本当に身も蓋もない

これの全てが現れに過ぎないとなると、分かってはいたもののそこから一歩も離れないようにすると、もうどうしようもないがやってきます。

この世界に80億の人々とともに生きていた頃のあの複雑さからは解放されるのですが、その一方で単純過ぎて言葉にならない。

何かが存在するという可能性がまったく無くなってしまうのですから。長年こうだと思っていたものが全部崩れていくのです。

一人静かにしている時には、それに圧倒される感じもしますが、それ自体もただの現れであって、そこから逃れられない。

あまりにも馬鹿正直過ぎて、オブラートに包むこともままならないし、どうもがいたところで全ては現れでしかない。

このことを心底から認めることはとても難しいのかもしれないですね。もう根こそぎだし、ホントに身も蓋もないとはこのこと。

こっそりと密かに驚嘆しつつ、ごく自然に振る舞うこともできそうですが、そうしたことすら現れの一部でしかないのですからね。

所詮は全てが現れでしかない

非二元の立場に立つと、何かに意味を見出そうとすることや、なんらかの価値があるということからも離れてしまいます。

あるいは、何かにつけ必ずやそれなりの理由があるはずという思考パターンからも遠ざかってしまうのです。

ただそうした現象が現れている、これだけのシンプルなものだけが残っている感じになってしまいます。

思考、感情、感覚、気分、気持ち、記憶、こうした分類があるように思えるけれど、本当のところはどうだか分からない。

この一瞬一瞬が意識の場に現れては消える現象の連続のように思えるものの、それを解釈することも理解することもできない。

本当に何が何だか分からないというのが本音なのです。思考による解説はいくらでもできるのですけど。

それが最近は言葉による説明をしても、これも単なる現れに過ぎないとなって、ちょっと熱が冷めた感じがしていますね。

なんであれ現れが起きている

非二元の探求を通して分かって来たことは、とにかく客観的事実とか、ものの存在というものがないということ。

内側と外側の区別もなく、分離もなく、自我は幻想だけど肉体はあるといったまやかしも通用しなくなってしまったわけです。

昨日のブログで、我々は記憶という機能を使って認識することができると書きましたが、それも最後には単なる現れでしかなかったんだと。

記憶とか思考とか感情とか、名札をつけて呼んでいますが、実際にはどれもこれも現れでしかないことは明らかです。

となると、記憶がなければ比較ができないとか、連続性を認識できないとか言っていること自体も、単なる現れだったということになるわけで。

実体がないという気づきを通して非二元の探求をしていることも、そういった現れが起きているように見えるだけ。

全てがそうなってしまうのです。探求を極めて最終的に覚醒に至ったとしても、そういう現れが起きているだけ。

分かっていたこととはいえ、改めてそこを見つめてみると、なんだかなあという感じがしてしまいますね。

連続的に変化する現れ=無常?

昨日のブログでは、記憶という機能がなければ連続するものがなくなってしまうということをお話ししました。

簡単な話、映画などの映像は1秒間に30枚の静止画を見せられているのが現実です。我々の視覚の残像現象を利用することで、静止画に動きがあるように感じるわけです。

残像というのは一種の記憶です。もしも記憶がなければ、一枚ずつの静止画を高速で見ることになるのですが、果たしてそれはどんな世界でしょうか?

1/30秒という短い間に見ているものを認識することは不可能でしょうね。そもそも認識するには、一定の時間を要するので、記憶がなければ認識そのものができないということになります。

その世界を想像すると、きっと何も見えないのと同じなのかもしれません。あるいは、何かが見えているけれど決して認識できない。

とここまでは、時間の流れがあることを前提に書いてきたのですが、非二元の探求を通して時間は単なる概念だったことがわかっています。

となると、記憶というのも一つの現象でしかないということに立ち戻って考えてみると、もっとシンプルになるかもしれません。

どんな理由もなく、単に連続的に変化する現れが起きているように見える。ただただそれだけなのかもしれませんね。

記憶がない世界を想像できない

今日は記憶について書いてみたいと思います。そもそも記憶って一体ナニモノなんでしょうね。過去を覚えているという不思議な能力?

でも過去はもうすでに消えてしまっているのに、それを保持しているということです。だから連続ということが起きるのです。

何かが連続しているという感覚は、記憶を使わなければ起きないことですよね。記憶がなければ、どんな物語も成立しません。

考えてみるまでもなく、私たちにとって記憶というのは非常に大切ななくてはならないものです。もちろん、その記憶を操る思考も大事なのです。

記憶と思考があるおかげで、物事が連続的に起きているように感じることができるわけです。では、本当のところはどうなのか?

記憶と思考を使わなければ、つまりリアルな世界は全て不連続となってしまうのです。そこには、物語はおろか動きというものがないのです。

そんなのは理解できる代物ではなくなってしまいますね。初めにAを認識して、次にBを認識したとします。

もしも記憶がなければ、AとBの違いは分からないはずです。つまり、記憶機能がなければ、あらゆるものは常に新鮮で、比較という概念が成立しないのです。

何かが発生して消えていくという時、記憶がなければ発生したことも無くなるし、消えたこともなくなるのです。

やっぱり何もない。どんな現れもないのですから、それは想像を絶する世界かもしれないですね。

現れすらない

ここのところ、仏教の「無常」を題材にして色々考えたりしていたのですが、おかげで非二元の説明に厚みが生まれてきたように感じています。

この世界の原理としての無常を見て分かるのは、私たちは無常性に支えられて生きていると言っても過言ではないのです。

なぜなら、変化がなければ楽しむことが全くできなくなってしまうからです。人生を生きるということは、すべからく変化を土台としているからです。

そのくせ、誰もが求めているのは永続的な安心なのです。つまり、最も無常性と相入れないものを求めているわけです。

不可能なことに願いを込めているので、それは絶対に叶うことはないし、それこそが苦しみの根源なのです。

そうしたこの世界の根本原理である無常性は、本当にリアルなものでしょうか?変化というのは、時間の流れの中での比較に基づくものですよね?

ということは、記憶が前提ということになってしまうのです。過去は妄想の中にあるので、変化も妄想ということになるのです。

結果、無常とは妄想ということになり、非二元で言うところの現れというものも本当はないのだろうということになりそうです。

ああ、何にもなくなっちゃった。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

50年前の自分に伝えたいこと

50年ぶりくらいに母校に行ってきたのですが、様変わりしていたのはもちろんですが、それでも懐かしかったですね。

隣にバカでかい敷地を占有しているとある宗教団体があるのですが、50年経っても全く衰えを知らず、いつの世も宗教というのは儲かる商売なんですね。

超巨大な駐車場ととんでもなく大きな何か建物を建造中でした。母校では、新しくできた学食に入ってカレーを食べたのですが、390円也。

私が学生の時は、確か普通が50円で大盛りが60円だった記憶があります。当時も安いと感じていましたが…。

学校のすぐ近くに運河があるのですが、綺麗に整備されて桜並木なんかがあって凄く綺麗な場所になっていました。

私が3ヶ月間だけ過ごした寮のようなものは、形を変えて残っていましたが、学校の裏手に行ったら、これもとんでもなく贅沢なマンションのような学生の住居が建っていました。

私が学生の頃よりも、貧富の差が歴然とし過ぎていて、これはどうなんだろうと思わずにはいられません。

50年前の自分に言ってあげたい言葉が浮かんできました。いろいろそれなりにあるけれど、45歳を過ぎたら天国になるから大丈夫だよと。

そしてこの世は全てあるように見えるけど、幻想なんだって。夢のようなものなので、なんでも臆せずに自由に生きたらいいよと、伝えたいですね。

注意深く生きるが大事

夏の暑い最中に夜風に当たるととても気持ちがいいものですよね。だから夜の散歩なども想像しただけでも気持ちよさそうです。

昔の記憶になってしまいますが、夏の午後などに、部屋の窓を開けて昼寝をしていると、そよ風が入ってきてそれが天国のように気持ちがいいのです。

そういう経験は誰でもしたことがあると思います。でも暑いからといって寝る時に扇風機をつけっぱなしで寝てはいけないと言われます。

それは、本人の意識では気持ちがいいのですが、身体的には体温を奪われていってしまうため、よろしくないのだと。

子供の頃に聞いた話だと、場合によっては最悪の事態になることもあるんだと。そんなことを聞かされて育ったわけです。

ああ気持ちがいいと自分は思ったとしても、身体の側からすると冷えちゃうよと。身体の隙間に風が入ってきて、体温を奪われてしまうんだと。

身体がもうやめてと訴えたとしても、気持ちいいが勝ってしまうとそれを続けてしまうのですね。食べ物やお酒なども全く同じ理屈です。

いつも不方逸でいて、身体からの訴えに気づいていられるように瞬間瞬間を過ごせるようにしたいものですね。 

この私は現在にはいられない

前回のブログでは、とても大事なことに触れました。それは、私たちの認識というのは全てが幻想でしかなかったということ。

なぜなら、認識というのはもうすでに過去になってしまったものを相手にしかできないからです。

今この瞬間を捉えた瞬間に、それは過去になってしまうということです。だから、認識するためには時間経過を必要とするということ。

認識した時には、もうすでに次の今に変化しているのです。だから、どこまで行っても今この瞬間をリアルタイムで認識することは不可能なんだと。

これを深く理解するなら、ひるがえって認識することで生きているこの私というのも、いつも過去の中にしか存在することができない。

そんな私が本物であるはずがありません。本物は、いつも過去でも未来でもない今この瞬間の中にあるのですから。

私たちが認識しているこの私というのも、今この瞬間の中にはいないということに気づいてしまいますね。

これは大変なことです。この私という存在は、リアルなものではなくて幻想の中にだけ存在するものだということになりますね。

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こちらの動画も是非ご視聴ください。

認識は全て幻想

仏教でいう「無常」について、また少し違う解釈をしてみたいと思います。何せ、偉い僧侶が無常を理解すれば悟りを得ることができると言っているので。

改めて、無情というのは時間の流れの中で変化しないものはない、というのがその意味であることは確かですね。

けれども、もう少し深く見ていくと不思議なことに気づくことができます。もしも、全く記憶というものがないと仮定してみます。

すると、例えば音楽を聴いているときに、好きなメロディを聴いてうっとりしたりする時、それは瞬間のことではないとわかります。

つまり、ある一定の時間の流れの中でしかメロディを認識することができないからです。メロディというのは、音の変化を指すからです。

一つ前の音の記憶がなければ、メロディは成立しなくなってしまいます。このことは音楽だけでなく、あらゆることについて同じことが言えるのです。

現実に起きていることというのは、このように全てがぶつ切りなはずです。見ることについても全く同じ。

目の残像があるからこそ、変化に気づくことができるのです。ということは、真実は変化という概念もないということになりますね。