまうのです。

そうした問題行動の中でも非常にやっかいなのが、自分の能力を使えないようにするというものがあります。つまり、能力があるのに本人にとっては「できない」という状態が続くのです。

他の誰もがごく普通にできるようなことを、自分はできないために、もしかしたら発達障害なのかもしれないと疑うこともあるかもしれません。

実際に、幼い頃に両親などから厳しくルールを与えられてコントロールされたりすると、自分は自由にしていてはいけないのだとして、脳の発達を抑制してしまうといったことが起きるのです。

なぜ自分は人並みに物事をこなすことができないのだろうと悩むことがあるのでしたら、問題行動をまず疑うことです。そして、充分に癒しを進めて行くことです。

その上で、冷静な精神状態においても、やはり一部の能力が欠けていると感じるのでしたら、その時には初めてその部分についての発達障害があると考えるべきです。

問題行動と発達障害による不具合とは、混じりあっていることが多いものです。まずはしっかりと癒しを進めていくことから始める必要があると思います。

すべてはオートマチック

私たちのこの社会においては、一人ひとりの個々人がそれぞれに自律的な存在として生きて、相互に活躍することによって成り立っています。

というか、そう思っているのですが、実はそうではありません。もしも、自分には○○ができると思うのでしたら、それが本当のことかどうかを疑ってみることです。

例えば、私は○○の仕事ができる、私は○○という唄をカラオケで歌うことができる等々。では、仕事をするときに、どのようにしてそれをこなしていくのか、詳細に見てみて下さい。

その一つひとつは実は自動的に行われているということに気づくはずです。カラオケに行って、ある曲を熱唱するときに、具体的にはどのようにして声を出すことができるのか?

自分の身体の無数にある細胞が有機的に結びついて、あなたの声帯を震わしたり、タイミングよく呼吸をしたり、耳から聞こえる自分の声の音程を調整したりするのです。

食べること、眠ること、歩くこと、そのどれをとってみても、どうやればそれを成し遂げることができるのかを、詳細に説明することができる人など、一人もいないのです。

私たちは、自分の独自の力によって、培った能力を駆使することで、したいことを自らすることができると勝手に思い込んでしまっているだけなのです。

そう思い込むことでエゴが存続することができるからですね。けれども、エゴは架空のもの、思考の産物に過ぎないのですから、そのエゴに何かをすることなど不可能なのです。

誰かが何かをしているという物語は、エゴにとって確かに魅力的に映るのですが、残念ながらそんな物語はエゴが作った思考の中にしかありません。

実在するものではないということですね。それなら、何が起きようとそれはそういうことなのだとして、ただ観ることです。すべてはそのようにあるがままに、自動的に起きるだけなのですから。

あなたには決して人を傷つけられない

どんなことが起きても、自分は被害者ではないと気づくことができるなら、人生はまったく違ったように見えて来るのでしょうね。

被害者になるためには、外側に加害者がいる必要がありますね。そして、自分はその加害者に傷つけられたと実感しているのです。

けれども、外側の世界というのは自分の内側の投影に過ぎないということが分かれば、表面的には傷つけられたように見えても、実はその原因となるものが自分の中にあったということです。

実際、自分の内面を傷つけられるのは、自分以外にはありません。自分の思考、自分を守りたいと考えているエゴこそが、唯一自分自身を傷つけることができるのです。

外側にいる他人は、そのきっかけを単に与えてくれているだけだということ。自分だけが自分を傷つける可能性のある存在だということです。

このことを深く深く理解するに至るなら、立場を逆転させて、自分はどのようにしても相手の心を傷つけることはできないのだということにも気づくことができるのです。

その人の心が傷ついたとするなら、それはその人のエゴこそが傷つけた張本人であり、あなたの言動が何であれ、それは単なるきっかけに過ぎなかったのです。

大勢の人が、誰かを傷つけたとして罪悪感に苛まれているのです。教会で行われている懺悔こそ、まったくのお門違いなのです。

あなたはあなたのままでいいというのは、そういうことです。人を傷つけないようにと必要以上に気を使って生きるなら、間違ったところにエネルギーを使ってしまっているということです。

瞬間ごとに言葉の意味は変わる

人が人に何かを伝えようとするとき、勿論ウソではなく真実を伝えようとするはずなのですが、残念ながら真実を言葉で伝えることは不可能なことです。

言葉は思考だからですね。けれども、大切なことは真実を言葉に乗せて伝えようとすることよりも、如何にその言葉が役に立つかという点です。

その言葉が聴く側にとっての大切な気づきを喚起するのでしたら、たとえそれがウソであろうと構わないのです。もっと大胆に表現するなら、どんなウソでもいい加減な内容でもいいのです。

結果として、聴き手のマインドに新しい何かが起きて、それによって今まで気づくことのなかった新たな洞察がやってくるなら、それこそが最大の成果なのですから。

その過程で、どれほど嘘つき呼ばわりされようが、否定的な評価を与えられようが、そんなことはただの一過性のことであって、取るに足りないことなのです。

伝えようとすることは、聴き手がどのような状態にあるかによって、表現方法、言葉がまったく変わってしまうことも確かにあります。

それはもう仕方のないことです。だから、昨日の言葉と今日の言葉が正反対の意味を持ってしまうこともありうることなのですね。

言葉はその瞬間の状況に最も役に立つものを選ぶ必要があり、その次の瞬間にまた別の表現方法が適しているという可能性だってあるのです。

聞き手にとって一番大事なことは、言葉を言葉として聴くのではなく、相手が何を言わんとしているかという点に注意を向け続けるということです。

存在の価値には違いがない

お昼少し前の時間に、ガラガラの電車の中で席に腰かけて、その駅を出発するまでの数分を待っていたときのことです。腰の曲がった高齢の女性と盲導犬が車内に入ってきたのです。

以前にも何度か見たことがある光景なのですが、実はそれは車内が空いている時間帯を利用して、訓練をしているところなのですね。盲導犬の訓練ではなくて、利用者さんの方の訓練です。

脇には訓練士さんも一緒にいるのですが、きっと利用者さんが盲導犬と上手にコミュニケーションをするための訓練なのです。

犬の方は、しっかりと訓練を受けていつでも本番を迎えることができる状態にあるのだろうと分かるのです。その健気な態度には本当に驚かされます。

ところが、利用者さんはまだ慣れていないからなのか、余裕がないような感じで、私が見た感じでは犬に対しての敬意とか優しさのようなものが欠けているのではと感じたのです。

利用者さんが座席に座るやいなや、犬はその女性の足元と座席の狭いすき間にすかさず身をおいて、少しでも小さくなっていようとして伏せているのです。

それなのに、位置が気に入らないのか、利用者さんが犬のお尻をぐいぐい手で押すものだから、犬はどうしたらいいのか困った表情になっていて…。

一瞬、涙が出そうになったので目を背けてしまったのですが、人間と犬を比べることは勿論意味のないことですが、何だかその犬の賢さが異常に目立っていましたね。

きっと盲導犬になった犬は、ストレスが非常に多い人生を生きることになるのでしょう。人間様の役に立つのなら、犬も本望だろうとは、とても思えない瞬間でした。

人間だろうが、ほかの動物であろうが、何であれ存在としての価値にはどんな違いもないのですから。

より深い理解が人生に深みをもたらす

世の中には、「自分にはこれと言った問題はない!」と思って生きてる人もいるのでしょうね。すごく苦しんでいる人からすれば、何と羨ましいことかと思うかもしれません。

けれども、特別何も問題はないというのは、実は目に見える物理的な事柄に関して言っているのだということです。お金もあるし、仕事もある。彼女もいるし、趣味も楽しんでいる。

困ってしまうような悩みもないし、友達もいるし、寂しくもない、というわけですね。こういう人は、内面に目を向けていないのだろうことが、透けて見えるのです。

本人が幸せだと言っているのだから、それに対して何かを言う立場では全くありません。ですから、ご本人には何も言う必要もないのです。

ただし、誰であれひとたび内面に深く気づくようになるなら、外側の幸不幸が薄っぺらな一過性のものに過ぎないということにも気づいてしまうでしょうね。

私たちは、自分が一体ナニモノなのかを知らずに、あたかも知っているかのように装って、だましだまし生きているのです。

自分の本性を知らずにどうやって真に満ち足りることができるでしょうか?マインドは、知らないということに耐え切れずに、その事実を隠しているのです。

勇気をもってそこに切り込んで行くことができるなら、人生という表層を生きながらも、深淵の理解を探究していくことができるのです。

それが正しいということでは勿論なく、どんな人生でもOKなのですが、より深い理解こそがより深い味わいのある人生を生きることに繋がるということも事実なのです。

悪戦苦闘を好む自分

一般的な常識として、自分の内面の状態と、外側にどんなことが起きるかということとは、何の関連もないと考えられていると思います。

けれども、マインドがゆったりとして、のんびりモードのときには、外側でもあまり緊急の事態がやってくるということはないかもしれません。

あるいはその逆に、マインドがセカセカとしていて、あれもこれもやらねばならないと思っていると、それに被せるように更なる事態が起きて来たりするのです。

まるで、マインドの状態と外側で起きる事象とが同期しているかのように…。理性ではまさかと思うものの、多くの人が何かしら似たような体験をされているのではないでしょうか。

思考が現実を生むと言われるように、思考によって起きて来る内面的な気分や気持ちなども、現実を作ることに一役買っているのかもしれません。

だとしたら、何が起ころうと、ゆったりと構えて、敢えてその事態を見守るようにすることができるなら、必要以上の悪戦苦闘を作り出すこともなくなるはずです。

実際に試してみると、確かにマインドが静かであれば、周囲の状況も何となく静かな感じになってくるのです。そして、それまでは身体のどこかに力が入っていたことや、呼吸が浅くなっていたことなどにも気づくことができます。

ただし、そこでまた別のことに気づいてしまうのですが、それはある種の悪戦苦闘?を好んでいる自分もいるということです。そういう自分のことも、優しく見守ってあげることができるといいですね!

相手の反応に惑わされない

人とのコミュニケーションにおいて、繊細な人、あるいは不安を強く持っている人、そしてその両方に該当するような人の場合ほど、自分の発言よりも相手の反応に重点を置いているのです。

つまり、バランスの悪い人ということになりますね。コミュニケーションには、主体としての自分からの発言と、それに対する客体、つまり相手からの反応とがあります。

一般的には、自分の発言と相手の反応が50対50であることがいいとされていますが、私は個人的には80対20くらいでちょうどいいと思っているのです。

つまり、自分の発言に重点を置いて、相手からの反応にはあまり頓着しなくていいということです。このように書くと、何だか自分勝手な空気読めない奴のようになれ、と言われている気がするかもしれません。

けれども、こう言うにはそれなりの理由があるのです。それは、相手からの反応というのは、自分には無関係だからなのです。

私たちは、普通自分の発言が原因となって、それに対して結果として相手の反応があるのだと思い込んでいますが、本当はそうではありません。

相手の反応というのは、相手自身のそれまでの人生の総決算として独自の反応を返してきているのであって、自分の発言は単なるきっかけに過ぎないということです。

繰り返しますが、自分の発言は相手の反応を起こすきっかけに過ぎず、相手がどのように反応するかは、相手の過去の中にこそ原因が潜んでいるということです。

だから、相手がどのように反応しようと、自分には本当のところどんな責任もないということです。もしも、あなたが本当に伝えたいことを相手に言って、その結果として相手が憤慨したとしても、あなたにはどんな責任もないということです。

繊細で、大きな不安を抱えている人ほど、相手に否定されたくない、嫌われるのが怖いと思っているために、相手の反応にばかり神経を使うことになってしまうのですが、それはとんでもないお門違いなことだと気づくこと。

相手の反応に一喜一憂する面倒な人生から卒業して、気持ちよく無防備に言いたいことを発信できる人生へと転換できるといいですね。