何が起きてるように見えても、そう見えるだけ!?

アメリカでは、とうとう政府?がUFOなどの存在を公表し始めたようですね。これまでずっとひた隠しにしてきたのに。

来年早々、トランプ氏が大統領に就任してさらに本格的に隠されてきた情報が開示されることになるのかなと。

そして、そろそろ宇宙人さんとのオープンコンタクトが、現実の話になりつつあるというまことしやかな話も出てきています。

いやあ、地球の今後が非常に楽しみになってきました。どうも世界的に日本は今後重要な役割を演じることになるらしいですね。

こうした界隈の話が大好きで、考えると本当にワクワクしてくるのですが、その一方で非二元の話の何と地味なことか。

宇宙人さんたちが UFO に乗ってゾクゾクやってこようが、どうあろうがそんなことは何も関係ないのです。

だって、宇宙はないし地球はないし、人間がいるように見えるのですからもちろん宇宙人さんがいるように見えてもいいわけで。

少し前のように、実体があるかのように見えるこの二元の世界で、面白おかしく人生を謳歌するのもいいのではないかと。

ただねえ、幻は幻であって、その幻を見ている誰もいないってことに気づいてしまうとねえ。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

これ以上ないくらいに単純なこと

目の前にある様々なものを見ている時、私たちは絶えずそのもののこちら側の部分だけを見ているというつもりになっています。

このことに気づいているでしょうか?たとえば、人と対面している時には、その人の後頭部や背中を見ることはできません。

けれども、100%当然のようにその人の頭の後ろには後頭部があって、背中があって、というのを勝手に想定しているのです。

冷静に考えてみれば、目の前にいる人の体のうち、見えている部分はほんの一部でしかないということになるのです。

もっと言えば、その人の身体の内側なんて丸切り見えないわけです。内臓や筋肉や骨や脳味噌など、全部見えないけれど、間違いなくあると信じています。

このようにして、私たちは実際に見えていると感じていること以外に、たくさんの想定をしながら生活しているのです。

だからこそ、はっきりとは見えないという感覚がどうしてもしてしまうのです。その一方で、非二元的に見るなら、全部が明確になるのです。

なぜなら、隠されている部分などはないからです。全てが晒されていて、非常に明確に見えるのですから。

見えているというよりも、ただ「これ」があるだけ。ただあることがあるようにあるだけなのですね。

非二元の質問、絶賛募集中!

最近なのですが、それほど多くはないものの非二元にまつわる質問をいただくことが少しずつ増えてきました。

それでせっかくいただいたご質問をご本人にだけお答えして終わらせてしまうのはもったいないなと思って、それを動画に挙げさせてもらうようにしたのです。

それで気づいたことなのですが、どんな質問であれ物凄く私自身の役に立ってくれるんだなあということです。

質問を漫然と読んでいるだけだと、何て答えればいいのか意外と難しいなあなんて思っているのです。

けれども、実際にいざ本気で答えようとすると、自分の中に隠されていたものと出会うことができたりするのです。

ああ、そんな気持ちがあったのかとか、そういうつもりでやってたんだなといったことが本当によく分かるのです。

というわけで、どんな形でもいいので今後も是非、質問を募集します!一番簡単なのは、動画のコメント欄に直接書き込んでいただく方法ですね。

あるいは、このブログへのコメントでも構いませんので、よろしくお願いします!

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誰もいないモーニングルーティン

できる限り正直に、100%ジュースのように、何も足すこともなく何も引くこともなく、ただあるがままを感じてみようとするのです。

そうすると、すぐに「実体」というのが単なる概念でしかなかったということに気づきます。なぜなら、実体に対しては何もできないからです。

そして、実体なんてないというその感覚で朝目覚めたとすると、どうなるのかを再現してみます。

ふと目が覚めた感じがして、ベッドの中にいるという感じがして、時計を見てああ、もう起きる時間かって思ってる感じがあり。

起き上がった感じがあり、部屋を横ぎって洗面所に行く感じがあり、歯ブラシをしている感じがあって、ヨーグルトらしきものに蜂蜜らしきものとシナモンらしきものを混ぜてる感じ。

食べてる感じがあって、服を脱いで朝風呂に入る感じがあって…。こんな感じがずっと続いていくわけですね。

要するに何が言いたいかというと、朝目覚めた誰かという実体はないし、歯ブラシをしたり朝食を食べる誰かもいないということ。

部屋とかベッドという実体もないし、本当は何も起きてもいないのですね。それが分かると、一種独特の感じがやってきませんか?それもただそれがあるだけなんですけどね。

自由意志はあるか?の話しを再び

これまでも自分の中で、当たり前のように人間には自由意志はある、と思われていることが本当なのかどうかを見つめてきた経緯がありました。

リベット博士の実験によって、自由意志はないという答えが出たり、いやいやその実験には決定的な問題があるんだと。

人間は外界を認識する場合に、脳の中に仮想的な世界を構築するということを考慮すると、上記の実験結果は役に立たないんだと。

そんなようなことで、自由意志があるかどうかはいつまでも議論の対象であるんだろうなと思っていたのです。

ただし、個人的な感覚はこうしたこととはまた別。私自身の感覚においては、自由意志があるとは到底思えないというのが本音としてあったのですね。

なぜなら、自分がどちらかを選択するというときに、どうやって選択したのかを自分に問い合わせても、答えがないからですね。

だから誰が何と言おうと、自分では自由意志がないというのが一貫した感覚ではあったのです。そしてとうとう決定的な事実が。

つまり、非二元の気づきがやってきたら、もうおしまいなのです。誰もいないのですから、自由意志があるかどうかの議論に完全なる終止符が打たれてしまいましたね。

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二元の世界は理不尽なもの

今年建て直した我が家は、いわゆる「オール電化」というもので、必要なエネルギーを全部電気、電力でまかなうわけです。

この電気というのは、電圧がかかった経路を電流が流れることによってエネルギーを発生させるもので、電流というのは電子の流れです。

この電子はマイナスの電荷を帯びていて、プラスの電荷に引き寄せられるのです。小学生の時に、電池の実験をしたと思います。

そして不思議なことに、マイナスの電荷とプラスの電荷が結合すると、電荷はゼロになってしまうのです。

逆に言えば、何もないところからプラスとマイナスへと分離させることができると。これって不思議じゃないですかね?

これぞまさしく二元性の代表みたいなものです。どちらか片方だけでは存在できないのです。二元なので必ず対極のペアで成立するわけです。

もしも、「低い」がなければ「高い」という概念は存在できませんし、「暗い」がなければ「明るい」も存在できないのです。

「見る側」と「見られる側」のペアによって初めて「見る」ことが起きうるのです。もしも見る側がなければ、見られる側も存在しませんし、その逆も然り。

あなたに見られるモノがなければ、見る主体としてのあなたの存在もあり得ないということになってしまうのです。

これって、真剣に考えてみると分かるのですが、相当に理不尽極まりない世界ではないかと思うのです。

だからこそ、本当のところはその両者はともに存在していないということ。そして残るのは、「見る」という感覚だけなのですね。

分からないことは分からないままにしておく

二元性という偽物を排除して非二元の世界が現実としての本当の姿だとすると、この世界って一体何なのだろうなあと。

まるで夢の世界のような感じもしてきますね。なぜなら、実体がなくて誰もいないし何もない、ただ体験だけがある世界。

寝ている時にみる夢もそういう意味では全く同じではないかと。全てが空想の世界なんだけど、その体験している感じだけはあるのですから。

けれども、私はこの現実が夢であるとは思えないのです。なぜなら、夢から覚めたところでじゃあ実体のある世界ってどうなってるの?という疑問が出てくるからです。

きっと夢から覚めたところで、また同じことの繰り返しになってしまうのではないかと。これ以上は想像すらできません。

分からないことは分からないままにしておく、この方法でこれからも生きていく(感じ)のがいいのではないかなと。

今年もあと2週間くらいになりましたけれど、今年の後半は自分にとってなんだかすごく揺さぶられた毎日だったなあと思うのです。

来年の話はまだ早いですが、こうしたブログや動画をまだ続けていくのか皆目分からないままでいようと思うのですね。

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非二元が不人気な理由

会社員だった頃、時々アメリカに出張に行っていたのですが、向こうでの移動手段は基本クルマだったのです。

ご存知だと思いますが、アメリカではクルマは右側通行なんですね。だから、もしも間違って日本と同じように左側通行したら、非常に危険なことになるわけです。

一般道を普通に走っている時はいいのですが、左折するときに間違って左側車線へ入っていきそうになることが何度かありました。

あと、宿泊しているホテルの駐車場では、車線というものがないので誰もが適宜右側になるように運転しているのですが、ただどこを走ればいいかは曖昧なんです。

中央線があるわけでもないし。で、気がつくと左側よりに走っていて危うくぶつかってしまいそうになったことがあります。

このように習慣というのはすぐには変えられないものですね。だから、できるだけ意識的でいなければならないのです。

なぜなら、習慣を使うのは無意識領域だからです。非二元も同じです。長いこと勝手な思い込みをベースに生きてきたので、無意識はそれを使おうとするのです。

だから、ぼーっと生きていると、非二元なんてどこかへ行ってしまいます。そしてこれまで通りに、個人の自分がこの人生を生きているつもり満々になります。

それでもいいのですが、気づいたことを時々思い出すたびに、あらゆることが全く理解不能になってしまうのです。

お手上げ状態になります。これじゃあ非二元なんて、誰にも見向きもされないはずです。けれども、一度知ってしまったからには、これを忘れることなんてできませんね。

無邪気に笑う赤ちゃんの世界

赤ちゃんて「いないいないば〜」をやってあげると、途方もなく面白がって大笑いしてくれますよね。

しかも、何度も何度も同じことを繰り返しても笑うし、毎回次も期待しているのが分かります。

あの笑い方を見て、一緒に笑ってしまわない人はいないと思います。さて、なぜ赤ちゃんはあれほど笑ってくれるのでしょう?

多分ですが、隠れて見えなかった顔が急に現れることに驚きながら可笑しくて笑ってしまうのだと思っていませんか?

近いですが実は少し違うと思っています。正確には、なかった顔が突然現れるから大笑いしてしまうのです。

要するに、大人の我々との違いは、顔が見えていない時にも隠れている顔があると想定しているのが大人で、赤ちゃんはその想定がないのです。

だから、リアルになかった顔が出現する様を見ているわけです。そのために、その衝撃が大きいのでそれだけ大きな反応をするわけです。

そして何度でも笑ってしまうのは、毎回が新鮮だからです。もしも、何もない空間から顔が出現したら、大人の私たちだってびっくり仰天してしまうはず。

ただし、笑うというより恐怖で引き攣るでしょうね。大人はそんなことはあり得ないという想定をしているからです。

赤ちゃんにはそんな想定がないので、ただただ純粋に笑ってくれるのですね。どんな想定もせずに見ることができる赤ちゃんには、一瞬一瞬が刺激的なんでしょうね。

非二元ってそういう世界ではないかなと。

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「存在」って意味あるの?

非二元を日々の生活の中で定着させようとしているうちに、不思議なことに気づくようになったのですね。

それは、「存在」という言葉の危うさです。あれ、「存在」って何だろう?と思うようになってきたということです。

「存在」は「存在」だろうと言われそうですが、自分の中ではもっと確固としたイメージがあったのです。

宇宙が存在する、太陽が、地球が存在する。自分が存在する。家が存在する。そうした揺るぎない感じがしていたのです。

ところが、「これ」しかないとなった時に、果たして「これ」は存在するのか否か?これが分からないのです。

「これ」は物質でもないし、かといって何もないということでもないので、存在を云々する対象ではないのかなと。

そうなってくると、「存在」ということの意味は全くないことになってしまいそうですね。ああ、この宇宙は「存在」ではなかったのですね。

じゃあ一体何なのだろうと考えたところで、答えは決して見つからないのでしょうね。これもそのまま受け入れるしかないのだろうなと。