この世界は思っていたようなものではなかった

私のYouTube動画の「非二元のお話」再生リストの中の一番古いものが、昨年の10月18日の投稿のものでしたね。

ということは、もうすでに半年以上もずっと非二元の話をし続けてきたわけですが、我ながらよく続くなあと。今月中には間違いなく100本を超えますね。

思い返してみると、そのきっかけは昨年の9月ごろに、ものには実体がないということに気づいてしまったことです。

もっとわかりやすく表現すると、この世界が思っていたようなものではなかったということで、これは本当にびっくり。

今思うと、なぜ実体ありきでこの世界を見ていたのかなと。私が思うに、その方が安心できるからなんだろうなと。

人間は不安よりも安心が好きだし、不安定なものよりも安定していることを好むのです。不確定さよりもカチッと確定している方が気持ちいいのです。

そのほうが確実に安心感を味わえるという特性があるからなんでしょうね。けれども、現実の本質は人間を安心させるためにあるわけではなかったのです。

存在とか、実在というのが単なる概念でしかなかったわけです。この世界という実体がないのですから、自分という存在も架空のものでしかなかったということ。

残りの人生があるなら、自分がこの先どんな生き方をしていくことになるのかと考えると、ちょっと楽しみでもありますね。  

全ての現れはすでに完璧で一様

非二元を説明する時の「一様」という表現は、あらゆる現れ(出来事・思考・感覚・状況)は、本質的に分け隔てのない “同じもの” であるという深い洞察を示す言葉です。

非二元では、私たちが「自分と他者」「主観と客観」「善と悪」「内と外」として経験しているすべての区別や分離感は、思考によって構築されたフィクションであり、本質的には存在しないのです。

例えるなら、波(怒り・悲しみ・歓喜)は違って見えても、それらはすべて海(非二元の「それ」)の一部。だからすべて「一様」ということ。

悟っている人と悟っていない人、神聖と俗、進んでいる人と迷っている人のような比較・評価も、非二元の立場から見ると違いがないし、同じこと。

「目覚め」は、ある状態に到達することではなく、すでにこの “ありのまま” の中にあることの発見であり、よって「すべてはすでに完璧で一様」なのですね。

これは私たちの常識や条件づけられた思考にとっては、時に空虚にも冷淡にも感じられるかもしれません。

なぜなら、「良いことも悪いことも同じ」「人生の目的も意味もない」と聞こえるからです。しかし深く触れていくと…

特別でなければならないとか、何かにならなければならないというプレッシャーから解放されるのです。

そして、今この瞬間の無条件な肯定が起きて、これこそが、本質的な自由だし、静かな安らぎ、無限の平安へと繋がるのですね。

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過去は一度も存在していない

非二元の話の中で、必ず出てきてしまうのが時間も空間も単なる概念であって、実在しないものだということです。

これは、過去は過ぎ去ってしまったものだから今この瞬間にはないという、一般的な話とは根本的に異なるものです。

過去が過ぎ去ったと思っているということは、過去は過去として過ごしたことがあったという思い込みです。

非二元では、過去というものは一度たりとも存在したことがないということなのです。これはすぐには受け入れられないのも当然ですね。

アルバムを見れば、赤ちゃんだった頃の自分の姿を見ることができるかもしれないし、過去のそれぞれの時代の自分が確かにいたと確認できるし。

けれどもそういうことではないのですね。今この瞬間だけがリアルであって、アルバムの中の過去の写真を見ているという現れがあるということ。

過去が一切ないのであれば、このトラウマもないはずなのに…、と思えるかもしれませんが、それも今この瞬間に現れ出ていることなのです。

もしも、過去がないなら救われると思うのであれば、それは非二元を探求する前にこの現実の世界で、過去をしっかり癒す必要があると思った方がいいですね。 

ショート動画の撮影で、思わず緊張した話

久しぶりにショート動画を撮ってみました。1〜2分で情報を凝縮しようと思って、自分に似合わないことをしてしまいました。

というのも、言い淀んだりしたくなかったので、ちょっとした台本を書いてみたのですね。そうすると、非常に緊張するのです。

普段のフリートークが性に合っているのか、決められたセリフを言うのがとても苦手なんだと改めて気づきました。

というわけで、なるべく台本の内容を壊さないようにして、ややフリートークのような喋りを心がけてみました。

音声だけの録音なので、これはいつもより気楽にできるなとタカを括っていたのが、まるで逆になってしまって。

そんなわけで、やや緊張気味の自分の声に不満を感じつつも、1.5分程度の動画にまとめることができました。

非二元って何?という方は、まずこのショート動画をご覧いただけると、入りやすいのかなと思うのですが、どうでしょう?

数日中にはアップする予定です。

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夢 VS 非二元

奇想天外な非二元の話をするときに、それを初めて聞くような人になるべく分かりやすくニュアンスを掴んでもらいたいなと。

そんなときに、真っ先に思いつくのは寝ているときに見る夢に近い、という表現をすることがあるのです。

夢では、実在するものは何もないし、誰もいないし、本当には何も起きていないのです。それが非二元と同じなのかなと。

起きているように見えることは、すべて起きているように見えるだけ。全ては見かけだし、ただの現れに過ぎないのだと。

ただし非二元が夢でないのは明白なのです。というのも、もしも非二元が夢の中だったとしたら、目覚めた世界はどうなっているのか?

それも非二元でしかあり得ないと思うのですね。つまり、どこまで行っても、私たちが想定しているような、この物質世界は存在しないのです。

結局、非二元に気づくと、もうそれしかないということが決定するのです。完全に何もないし、誰もいないし、何も起きていない。

これこそが、本当の平安であり自由ということなのでしょうね。

すべての感覚は時空に依存しない

非二元の話をしていると、必ず時間も空間も存在しないということが出てきてしまいます。これは、想像を絶することですね。

それは無理もありません。私たちは、この空間というものをベースとしてこの世界があるというように思っているからです。

だから、時空がないと言われたらどんな想像もできなくなってしまうのです。世界そのものが成立しないからですね。

それなのに、じゃあ非二元では一体何を言っているのか?ということですが、それは時空に関わらないモノだけが残るのだと。

つまり時空が全くなくても、感じ、感覚だけはあるんだなということがわかります。言ってみれば、夢のようなものです。

夢も、実体は何もないのに感覚だけはリアルに感じることができるわけです。ただし、非二元では夢を見ている主体もいないんですけどね。

時空から独立しているということは、「感じ」とか「感覚」というのは、位置もないし、大きさもないし、境界もないということ。

例えば、「私がいる」という感覚に対しても同じことが言えて、この私には位置もないし大きさも境界もないのです。

だから、個人としての私が妄想だということが分かりますね。

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爆音の中での静寂

先日久しぶりに、MRIを受けました。4.5年前に生まれて初めて受けて以来、今回が2度目になるのですが。

自分の記憶がかなり曖昧なようで、もうかなり忘れてしまっていたのです。前回は、間違いなく造影剤を血管注入したはずが。

今回はそれもなくて大丈夫なようだったのが不思議です。検査係の人が予め40分くらいかかりますと教えてくれたので、それが助けになりました。

ヘッドフォンから聞こえる爆音に耐えながら、とは言え暑くも寒くもなくただそこに横たわっていればいいだけなので。

最初のうちはやや緊張気味だったのですが、そのうちには穏やかな気持ちの方が大きくなってきて助かりました。

右から聞こえる爆音のことも気にしないでいられるようになって、左から聞こえるうっすらとした音楽もどうでも良くなり。

そろそろ30分くらい経ったかなと思っているうちに、突然のように終わりましたという声が聞こえてきたのです。

予約もせずに初診当日にさっさと済ますことができて幸運でした。それにしても、もう少しだけあの爆音を小さくすることはできないものかと。

正式な所見はまだですが、医師の目視によれば特には問題がないとのこと。ならば早く病院から脱出して日常を取り戻したいと思うのでした。

医師にも色々な人がいる

先日、午前中早くからクルマで行ける距離にある病院に行ってきたのですが、病気というわけでもなく。

近くのクリニックのお医者さんから紹介状をもらって、手術をするとしたらそこがお勧めですよと。

院長が直々に執刀してくれるんだなと思って、期待して行ってきたのですが、それがなんとなく期待はずれ。

思っていたよりも、長く入院しなければならないということと、その医師の態度がどうにも気に入らない。

簡単に言えば、ちょっとした質問をしようとしても、気持ちよく答えてはくれないのです。これって、医師失格じゃない?

というよりも、人間としてどうなの?と思ってしまったのですね。あくまでも丁寧にこちらとしては最大限の敬意を持って接したのですが。

そういうわけで、聞きたいことをその場でしっかりと聞けるような雰囲気ではなかったのですね。

どれほど、腕がいいとしてもその前の段階で私なりのふるいにかかってしまうなあと。そんな残念な日でした。

お医者さんの中には、そうした社会性が欠如しているような人も一定数いるようで、一般の会社などでは、社会不適合者と認定されそうですね。

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6月1日(日)より料金体系を戻します

今日はご報告です。先日も一度お伝えさせていただきましたが、昨年の6月より導入しておりました、カンパ(寄付)制をちょうど一年を持って終了とさせていただきます。

今後は、普通の料金体系に戻ることになります。私のセッションにつきましては、基本的には120分9,000円に戻ります。

また、セッションの時間帯も以前と同じになります。13時、16時、19時のそれぞれが開始時間となります。

寄付制にしたことによる、功罪があることに気づきましたね。それだけでも、試してみたことは無駄ではなかったと思っています。

ただし、功罪のうちの功よりも罪の方が大きかったということがあり、結果としては一年で終わりを迎えるということになったのです。

功としては、それまでほとんどお会いすることのなかったような方々と、セッションをすることができたこと。

罪としては、依存を引き起こす要因となってしまったこと。その結果、セッションの有効性が低くなってしまうということ。

こうしたことは、ある程度は予想がついていたものの、思っていた以上の不必要なセッションを引き起こすことにも繋がったのかなと。

6月からは新たな気持ちでセッションに取り組んでまいりますので、これまで同様どうかよろしくお願いいたします。

起きることへの正直な反応と冷静さの二重性

これまで本当にたくさんのクライアントさんの人生を知って、疑似体験のようなものをさせてもらってきたと思うのです。

セッションをする時には、いつも自分がクライアントさんの子供の頃の日常を一緒に体験しているような気分になるのです。

そこでは、自分自身の過去にはとても経験してこなかったようなあらゆる経験が盛り込まれていて、本当に驚くことばかり。

そして過去に起きたことだとは分かっているものの、そこに入り込んでご本人と同じような気持ち、気分を味わうのです。

とは言っても、もちろん擬似的なものに過ぎないので限度はあるのですが、それでも一時的にはそこに入り込むことができます。

そして、どうやって生き抜いてきてくれたのかなと思って感嘆したり、あまりの辛さに身悶えてみたり。

そういう体験を繰り返してきたせいなのか、体験をしながらもそれを冷静に見つめる二重性を身につけたのかもしれないなと。

だからいつも感情に支配されることなく、癒しの観点から物事を見ることができるのです。それは本当にクライアントさんの人生のおかげなのですね。

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