自我の本性は惨めさ

もしもあなたが汗だくのままの身体で、クールに着飾り周囲に賞賛してもらえたとしても、気持ち悪さがなくなるわけではありませんね。

一刻も早く服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びたいと願うはずです。私たちの奥深くではずっとこれと似たようなことが起きているのです。

素敵な服を着るということは、外側から何か自分が望むもの、欲しいと思っているものを手に入れるということです。

その瞬間は大喜びできるのですが、所詮はやっぱりシャワーを浴びたいがやってくるのです。一時は忘れることができたとしても必ず思い出すのです。

私たちが自我として生きている限り、あの汗だくのベタベタ不快感がずっとまとわりついているのです。

自分を洗い流したいと感じるのは当然のことで、広大無辺の本性を忘れて小さな身体の内側だけが自分だと勘違いしているのですから、気持ち悪くて当たり前なのです。

その気持ち悪さは自我の本性であり、より正確な言い方をすれば「惨めさ」として表現できるのです。

あなたがどれほどのものを手に入れたとしても、その中心に惨めさがあり続ける限り、満たされるはずはありません。

惨めさを何とかしようと外から何を手に入れても無駄なのです。要するに、自我という惨めさは単なるイメージであると見抜くことですね。