なんであれ現れが起きている

非二元の探求を通して分かって来たことは、とにかく客観的事実とか、ものの存在というものがないということ。

内側と外側の区別もなく、分離もなく、自我は幻想だけど肉体はあるといったまやかしも通用しなくなってしまったわけです。

昨日のブログで、我々は記憶という機能を使って認識することができると書きましたが、それも最後には単なる現れでしかなかったんだと。

記憶とか思考とか感情とか、名札をつけて呼んでいますが、実際にはどれもこれも現れでしかないことは明らかです。

となると、記憶がなければ比較ができないとか、連続性を認識できないとか言っていること自体も、単なる現れだったということになるわけで。

実体がないという気づきを通して非二元の探求をしていることも、そういった現れが起きているように見えるだけ。

全てがそうなってしまうのです。探求を極めて最終的に覚醒に至ったとしても、そういう現れが起きているだけ。

分かっていたこととはいえ、改めてそこを見つめてみると、なんだかなあという感じがしてしまいますね。