フッサールの現象学が気になっていたようで

学生の頃、フッサールという人の現象学入門という哲学書を読んでいたのですが、それが今の非二元と重なるところがあるかなあと。

そんなことをつらつら思い返していたら、おやっ、社会人になってからもその本を読んでいた記憶があるなと。

あれ、一体どちらの記憶が正しいんだろうか?自分の記憶の曖昧さにはびっくりするしかありません。

そう思って、しばらく記憶を辿っていたら、どちらの記憶も正しかったのではないかと気づくことができたのです。

その本は難解な内容で、読んでも気持ちよく理解することができなかったのですが、それでも気になっていたのですね。

それで、学生の時も、そして社会人になってからも、断続的に読んでいたということに思い当たったのです。

とはいうものの、内容的にはほとんど頭に入っておらず、もうこの歳で難しい書物と格闘するのはごめんだし。

というわけで、いつものAI君に聞いたところ、確かに非二元と通ずるところがあるなということがわかったのです。

AI君に言わせると、現象学は、「ものごとを、先入観なしに、その“現れ方“そのものとして見る哲学」ということらしいです。

ただし決定的な違いもあって、現象学は「意識」を出発点としているところであり、非二元は意識すら起こっている出来事に過ぎないというところですね。

こうしてみていくと、非二元ってこれ以上にシンプルなものはない感じがしてきます。

寄付の用紙に思うこと

何十年も前に卒業した高校から、一年に一回くらいだかわからないけど、「会報」のような感じで冊子が届くのです。

それだけならいいのですが、必ず寄付を募るための振込用の用紙も一緒に届くのです。それが何となく気持ちが良くない。

長年に渡ってずっと寄付をし続けているような人もいるのかもしれませんが、私の場合はなんだか母校という感じが薄いのです。

だから寄付を募られても、何?って感じがしてしまうのです。会報も誰が死んだとか、そんな情報は必要としていないし。

これまで同窓会なるものに、二度ほど出席したことがありましたが、もう出ることはないだろうなと思うのです。

同窓会で突然、みんなで校歌を歌うということになっても、まったく記憶になくてどうにもこうにも歌えない。

それをしっかりと歌える人たちがいるということに、改めて驚きを隠せなかったのです。そして多くの人は当時の教師と中良さそうに話をしている。

私は、どの教師ともほとんど面識がないような気がして、話をする気もしないのですね。これじゃあ確かに出席してもつまらないはず。

そんなわけで、卒業した学校ではあるのですが、なんの思い入れも残っていないというのが実情なんですね。

非二元的に言えば、過去は一度たりともあった試しがない、ということになるのでしょね。

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散歩中のアクシデント

一年を通して、今が一番いい気候かもしれませんね。暑過ぎず寒くもなく半袖か長袖のどちらでも大丈夫な日々。

滅多に外に出ないのですが、久しぶりに用事を済ませがてら散歩をすることにしたのです。ちょうど雲が張り出してきていて、日差しを気にする必要もなくいい気分。

ところが、しばらく歩いていると上から何やらポタッと落ちてきて、何かと思ったら小鳥のフンのようなものが、頭に当たってその余波が上着の前と後ろに。

ついでに、メガネのフレームを汚して、右目のすぐ下の部分にも飛沫が付着してしまい、どうしたものかと。

いつも手ぶらでいるため、ハンカチもタオルも何も持っていなかったので、使い捨てのマスクを一つ犠牲にすることに。

ちゃんと拭き取ることもできないままに、用事を済ませてから一目散に事務所に戻って来ることになってしまいました。

シャワーがないので、蛇口の水で頭を洗ってふだん使ったことのない簡易的なドライヤーで乾かして、事なきを得たのでした。

それにしても運が悪い。たまにしか散歩などしない身なのに。そして頭に的中する確率なんて、非常に低いはずなんですけどね。

とぼやいたところで、非二元で言えば起きているように見えて、起きているように見えるだけということになりますね。

「きっと◯◯に違いない」は知らないことと気づくこと

日常の生活の中で、私たちは今ここにいない人たちのことをあれこれ考えて、気にしてしまうということがありますね。

あの時、ああ言われたのはきっとこういう意図があったに違いないとか、友人二人が立ち話をしていたけど、きっと私の悪口を言っていたに違いない等々。

そんなことを考え出したら、きりがなくずっとぐるぐる考えて悶々としてしまうことになるかもしれません。

こうしたことは大小の差はあれど、誰にでも経験があるはずです。この嫌な状況から脱出するにはどうしたらいいでしょうか?

それは、明確に分かっていることと、こうに違いないと思っていることを全く異なることとして分類することです。

「きっと◯◯に違いない」と思っていることを洗い出して、それは事実ではないということにしっかりと気づくこと。

本当に分かっていることを、きっと◯◯に違いないと表現することはできないと気づけばいいのです。

「きっと◯◯に違いない」ことは、分からないこと、知らないことだと理解すること。そのことに気づかずにいるうちに、知っていることにすり替えてしまうのです。

似たような状況で困る事態がやってきたら、このことを思い出してみることです。そして、知らないことを知っていることとして扱ってしまっていることに気づくことです。

これができれば、早晩そこから離れていくことができるはずですね。

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どこにも物語はない

人生は物語のようなものだということは、ずっと言い続けてきたことです。それは本物のようでいて、実際にはそうではないのだと。

けれども、自我にとってはその物語の中でしか生きることができないのです。つまり、自我も物語の一部だと思えばいいのかもしれません。

非二元的に表現するなら、どんなことが起こったとしても、起こったことについての物語は、起こったことそのものではないということ。

どんな物語よりも前に、どんな概念よりも前に今ただ起こることが起こっているだけ。それが、非二元と二元の世界との違いです。

そしてもっと言えば、起こっているように見えることは、すべて起こっているように見えるだけなんですね。

実際には何も起こっていないということです。ということは、何も起こっていないことをネタにして、そこに概念をフル動員する。

そこに時系列の感覚を持ってきて、それで因果律を導入することで立派な物語が創造されるということです。

このように見れば、普段私たちがどれほど作り物の世界で生きているのかがわかるというものですね。

どこにでも派閥は存在する

「派閥」っていう言葉がありますね。主に、政治家などに使われることが多いのかなと思うのですが。

実は、政治家に限らず職場であれなんらかの組織であれ、子供であれば同じクラスの中にでもそうした派閥が発生するのです。

もちろん派閥とは言わないし、可愛い言い方をすれば仲良しグループなんていう呼び方をすることもあるかもしれません。

けれども、いずれにしても派閥のようなものです。宗教で言えば、◯◯宗だったりと、それこそ無数の宗派に分類されるのです。

こうした人類の特徴というのは、きっと防衛からくるものなんだろうなと。自分の考えと近い人たちと群れることで、個人でいるよりも安全な感じがするのだろうなと。

そして、自分を守るためには所属するグループを守る必要があって、他のグループ、他宗派、他派閥を攻撃することになったりするのです。

そんな中で、どこにも属さずに一匹狼的な生き方をする人もいますね。セッションにいらしてくださるクライアントさんには、そんな人が比較的多いのかもしれません。

私自身もどちらかというと、どこかに属するのが苦手なタイプで、独りで内側に入っていく方が好みのようです。

派閥が悪いとは思いませんが、ほどほどにしておいた方がいいのかなと。そのほうが防衛も小さくて済むような感じがしますね。

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リクライニング・チェアが新しくなります

今日、久しぶりに大きな買い物をしたのですね。それは何かというと、かなり以前から買い換えようと思っていたリクライニングチェアです。

セッションの時にクライアントさんが腰掛けるあのチェアです。それが、もうかなりへたってきていたのです。

本当に長いこと活躍してくれたチェアなのです。その前に使っていたものが突然のように使えなくなってしまって…。

それで困って、お店に行って今日持ち帰らなければならないから、「これを下さい」と言ってこの手でもち帰ったものだったのです。

要するに、展示品ですよね。それ以外、その時に持ち帰ることのできるものなんてなかったのです。

それにしては、これまでよく頑張ってきてくれたなあと。特別な手入れもなしに、思った以上に丈夫な奴でした。

1ヶ月後くらいに新入りがやってきた時には、入れ替わりでその役割から退いてもらうことになるのです。

その時には、一緒に事務所をシェアしてくれている「さちへ」さんが、きっと「今までありがとう!」の言葉と共に送り出してあげるのでしょうね。

慈悲の気持ちの有無

歴史上の有名な覚者たちが、ほとんど非二元的なことを言ってきていないという事実をどう受け止めればいいのか。

ここは、私自身もずっと疑問に思っていたことです。もしかしたら、執拗に調査をすればそうした文献を発見することができるかもしれません。

ただそんなことをしなくても、覚者は当然のように非二元に気づいていたに違いないと思うのですね。

それならなぜ、そういう文献が残っていないのか?禅僧にしても、oshoにしても私が知っている限りにおいては、みんな自分の本質に気づきなさいと言っているのです。

そのためには、瞑想をし、意識を内側へと向けて心静かに坐っていなさいと。やはり自我ではないことを身をもって気づく必要があるのだと。

この二元性の世界で生きているつもりになっている作り話の中では、それが一番賢いやり方なんだろうなと。

多くの覚者たちがそれを唱えてやまないのは、もしかしたら慈悲の気持ちによるものなのではないかなと。

非二元を話す人たちが、慈悲がないとは言わないまでも、誰もいないということを声高に言ってしまえば、そこには愛の要素を感じることができない感じがしますね。 

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自我は妄想の中の妄想だった

ずっと長い間、自我というのは思考が作り出した実体のないしつこい妄想だと思ってきた経緯があります。

自我以外のこの世界は全て実在であり、苦しみの元と考えられる自我だけが架空のものであり、それをなんとかして退治したいと。

そのためになるべく瞑想をすることを心掛けてきたわけです。ところが、非二元の気づきがやってきてから、そのあたりのことが急変してしまったのです。

つまり、めちゃくちゃしつこい自我だけを目の敵にしていたのが、この物質世界自体が妄想だったと気づいてしまったわけで。

そうなると、自我というのは妄想の中の妄想に過ぎなかったことになったのです。もうそれだけを相手にする必要もなくなったのです。

例えてみれば、映画の中で映画を観ているシーンがあるという感じで、要は映画は映画であってただのワンシーンにすぎないと。

そうなった時に、ようやく楽になってきたなと感じたのです。この世界を丸ごと落とすことになったからです。

これは気付けなかったですね。そして、気づけなくて当然とも思いますね。

「五感は人間に備わった脳力」という思い込み

生まれてこの方ずっと五感を通してこの世界を体験し続けているというのが我々の一般常識ですよね。

つまり、この五感という感覚は自分が自分の身体を使って起こす能力だと信じているのですが、果たしてそれは本当でしょうか?

たとえば、もっとも頼りにしている視覚。それは視る感覚のことです。あらゆる先入観や常識を一旦脇に置いて、自由な感覚で見てみてください。

コツはただボーッと見るのです。何を見るでもなく、何かを見ようとするのをやめて、ただ見るのです。

その時、果たして自分が見ているのか、あるいはただ視覚が起きているのか。もしも、ただ見えるということが起きているだけなら、それを視覚と呼ぶのもちょっと違和感が出てくるかもしれません。

そうなると、もう呼び名がなくなってしまうのです。それが概念から外れた証拠なんです。それがリアルなものです。

自分という存在とは無関係に、ただ「視覚と呼びたくない」何かが起きているだけ。これに気づくと、肉体の目で見ていないということが一気にわかるかも知れませんね。

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