何に対してもまったく不平不満を持っていないという人はいないかもしれません。どんなに心穏やかでいい人であったとしても、不平不満がまったくないという人はいないはずですね。
気に食わない人に対してだけではなくて、どんなに愛しいと思えるような人に対してであっても、必ずなんらかの不満な気持ちを持っているものです。
でも不平不満を感じているときに幸せだとは思えないということも誰でもわかっています。それなら、なぜ人は幸せになりたいと願っているのに不平不満から逃れることができないのでしょうか。
それは私たちは生まれたときから、何かが足りないという根源的な思いの中に生きているからなのです。それを欠乏感といってもいいかもしれません。
欠乏しているという思いは、自分は満たされてはいないということを意味します。したがって、願いが叶おうが叶うまいが、とにかく不満なのだというところに行き着くということです。
仮に何かとても大きな願い事が叶って、嬉しくて仕方ないという状態になれたとしても、根源的な欠乏感がなくなるわけではないので、しばらくするとまた周囲の何かに対して不平不満を感じ出すことになるのです。
不平不満はありとあらゆることを対象として、生きている限り続くことになります。会社が悪い、国が悪い、パートナーが悪い、自分が悪い、といくらでも不平を言えるものは出てきます。
不平不満は、自分の中にある大切な愛の心に暗くて重い覆いをかぶせて、それをなきものにしてしまうのです。だから、愚痴をやめられない人は愛から遠ざかります。
自分が幸せでない理由を何かのせいにしようとする人は、もっとも不平不満の多い人になってしまうはずです。いわゆる被害者の意識ですね。
もしもこうした傾向が自分には強いなと思い当たる場合には、自分は何から何まで与えられているんだということに気づいていないだけだと理解することです。
このことに気がつくことができると、本当に不平不満がなくなってしまいます。そして当然の結果として、満たされているという思いを抱けるようになるのです。
それは本当に幸せなことです。不平不満を主張し続けたいのか、幸せになりたいのか、二つに一つだということを再認識してみることですね。