分かり合えないことが前提だと知る

この仕事をするようになるまでの間、私は相手がどんな人であろうとしっかりと向き合って本音で話し合えば伝わらないことはないと思っていました。

なにか特別の事情があって、脳に異常があるとか重篤な病気を患っていて、心を開くことができない等がない限りは、分かり合えるものだと。

そのように勝手に信じていたのですが、さまざまなクライアントさんと真剣勝負で話し合うときに、それが間違いだったと気づかされたのです。

それはきっと、それまでの人生の中でそれほど深く他人と関わったことが実はなかったからなのだろうと。

通じない時にはどれほど努力をしたとしても、決して通じないこともあるのだと。誰が悪いということではなく。

人間同士、孤立した個人と個人というのは、突き詰めてみれば本当には分かり合えないものだという悲しい現実があると知ったのです。

けれども、そのことを真摯に受け止めて、それが決して悪いことではなくて、そこには個人であるという原理的な制限があるということなのだと。

大切なことは、言葉では分かり合えないとしても、言葉を超えた部分を共有することは可能なのではないかと。

そして究極的には分かり合えないことを前提として、人との関係を無理のない状態で維持できるように心がけることが必要だと思いますね。

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フェルトセンシング瞑想

ただただ無念無想を目指す瞑想よりも、より効果が期待されるフェルトセンス的な瞑想をご紹介しますので、ぜひ実践してみてください。

静かに座ります。今この瞬間に現れているもの──身体の感覚、音、思考、感情──それらがただ現れていることに気づきます。

抑えようとせず、分析もせず、ただ「現れ」に気づいてください。すべての音、思考、感覚は、同じ「開かれた気づきの場」の中に現れています。

では、その「開かれた場」そのものに注意を向けてみましょう。それはどんな質感を持っていますか?重たいですか? 軽いですか? 色や形がありますか?

この「知っている感じ」を、概念ではなく、柔らかく生き生きとした“触感”として感じてみましょう。そして気づきます──

「感じている私」さえも、この同じ開かれた空間の中に現れています。そこに留まりましょう。変えるものは何もありません。

つかむものもありません。ただ、「気づいていること」そのものの静かな存在感の中に。

 瞑想のポイント

• 「感じよう」とするのではなく、「すでに感じられている」ことに気づく。

• 「私が瞑想している」という感覚も、ただの現れとして観る。

• すると、意識の質感が、柔らかく、透明で、温かい“存在の触感”へとほどけていく。 

非二元の体感を得るためのエクササイズ

非二元のフェルトセンス的体感を得るためのエクササイズを以下に2つ示します。ぜひ、繰り返し練習してみてください。

エクササイズ1:経験の「現れ」へと沈む

目的:思考からではなく、直接的に「経験されている感覚そのもの」に気づく。

手順

1. 目を閉じて、身体の感覚(呼吸・重さ・肌に触れる空気など)に注意を向けます。

2. それらを「私の身体」とラベル付けせず、ただ出現しては消えていく感覚の流れとして感じます。

3. 次に、音(遠くの音、身体の中の音など)も同様に観察します。

4. それらが「内」や「外」にあるように見えても、実際にはどちらも——ただ意識の中の現れです。

5. 最後に自問します:

 > 「この現れの中で、“私”はどこにありますか?」

 > 「それらを見ている“何か”は、どんな質感を持っていますか?」

ここで見つかるのは、“無限に開かれた気づき”のような質感です。

エクササイズ2:見ている主体と見られる対象の統合

目的:見る主体と見られる対象の分離が幻想であることを、身体的に感じる。

手順

1. 目を開けて、前にある物体(例えばカップ)を見ます。

2. 通常、「私がカップを見ている」と感じます。

3. しかし次に、視覚体験全体を単一の映像現象として観察します。

 – カップも、背景も、見ている「目の感覚」も、すべてひとつの“見え”の中に現れています。

4. その“見え”はどこで起きていますか?

 > 外の世界の中? それとも意識の中?

5. ただ感じてみてください。

 見ていることと見られていることが、すでに一つであることを。

(このとき、しばしば「境界のない、透明で静かな在り方」の質感が立ち現れます。)

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言葉になる前の感覚

フェルトセンスという言葉をご存知ですか?これは、言葉で表現する前の、曖昧で漠然とした身体感覚や意味合いを指す心理学用語です。

なんとなく気分が重いとか、心がモヤモヤする、あるいは気持ちがザワザワするのように、明確な感情ではないものを指すのです。

この「言葉で表現する前の」というのが、いつも言っている直接の経験に留まるという非二元を体感するための練習とピッタリなのです。

直接の経験というのは、思考が持ってくるどんな情報であれ答えであれ、それらを受け取る前に感じている生の感覚のことです。

それがちょうどこの「フェルトセンス」という言葉と合っているわけです。フェルトセンスだけに留まるなら、それはすでに非二元なのですね。

フェルトセンスの中に留まるなら、どんな物語からも解放されることになるはずです。物語は言葉によって支えられているからです。

フェルトセンスのキーワードには、透明、静寂、広がり、無境界、柔らかさ、存在そのもののあたたかさ、などがあります。

コレらは、到達するものではなく、いつもここにあるものとして再認識するだけでいいのですね。

現実は意識が見る夢

これまでも何度か、非二元を表現するのに夢のようなものだという言い方をして来たのですが、今回もその話です。

ただし、今回は「夢」を利用して非常に大切なことをお伝えしようと思うのです。それは、いつも言っている「コレだけがある」が納得できるようになるのかなと。

例えば、夢の中である場面を見ているとします。その夢のシーンは、その夢の中ではそれしかないですよね。

ある夢の中で、その夢のシーン以外があるということはあり得ないということ。このことは、当たり前だと気づくはずです。

つまり、この現実というものもなんらかの夢のワンシーンなんだという事になれば、コレしかないが分かるわけです。

ではこの現実という夢を見ているのは誰なのか?ということが残るのですが、それは私たちの本質である純粋な意識なのだろうと。

この現実という夢は、その無限に開かれた意識というスクリーン上に現れた映像のようなものだと捉えればいいのですね。

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あなたが「それ」そのもの

今自分が素直に感じていることを、本当にそのままに、とてもシンプルで的確な言葉で表現してくれている動画を見つけました。

見つけたというよりも、おすすめにあがって来てくれたので、それほど期待することなく見てみたら、ドンピシャでした。

1人静かに非二元の中へと入って行こうとすると、自分の身体が消えて、自分が透明になってしまう感じがします。

そして、その透明さが無限へと拡大していくのですが、そのことを、非常に的確に上手に表現してくれてるなあという動画なのです。

シャンカラという人物の名前だけは聞いたことがありました。確か、osho が時々引き合いに出す名前でした。

調べてみたら、インド哲学史上きわめて重要な思想家で、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ(非二元論的ヴェーダーンタ)の大成者として知られている、とのこと。

ああなるほど…。短い動画なので、時間があるときにでも気軽に観てみてください。とてもお勧めです。

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若い時のようには対処できない

久しぶりに、ホームページに関連したちょっとしたトラブルが起きて、それに対処しようと奮闘していたのです。

普段ほとんど気にすることがなくなっていたので、久しぶりに思い出してああでもない、こうでもないとやってみたのです。

ところが、数年前に自分で設定したことなどを全く思い出せなくて、びっくりしてしまいましたね。

もうパソコンやネットにまつわる少しの技術的なことに対しても、自分の脳みそが対応できなくなって来ているのかもと。

元々そういうことが本来苦手だからなのか、はたまた歳を重ねて来てしまったからなのか、ちょっと悲しくなりました。

こういうことは毎日扱っていないと、もう元には戻れなくなってしまうものなのかもしれませんね。

あれこれコネ回して、ようやく何とかなったので良かったのですが、今後こうしたトラブルには対処できなくなっていくのかもしれません。

かつてはそんなに苦手ではなかったはずなんですけどね。脳みそが変容して来たということで、自分を慰めています。

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音を通して気づきを見る

今回は聴覚に特化した非二元のワークをやってみたいと思います。

ステップ 1: 静かに耳を開く

今の環境にただ耳を向けてみてください。エアコンの音、鳥の声、車の音、部屋の物音…どんな音でも構いません。

ステップ 2: 音はどこにありますか?

• その音は「外」で鳴っているように感じますか?

• あるいは「頭の中」で聞こえているように感じますか?

• もう少しよく観察すると、音はただ「現れている」だけで、実際に「内」と「外」の区別はありません。

音は「気づき」という開かれた場にただ現れている、と見えてきます。

ステップ 3: 聞いているのは誰?

• 音は現れています。

• では「それを聞いている誰か」は見つかりますか?

• よく探すと、「聞いている私」という中心はなく、ただ音が起きては消えているだけです。

ステップ 4: 音も感覚も同じ場にある

以前に実践した「身体感覚」も、今の「音」も、どちらも区別なく同じ場に浮かんでいます。

どちらも「気づきのスクリーン」に現れては消える現象にすぎません。

ステップ 5: ただ休む

しばらく「音がある/ない」「感覚がある/ない」を追わず、すべてが自然に現れては消える気づきの場にくつろいでみてください。

感覚が変容することはない

非二元の中へと入っていくと、ここには誰もいないとか身体もないということに気づくことができます。

ところが、不思議なことなのですが、これまでの二元の世界での見え方が何か変わったのかというとそうでもないのです。

というか、見え方や感じ方には少しの変化もないのです。それなのに、ここには身体がないというのも明確になっているのです。

これはどれほど他人に説明しようとしたところで、簡単には理解してもらえるようなことではないのは当然です。

かつて、探究の唯一の手段として瞑想を続けていた時には、覚醒に近づくにつれて自分の普段の感覚が変容するはずだと思い込んでいたのです。

けれども、そういうことではないのですね。これまで通りの見え方、感じ方が続く一方で思考による作り込みを分離できるようになるだけなのです。

その結果、元々の経験、体験が明確になるということなんですね。これが本当にあるがままを体験するということなのかなと。

それこそが非二元のワールドなのですね。

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ただ在ることのシンプルさ

非二元でいうコレは、シンプル過ぎて一切の説明ができないほどだし、それを捉えることや、理解することもできないのです。

たとえば、色という現れが無数に散らばっているとしても、本質的には均一であるということに気づけるでしょうか。

そのシンプルさの中には、時間もないし、空間もない。あらゆる境界もないし、分離もない。つまり個別性もないのです。

コレにはどんな構造もないし、関係性もありません。そのため、モノもないし、もちろん身体もない。

誰かもいないので、自分が身体の中にいるということもあり得ないと分かります。そんな複雑怪奇なことは起きようもない。

我々が暮らしている二元の世界が複雑に感じるのは、その全てが思考によって想像されたものだからなのです。

非二元においては、今というのは時間ではないし、ここというのは場所ではないのです。そんな特別なものは存在できない。

ただ在るということのシンプルさとともにいること以外、何もないのです。そしていつもあるのはただのコレ。コレより他はない。