「終わりよければすべてよし」は今すぐ可能

「終わりよければすべてよし」という言葉がありますね。いろいろ大変なこともあったけれど、今考えるとそれもすべてOKと言える、のような感じでしょうか…。

狭い捉え方をするなら、たとえばテニスの試合で、何度も負けそうになったのに、結果としてフルセットの死闘の末に勝利するというのも該当します。

けれどももっと大きなレベル、たとえば人生レベルで考えたなら、若い時には大変な苦労をしたのだけれど、年老いて過去を振り返った時に、満足のいく人生だったとか。

都合の悪いことが繰り返し起きたけれども、今では希望が叶って幸せな人生になっているということもあるかもしれません。

けれども私が理想としている、終わりよければすべてよしというのは、希望が叶う人生というよりは人生が終わるということを穏やかな気持ちで受け入れられる、そんな感じですね。

どんな都合の悪いことが起きたのかとか、どれほど願いが叶ったのかといったことではなくて、「私」が消えて行くことを静かなマインドと共に立ち会うということ。

それができるなら、それこそが本当の意味での「終わりよければすべてよし」なのではないかと思うのです。

そしてそれなら、きっと可能だろうということが今この瞬間でもわかるのです。多分それはいかなる瞬間でも成立するマインドのあり方だからなのでしょうね。

マインドの外に「私」はいない

この世が何からできているかをじっくり感じて見ると、それは過ぎ去っていったものと、これから来るであろうものからできていると分かります。

つまり過ぎ去っていったものとこれから来るであろうものとによって、あなたが毎日生きている物語が作られているということ。

もしもこれらの二つが無くなってしまったら、物語は存在することができないのです。ということは、今この瞬間にはどんな物語もないということです。

物語は過去と未来からでっち上げられるのですから。したがって、物語から抜ける唯一の方法は、今この瞬間に気づいているということ。

今この瞬間に意識を向けていることができるなら、あなたは物語の外にいられるのです。それは、あなたのマインドの外に出ていることにもなるのです。

マインドの中身は、過ぎ去っていった過去と、これから来るであろう未来の二つでギッチリ詰まっているのですから。

そしてマインドの外には、ものすごく馴染み深いものになってしまった「私」もいないのですね!

思考に独自性はない

昨日のブログで、思考は外からやってくるということを書きました。要するに、これは自分の考えだといった独自性はまったくないということです。

そのことをベースに分かってくることがあります。人それぞれに、考え方の傾向のようなものがありますね。独自性がないのであれば、そうしたことはどう説明すればいいのでしょうか?

実は、やってくるあまたの思考エネルギーのうち、どれを取得してしまうのかというのは、その人がこれまでに取得してきた思考によって決まるのです。

たとえば、ネガティブな傾向の思考を多く溜め込んでしまった人は、その思考エネルギーが似たようなネガティブなエネルギーの思考を選別して取り込むということです。

エネルギーの共鳴、エネルギーは友を呼ぶということです。また取り込んできた思考の量が多ければ多いほど、取り込む吸引力も増大するのです。

そのため、考えてばかりいる人ほど、より多くの思考を更に取り込む傾向が強くなるわけです。このようにして、悪循環と好循環が生まれます。

瞑想的に生きることができれば、普段から思考を使わずに生きることができるので、外からやってきた思考を取り込みにくくもなるのです。

思考を取り込まないためには、ふと浮かんだ思考(=外から取り込んだ思考エネルギー)をただ見ているようにできるように練習することです。

osho の言葉を借りれば、あなたがその身体の主人であり、思考は外からやってきた客なのです。その客こそが「私」というエゴなのです。

思考は外からやってくる

私たちの習性として、身近なものほど気付きにくいということがありますね。今日は思考について書こうと思います。

思考ほど、自分に身近なものはないのではないかと思うのです。こうしてブログを書いているときに、一番活躍しているのも思考なのですから。

その思考に入り込んでいるときには、そのことに気づけなくなってしまっているのです。そればかりか、私たちは本当には思考の素性を知らないのです。

ある考えが浮かんだときに、これは自分が考えたことだと感じています。これは自分の考えであって、あなたの考えではないと感じるのです。

つまり、思考には名札がついていて、私の思考、あなたの思考というふうに、思考には生みの親がいると感じているのです。

けれども、思考の正体とは、他のすべてのものと同じようにエネルギーの一種なのです。そのエネルギーは外からやってくるのです。

あなたオリジナルの思考などというものはないということ。脳によって、独自の思考が生み出されると思い込んでいるのですが、それは間違いだということ。

もしもやってきた思考をただ見ていることができるなら、それはあなたの中に留まったりせずに、ひとりでに出て行くのです。

なぜなら思考はあなたのものではないからです。それを捉えて、巻き込まれてしまうことで、マインドが思考だらけになってしまうのです。

思考を見ていることができるなら、きっとこのことがもっと深く理解できるようになるのでしょうね。

 

認識が物語を生み出すベース

昨日のブログで、この世界の物語性を見抜くことについて書きました。今日はそれをもっとはっきりさせるために、具体的にはどういうことなのかを書こうと思います。

物語性とは時間の中にしか存在しないものです。それはプロセスだからです。一連の流れのようなものが必ずあるのです。

連続性と言ってもいいかもしれませんね。その連続性に何らかの意味を加味させることで、物語性が生み出されるわけです。

たとえば、目の前に一本の川が流れているとします。その川を見て、静かな流れだなとか、どこまで流れて行くんだろうなどと考えることで、物語性が生まれるのが一つ。

そしてもう一つは、実は目の前に一本の川があると思った瞬間に、もうすでに物語の中へと入っているということです。

この二つ目については、なかなか分かりづらいかもしれませんが、よく見れば分かることです。川がそこにあるというのは、一つの思考なのです。

それを川だと認識しているからです。この認識こそが、私たちが普段決して気づくことのない物語性を作り出すベースとなるものなのです。

この自動的にマインドの中で起きる認識を止めることは至難の技です。したがって、まずは認識することから物語性を生み出す作業は始まっていることに気づくことです。

それができれば、認識することの後にやってくるマインドの反応にいつも気づいていられるようになるのです。こうなれば、物語はずっとシンプルになるはずです。

この世界の物語性を見抜く

このブログでも何度も書いていることですが、人生を物語として見る目を養うことがとても大切なことだということ。

このことをもう少し丁寧に表現すると、物語の素材を形成しているのは私たちのマインドの中にある思考なのです。

思考は時間経過と共に働くある種のプロセスであり、そうした単純な思考素材が寄り集まって、複雑に絡み合うようになるのです。

その思考群を外側の世界に投影することで、この世界や人生を物語のように作り込むのです。つまり、マインドという物語がそのまま投影されて人生となっているのです。

ところが、私たちは思考群であるマインドと深く同化してしまっているために、投影していることに気づくことができなくなってしまったのです。

それで、人生の物語性に気付きにくくなったというわけです。自分が日々見ている外側の世界は単なる現象界なのです。

マインドはそれに物語性を付加して、マインドそのものが見たい世界を作り上げているというわけです。そこにあらゆる喜怒哀楽の土壌があるのですね。

世界や人生の物語性を見抜くことができるなら、それはそのままマインドとの同化をも見抜く力を持つということです。

その結果、人生もその中で生きている「私」も、どちらもが架空の存在であるということに気づくことになるのです。

過去を忘れようとする必要も、覚えておこうとする必要もない

「明るい未来に向かって生きていく」という良さげな言葉がありますね。何だか無限の可能性が待っている未来に羽ばたこうとする若者のイメージが出てきます。

けれども、この言葉を聞いて、よ~し!と前向きな気持ちになるなら、そこにはきっと落とし穴が待っているのです。

というのも、未来を意識するときには必ず過去がベースにあるからです。過去のことを後悔するから、それを断ち切って未来へと向かおうとするのです。

間違いを反省するなら結構なことですが、後悔するならエゴの思う壺です。子供の頃に、かつての戦争の話や映画を見せられたことがありました。

そのときに、悲惨な過去の過ちを忘れずに、二度と戦争を起こさないためにも、戦争を知らない世代に対して、いい伝える必要があるといったことをよく聞いたものです。

人間というのはこんな馬鹿げたこともやるときはやるんだという事実を知ることには、意味があるかもしれませんが、どうも自分には違和感がありました。

過去にこだわるからこそ、過去を忘れようとするし、後悔するからこそ忘れてはいけないということになるのです。

過去も未来も、思考の中にだけあるものと理解すれば、思考から抜けてなお存在する目の前に今あることに、100%意識を向けることができるのです。

そのときに、後悔も未来への不安も同時に消えていくのですね。過去を忘れようとする必要もないし、過去を覚えておこうとする必要もないのです。

「考える葦」である自己を見ること

かつて誰かが、「人間は考える葦だ。」ということを言ったらしいですね。人間はか弱い葦のようなものだけれど、思考することができる偉大な存在だという意味でしょうか。

確かにこれほど緻密に思考を巡らして物事を考えぬく存在は、少なくとも地球上には他にいないわけですね。とにかく、思考、思考、思考で生きているのです。

けれどもその代償はとてつもなく大きなものです。残念ながらそれは喜びではなくて、苦悩なのです。考えることで他の動物を寄せ付けないくらいに大きな苦しみを持つことになったのです。

ただし、間違ってはいけないのは、思考そのものが悪いわけではありません。思考に乗っ取られていることこそが問題なのです。

思考は非常に便利なツールに過ぎません。思考によって、科学が発展したり、より便利な生活を手に入れることができたのも事実です。

その思考の一番奥の部分に、「私」がいるという思考を作ってしまったことが、苦悩の原因なのです。それを排除した状態であれば、いくら思考を使っても何の問題もないのです。

無防備でいられるからですね。「私」がいるという思考が根っこにある限りは、思考を自己防衛のために使ってしまうから、人生が複雑怪奇になっていくということです。

「考える葦」である自己を絶えず見ていることができれば、どんな問題も消えていくでしょうね。

すべては〈存在〉の手中にある

この宇宙、この世界、この人生のすべてが〈存在〉の手中にある、そんな感じがするようになって、生きる感覚が大きく変化しました。

それがやってきたのは、この仕事をするようになってから数年経った頃だと思います。それまでは、最終的には自分という個人の頑張り次第で、人生は展開していくと思っていたのです。

それが当たり前だし、誰もが同じようにそうした感覚で生きていると思い込んでいたのです。だから、自分の思い通りになれば、すごく嬉しい反面、うまくいかなければそれを悔やむのです。

喜びが大きければ、それだけ真逆の後悔も大きかったわけです。けれども、すべては〈存在〉によってコトは起きていると実感することで、ブレずに済むようにもなったのです。

確かに以前のような大きな喜びや、自負のようなものはなくなってしまったのですが、同時に過去を悔いたり、自己否定するようなことも非常に小さくなったのです。

物事に対して反応は相変わらずするのですが、反応している時間がとても短くそして浅くなったという感じがしています。

過去の自分より今の方が正しいということは言えないのですが、アップダウンが少なくなっただけ楽であることは間違いありません。

〈存在〉を信頼することができると、自分に対して自信があるとかないとかいうことがどうでもいいことに思えてくるのです。

なぜなら、主役は自分ではなく、〈存在〉だと分かっているからですね。もちろん自分もその〈存在〉の一部ではあるのですが…。

歳を重ねて女子力アップ!?

最近のブログでは、しばらく癒しについて書いてないなあという自覚があって、今日は久しぶりに何か書いてみようかと思って、浮かんでくるのを待っていたのですが…。

質問していただいたら、きっと答えることはできるのだろうけれど、何もないところから自力で書こうとしても、本当に浮かんでこない。

ちょっと思いついて、かつてコラムとしてHP上に掲載したものを改めて読んで見たのですが、自分でいうのもあれですが、随分と真面目に書いたんだなと。

一つの文章がやたらと長い。今そんな長い文章を書けと言われても、なかなか書けるもんじゃないという気がします。

そういう意味では、ブログというのは本当に気楽に書けるからこうして続いているんでしょうね。書きっぱなしというのがいいらしいです、いい加減な自分にとっては…。

で、やっぱり今日も内側にあるものを表現しようとすると、分離はないとか、「私」というのは実在していないとか、常に意識的でいること、などになってしまうのです。

日々が淡々と過ぎて行き、以前にも増して非活動的になっていて、人が見たらある種老人のような毎日を送っていると思われても仕方がないかも。

そのくせ、今日はずっと部屋に篭って確定申告の書類をやっつけるというエネルギーもあったのです。今月の15日からの受付なので、妙に先走っているのも以前の自分とちょっと違うのです。

笑えるのですが、歳を重ねるとこれまで皆無だった自分の中の女子力?が現れてきたりして、洗濯物を手際良く畳んだり、レジ袋を六角に折ってしまったり、面白いものですね。