主観も客観もない

私たちは、自分が思っていること、感じていることを他の誰でもない自分の主観だと感じているのです。

だから自分が体験しているのだと。そのように見ることによって、他の人も全く同じようにしてその人の主観の世界があるのだと思えるわけです。

そして地球上には80億の主観があり、それとは別に客観的な事実というものもあると思い込んでいるのです。

主観は非常にプライベートなものであって、その人の内的世界に閉じ込められているものですが、客観は全ての人に共通のものです。

だから、客観的事実がこの世界の大半を占めているように感じるのです。ここまで来てもうお気づきだ思いますが、真実はそのどちらもないのです。

主観もなければ客観もありません。このことに気づくと、物凄く物事の見方が変化してしまうのは当然です。

主観か客観かのどちらか、二択しかないと思っていたところに、そのどちらも存在しないと言われたら、それは面食らうでしょうね。

それでも事実はというと、主観でも客観でもないのです。ただ現象が現れているのです。ただ体験が起きているように見えるということですね。

「諸行無常」に感謝

人は何か楽しいことがあると、これがずっと続いて欲しいと願うものですね。逆につまらなかったり辛かったりしたら、早く過ぎ去って欲しいと思うわけです。

それが一般的だと思うのですが、私の場合は少し違っていて、楽しい時間でもそれがずっと続けばいいのにとは思ったことがないのです。

そしていつだって早く時間が経てばいいのにと思っている節があるのです。子供の頃は、今よりももっと明確にそう思っていた自覚があります。

時がどんどん過ぎ去っていくのが好きなのですね。時間が停滞していつまでも過ぎ去らない感覚が苦手らしいのです。

もう少し簡単に表現すれば、「新しい物好き」という言い方もできるでしょう。一つのものをいつまでも大切に持っているという傾向が薄い感じです。

自分は変化が好きなんだなあと。音楽を聞いていて、コード進行として Am→D の変化に異常に快感を感じるのです。

このことを高校生くらいの時に気づいて、自分でも大発見をしたと興奮したものです。ラテン系の曲などは、このコード進行を露骨に使ったりします。

そういうわけで、私にとっては「諸行無常」は願ったり叶ったりの法則だと言えるのです。とはいえ、早くこの人生を終わりにしたいとは思ってないですけどね。

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無常は現れのことを言っている

仏教の中でも、特にダントツで大事な概念である、「無常」について書いてみたいと思います。言葉の意味としては、もちろん「変化しないものはない」です。

これを非二元的な見方で捉えてみると、無常は「時間の中で変わるもの」というより、「固定された実体がそもそもない」になるのです。

ものが変わるのではなく、固定された「もの」というものが最初から成立していないというように見るわけです。

そしてもっと深く進んでいくと、時間というものをベースに捉えられていた無常は、時間も概念に過ぎないというところで、見方が変化するのです。

それは、最初の最初から存在するものは何もない、というところまで行くのではないかと思うのです。

時間も空間も概念に過ぎないという説明よりも、無常という表現をした方が分かりやすいのではないかと。

非二元はその辺が残酷なので、平気で時空も存在も概念だと言ってしまえるのですが、仏教は無常という柔らかい表現をしたのかもしれないです。

変化するものは本物ではないという感覚がどうしようもなくあって、それは単に現れであるという非二元と繋がるのですね。

人生は一瞬の泡のようなもの

目覚めている間も、夢を見ている時も、ほとんどの時間が物語の中にいると言っても過言ではありません。

それは、現実を物語だと思ってはいないからです。現実は客観的に起きる事実だと思い込んでいるからです。

けれども、それを正直に見つめてみれば明白になるのですが、この現実は思考が作り込んだ物語でしかないのです。

もしも純粋な意識の立場になったなら、日々の物語に気づいていられるのだろうか?もっと簡単に言えば、意識は物語を知っているだろうか?ということです。

この疑問はもう一年以上も前から持っているもので、まだはっきりとした結論が出ていないのです。

ただ冷静になってみ直してみると、純粋な意識の立場では思考がでっちあげたイメージに気づいていることはないのではないかと。

そうなると、物語の中にだけ存在する我々のことも気づきの中にはないということになります。自我も自我が作り出すこの物語も気づきの中にはないのかもしれないと。

それはちょっと寂しい感じがしないでもないですね。生きている間にどれほどの爪痕を残したとしても、それは一瞬の泡のようなものなのかもしれないですね。

感動が薄くなっているかもしれない

最近ニュースをほとんど観なくなっているので、桜の開花情報のことも知らずにいたのですが、なんだか急に開花しましたね。

今日はほとんど満開の状態でした。毎年楽しみにしているものなので、今年も満開の時期を逃さないようにしようと思っていたのです。

そして運よく、長い時間にわたってソメイヨシノを見続けることができたのですが、どうも少し変な感じなのです。

それは、頭では綺麗だなと分かっているのですが、例年のような感動のようなものがなぜか薄い感じがしたのです。

あれ、こんなはずじゃないのにと思って、しばらくの間、意識的に感動している体でそれを言葉に出していたのです。

すると、少し経ってからやっとそれなりの感動がやってきてくれたのです。それでも、どうも様子がおかしいのです。

これまでの感動は、もしかすると思考の解釈が入り込んでいて、年に一度の希少な体験なんだからと囁いていたのかもしれないなと。

最近自分の反応がやや平坦になってきているのを感じていたので、それをやはりなと実感したのです。

本当の理由は分からないのですが、ただ現れが起きているというシンプルさに気づいたからなのか、今後も様子を見守ろうと思います。

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こちらの動画もぜひご視聴ください。

見かけだけの現象が続いていく

非二元の気づきらしきものがやってきた直後というのは、本当に大変なことに気づいてしまったなあと思っていたのです。

そればかりか、こんな大事な真実を多くの人たちに知らせずにいたとしたら、それはなんだか秘密を知ってそれを黙っているような感じがしてしまったのです。

だから何としてもこれを伝えたいなと。どのような方法であっても、必ずや誰かには届くはずだからと。

それに伝えることを通して、自分自身の気づきもより深いものになっていったのは間違いありません。

自分の口から出た言葉は、不思議なことに自分自身にも多大な影響を与えることができるのですね。

そうやってたくさんの動画をあげてきました。そして自分の探究が落ち着いてきたところで、伝えようとする熱意も鎮静化してきたような。

これからは、非二元そのものの理解を深めるようなことよりも、もっと日常の生活に役立てられるようなことを話していけたらいいなと。

自分も含めて誰もいないと分かっているのに、こうしてブログを書いて動画をあげ続けるのはどうしてなのかとも思うのですが、そこにはどんな理由もありません。

ただそういう現象が起きているように見えるだけなのですね。 

物語が自我の棲家

自我は物語が大好きで、それがなければ生きていけないくらい。というよりも、本当に、物語の中にしか居場所がないのが自我なのです。

もちろん好みの物語もあれば、嫌いな物語もあることはあるのですが、それでも結局はどんな物語であろうと、そこが自我の棲家なのです。

この物語に価値を見出している限りは、どんな気づきがやってきたとしても、そこから抜け出すことはできないのでしょうね。

物語の何がそれほど魅力的なんだろうかと考えてみるのですが、きっと海面に一切波がなければ魅力的ではないなと感じる、この感性なのかなと。

心というのは変化をいつも必要としているのです。穏やかな状態でいつもいられたらと思っている反面、時には嵐が必要なのです。

海面には適度な波があったほうが退屈せずにずっと見てられる。変化するものを好むこの傾向は、自我の気質なのでしょうか。

それでも、自我も物語もこの世界も全てが存在してはいない。そしてただ現象が起きているように見えるだけなのですね。

この気づきは、自我としてはなかなか受け入れ難いのですが、真実は明白です。それだけでも気分がスッキリしますね。

AIに非二元を優しく説明してもらった

日頃いろいろ会話をしているAI君に、非二元を分かりやすく説明するとしたらどうなる?と聞いてみたところ、以下のように答えをくれました。

非二元って何か?非二元というのは、「世界がひとつである」という考え方ではない。むしろ、もともと“二つに分かれていない”という事実のこと。

私たちは普段、こんなふうに世界を見ている:

• 自分 と 世界

• 見ている人 と 見られているもの

• 内側 と 外側

でも非二元では、こう問う:その「分かれている」という感覚は、本当に事実なのか?

とてもシンプルに言うと今この瞬間、

• 音が聞こえている

• 景色が見えている

• 何かを感じている

ここに「自分」と「それ」を分ける境界は、実際にどこにあるのか?探してみると境界は“ある感じ”はするけど、実体として見つからない。

よくある誤解。非二元はこういう話ではない:

• 「全部ひとつだから素晴らしい」

• 「悟れば幸せになる」

• 「ポジティブになろう」

そうじゃなくて、ただ、分かれているという前提が幻想かもしれない、という指摘

じゃあ自分は消えるの?消えない。

• 名前もある

• 体もある

• 思考もある

ただ、「中心としての自分」が実体としてあるのかが疑われる。

まとめ。非二元は、何かを新しく得る話ではなくてすでに起きていることの見え方が、少しずれるだけ。

たとえるなら、ずっと「自分が世界を見ている」と思っていたけど、ふと気づくとただ“見えている”だけだった。そんな感じ。

こんな書き方にするかな、、、だって。うまくまとめ上げてくれてるので、私(人間)の説明はもう不要になる?

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他人のことはその身体だと思ってしまう

自分のことを身体だと思っている人は少ないのではないかと思っていたのですが、本当はそうでもないのですね。

身体は物理的なものであって、私自身は何か精神的なものだと。だから、絶対身体そのものとは思えないわけです。

それなら、心なのか、あるいは思考なのだろうか?と考えてみても、やはりそれも違うということになるのです。

ところが、他人のことについてはどうでしょうか?今日、Aさんと会うという場合、Aさんの身体に会いに行きますよね。

あるいは、Aさんのことを思い浮かべるときには、Aさんの顔や姿(つまりは身体)を思い浮かべるはずです。

そうなんです、私たちは自分以外の誰かのことを思うとき、間違いなくその人の身体を思い浮かべているのです。

なぜなら、身体以外に他人をイメージする材料がほとんどないからです。でもそれはやはり、自分のことを身体だとみなしているからなのだろうなと。

やはり、身体というのは強烈な何かを持っているのです。もしも、本当に自分のことを身体だと思わなくなったら、きっと他人のことも同じように身体とはみなさなくなるはずですね。

未練があれば手放せない

癒しの作業をしているときに、「〜を手放しましょう」というのがありますね。いつまでも執着していると、それが進む道を邪魔するからです。

そんなことは分かってはいるのですが、それがどうしてなかなか手放すというのは難しいわけですね。

以前からずっと思っていたのですが、手放そうとして手放せるものなどないんじゃないかと。じゃあどうしたらいいのか?

元々手放そうとしても手放せないということは、それにまだ価値があると感じているからなのです。

他の言葉を使えば、それに未練を感じているのです。つまりは、手放したくないし、手放すつもりもない。

だから、どれほど理性で手放した方がいいと分かっていても、手放すことはできないのです。結局のところ、自分にとって価値があるかどうかにかかっているのです。

これはゴミだなと分かっていれば、それは勝手にゴミ箱に捨てられるのですから。未練があるということは、ゴミだとは思っていないのです。

ブッダがやったあらゆるものを捨てていく作業、これは自分にとって価値がないと気づいていく作業でもあったわけです。

非二元の探究を通して、この世界は幻想であり夢のようなものと理解できたのに、個人という幻想を手放せずにいる最大の理由は、個人としての自分に未練が残っているからでしょう。

苦しみがあっても、何があろうとも自分の気持ちや気分が大切だと感じてしまうのですから、大きな未練を抱えているということになりますね。