「寛いだ注意深さ」とは?

私たちは雑念に飲み込まれている時には、決してリラックスして寛いでいることができなくなります。自然とアドレナリンが分泌されて、一種の戦闘態勢のようになるのです。

そして同時に、意識的でいることも難しくなってしまうのです。何かの一点に集中することはできるかもしれませんが、今この瞬間に気づいていることはできないのです。

覚醒に至る質というのは、この寛いでいるということと、全方位に注意深くあるということの両方が同時に起きている必要があるのです。

どちらか一方だけでは足りないのです。たとえば、寛いでいるというだけなら、無邪気な幼子や動物であれば、たやすいことです。

猫がゆったりと寛いでいる姿を見ることはあっても、彼らは常に無意識的な状態なのです。だから猫は覚醒に至ることはできません。

また猫が獲物を捉えようとして、微動だにせずにそれに集中している姿を見ることもできますが、やはりそこに気づきはないのです。

一心不乱に何かに没頭できると、自然と雑念が消えてくれるので、その後の気分も比較的良くなることが多いのですが、残念ながらそれはただの集中なのです。

この寛いでいることと注意深くあるということの双方が同時に起きる時に初めて、私たちは覚醒の何たるかを実感することになるのでしょうね。