人間の苦しみの根源というのは、自我(エゴ)であるということを訊くと、大抵はなんでそんな面倒なものを作るようになってしまったのか?と疑問を持つ人も少なくないはずです。
そのくせ、自我というのは実在しない、本当はこれが私だと思っている私などいないのだとも言われるのです。なんだかこの世は理不尽なことばかりだと感じずにはいられません。
自我が生まれなければ、我々も他の動物と同じように苦しみからは解放されていたはずです。けれども、一方では意識を手にすることもできなかったのです。
他のすべての動物と同じように、ずっと無意識のままであったということです。私たちは、自我を生み出すという多大な犠牲を払いながらも、意識を持てるようになったということです。
どんな犠牲を払ってでも、無意識から脱出できるのなら、それは価値ある代償だと思いませんか?確かに、人生があまりに苦しい時、無意識で生きている動物になりたいと思っても不思議ではありません。
しかし、それも一時的なことです。正気に戻れば、誰も動物へ逆戻りしたいと本気で願う人などいるはずがありません。無意識はいやなのです。
一度意識を持ってしまったのですからね。さて、ここからが本当に大切なことです。意識を持ったといっても、それほど誇れるような状態にはまだなっていません。
というのも、私たちの意識的部分というのは全体の一割くらいだと言われているからです。残りの九割は、無意識のままだということです。
それが残念ながら私たちの内面の実状なのです。もしもこのままたった一割の意識のまま死んで行くなら、自我を生み出して苦しんだだけ、苦しみ損になってしまいます。
生きている間に、意識の割合をできるだけ大きくしていくこと。最終目標は、無意識をすべてなくして、意識だけにすることです。これが光明を得る、覚醒するということです。
あなたが自分の人生の目標はこれこれだ!と思うのはご自由ですが、人類に与えられた真の目的は無意識を失くして意識だけにすることだと気づくことです。
その時、自我はまるで光が当たった影のように、消え失せていくはずです。