手柄

私たちは頑張って、努力や苦労をしたものだけが、それに応じた報酬を手にするべきだという一般的な考えを持っています。苦労は買ってでもしろなどという言葉もあるくらいです。

頑張って何かを成し遂げたことを、自分の手柄にするプライドのようなものがあるのです。それは非常に強力なある種麻薬による刺激のような魅力を持っています。

例えば、志望する学校を受験して合格した場合、ほとんど勉強せずに合格してしまった場合と一生懸命勉強したすえに合格できたのでは、何となく価値が違うように感じるのです。

しかしよく考えてみると、どちらも合格するという目的を達成したことには変わりないのですが、その二つのケースでは達成感も全く違うはずですね。

大好きな人にプロポーズをして、一度でOKしてもらったときより、何度もふられた末にあきらめずにプロポーズをし続けてやっとOKをもらえた時のほうが何倍も嬉しいかもしれません。

貧しい家に生まれて、苦労をして育った人が一大決心をして大金持ちになるのと、生まれながらに大金持ちの家に生まれて、自分は何もせずに親の財産を相続するのとでは、人の評価が異なります。

実はこれが、自分がしたこと、この自分の手柄なんだという意識、プライドの働きなのです。そこに非常に大きな魅力を感じてしまうのです。

しかし、本当は私たちは生まれついて何でも持っているのです。これは、純粋な愛の心の部分とつながった経験がある人にはわかります。

エゴから切り離された瞬間に、自分は完全に満たされているとはっきり分かるのです。上記の例で言えば、もともと大金持ちの家に生まれているようなものです。

しかし、そのことを認めずに貧しい自分をまず演出して、この自分の力で一からお金持ちになるという手柄を作りたいのです。そして、お金持ちの家に生まれたことはそのうち本当に忘れてしまいます。

本当は何の努力も苦労も必要なく、すべてを手に入れているのですが、それでは全く自分の手柄を作り出すことができないので、都合よく忘れてしまったのです。

骨を折って努力した結果ではない報酬を受け取るのは、屈辱的だと感じるのです。自分が無力なままになってしまうと感じるからです。

それは何もしないで恵んでもらう物乞いと同じじゃないかと思ってしまうのです。それが何よりいやなのです。

真実は、自分が努力して得られる報酬はニセモノだということです。自分は生まれながらのお金持ちのように、はじめからすべてを与えられている存在だということに気付くことです。

それには、自分の手柄による満足感、自分の力でやれたということを犠牲にする必要があります。でも、それさえ犠牲にすれば、すべてを手に入れることができるのです。

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