心静かにしていれば見えてくるもの

次の osho の言葉をしみじみ味わえるといいですね。

『在るそのもの
行為のなかの無為
動中の静
変化のなかの永遠
–それが<真理>だ
そして、それが<存在>なのだ
真の生はその永遠のなかにある
他のいっさいはただ一連の夢にすぎない』

何を言っているのかというと、私たちが日々目にしている事象、毎日体験している出来事や物語は、作り物だということ。

<存在>はその背景のようなものだと。別の言葉を使えば、より高次元へと遷移すればするほど、<無>へと近づいていく。

より抽象度が高くなるということでもありますね。私たちが存在していると錯覚している物理次元とは、抽象度が最も低い二元性の世界。

逆に言えば、最も抽象度が高くなれば、そこには表現できる何ものもなくなります。それが<空>でもありますね。

瞑想せずとも、ひとり心静かにしているだけでその感覚を垣間見ることができそうです。自我にとってはそれが魅力的には感じられないかもしれませんが。

こうした感覚、このような境地というのは何かしらの苦境に立たされていたりすると、どうしてもどこかへ消えていってしまいます。

つまりは自我のエネルギーが強くなればなるほど、かき消されて分からなくなってしまうのです。微かな芳香が、台風の嵐でかき消されるように。

けれども、嵐もいずれは過ぎ去って穏やかなエネルギーが戻ってきてくれるのですから、その時を待つということができればいいのでしょうね。

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