信じる力 その2

昨日の続きです。昨日のブログでは、自分に都合のいいように知覚を変形させて、その結果感じるものを信じるようになるというお話をしました。

昨日までの話は割合分かりやすいと思いますが、今日は続きとは言っても、少し分かり辛くなるかもしれませんが、とても重要なことですので書いていきたいと思います。

このブログでよく登場する投影という事について、それを別の言葉で表現すると、私たちは見たいものを見、聞きたいものを聞くということになります。

自分が望むものを心に描き、それを使って知覚を捻じ曲げるという昨日の話とは全く違います。自分が望むものを心の中に描き、それを使って知覚そのものを作り出すということを言っているのです。

常識的には、この逆のことを真実だと思い込んでいます。つまり、まずそこに机という物体があって、それを肉眼で見ることによって、そこに机があると認識するとしているのです。

自分はそこに机など見たいと思っていなくても、そこにそれがあるから見ることになるのだと思っています。 五感すべてに対してこのように信じています。ですが、これこそが私たちがずっとエゴに騙されてきたことなのです。

原因と結果が全く逆であるということです。つまり、自分の外側にそれが存在するというのが原因であり、だから、自分はそれを見たり触ったりするというのが結果だと思い込んでいるのです。そうして、それを固く信じています。

でも本当はまったく逆だということですね。自分の内に望むものを描くのが原因であり、その結果それを知覚するようになるということなのです。ここでとても重要なことに気づきます。

つまり、知覚することが結果であるということは、そこに何かが在るということには意味がないということになります。私たちにとって、自分が起こしている知覚がすべてなのです。

知覚とは、自分が心の中で望むことをそのまま信じるようにさせるための錯覚なのだということです。そして、一度信じてしまうと本人にとってはそれが真実となっていくのです。信じる力とは本当に凄まじいものです。

しかし、実際には何を信じようが、信じまいが、それと真実とは無関係です。幸せになるとは、たった一つの真実を信じるようになることしかないのではないかと、奇跡のコースでは言っています。

このことはすぐにはピンと来ないかもしれませんね。これを書いてる私も、このことを分かっている自分は自分の心全体の数パーセントに過ぎないのかもしれないと思っています。

ですが、日頃信じて疑わないことを、まっさらな気持ちになってもう一度見直してみることはとても大切なことなのです。私たちは本当に何が真実で何が間違いなのか分かっていないからです。

自分の肉体が作る五感による知覚を一度、信じるのをやめてみる必要があります。そうしていくことで、自分の人生をできるだけ幸せなものに変えていける道が開けていくのですから。

信じる力

私たちは、普段自分は目覚めていて何らかの活動をしているという自覚を持っています。その自覚は身体の五感を駆使することでトータルな知覚として得ることができるわけです。

水泳をしている、テレビを見ている、誰かと握手しているなど、どんな状況でも身体の知覚によってそれを把握しているわけです。そして、一般的に、自分の知覚というものを信じています。

現代では、テレビや映画、ゲームなどのように視覚や聴覚に対するニセモノによって、実在しないものをあたかも実在するかのように思わせられたりしています。味覚や嗅覚も例えば本当のメロンの代わりになるようなメロンの香りや味のするものがありますね。

触覚だけは複雑すぎてそれを模倣するのがむずかしいのでしょう。触覚は身体の各部分の感覚が総合されたものだからですね。それでも、最近は例えばロボットの遠隔操作など、柔らかいものを掴むときにその力加減ができるように、掴んだ感触を手のひらに伝えてくれるようなものが開発されてきたりしています。

こういったものは、我々はあたかもホンモノのように感じられつつ、でもホンモノではないということを予め知っていますので、何の問題もありません。逆に生活がより豊かになるためには必要なものと言ってもいいですね。

しかし、問題は自分の知覚を信じすぎて、実在とはかけ離れたものをホンモノと信じてしまっているような場合があるということです。

強い思い込みなどによってもこういったことが起きてきます。まず、こうあって欲しいが心に生まれ、それに都合のいいように五感を使って知覚するようになるのです。その結果、それが本人にとっては真実と思えてくるのです。

例えば、ストーカーなどはその典型でしょう。相手からどんなに嫌いと拒絶されても、キミは俺と一緒にいるのが幸せなんだからという思い込みによって、相手の態度もそのように変形させて知覚してしまうのです。

いい例もあります。あまり良い言葉ではないかもしれませんが、あばたもえくぼ、などはそのいい例ですね。恋に落ちて、相手のことを大好きなうちは、とても素敵に感じるように知覚をコントロールしているのです。でも、本人にはその自覚はありません。

そして、ひとたびその恋が破れてしまうと、急に気持ちが覚めてしまって、何であんな人を素敵だなとと思っていたんだろうと本人がびっくりしてしまうのです。

このように、私たちは本当に沢山の間違いを信じて生きています。そして、その信じるという心の力は私たちがイメージしている以上にすごく強力なものなのです。一旦何かを信じてしまうと、それが自分の中で真実になっていきます。

つづく

自分のすることは、全て自分自身にしている その2

昨日の続きですが、この「自分のすることは、全て自分自身にしていることになる。」を本当に理解できたら、先日のブログ『愛について』でお伝えした、「愛を与えることが、愛を受け取ることになる」の意味が分かるはずですね。

私たちはずっと愛されたいと望んで生きてきました。催眠療法などで幼い頃を思い出しては、自分の両親から充分に愛されなかったとして、だから自分には愛がそもそも足りないんだと思うのです。

それは確かにご尤もなことなのですが、大人になった自分が気づかなければならないのは、愛が欲しいといくら叫んでも愛を受け取ることはできないということです。

愛されるためには、つまり愛を受け取るためには、自分が愛する、愛を与えることが必要なのです。愛が足りないといつも不平不満を抱いている人は、絶えず愛を欲する万年受身の状態で生きているのです。

だから、愛を受け取ることには決してならないのです。相手を裁けば、自分が裁かれるし、相手を攻撃すれば自分が攻撃されるのです。人を傷つければ自分が傷つくことになります。

相手を否定すれば、自分が否定されるし、相手を罵倒すれば自分が罵倒されるのです。相手を憎めば自分が憎まれるし、相手を見下せば自分が見下されるのです。

逆に相手を慈しむ心があれば、人から慈しみの心で迎えられるし、相手を尊重すれば自分が尊重されることになります。愛をもって相手に向えば、愛をもって相手から受け止めてもらえます。

なるほど、そうかと思っても、私たちは人から怒りをぶつけられてしまうと、つい怒りで対応してしまいますね。そんな時に、冷静さと取り戻してこの法則を思い出すことができたら人生はすばらしいものになるはずです。

自分のすることは、全て自分自身にしている

よく、イジワルすると巡り巡って自分に戻ってくるなどと言うことがありますね。人に親切にするといずれ何かの形でそれが自分に戻ってくるというのも同じです。いい事も悪いこともそうやって、人に対してした行動は必ず自分にその報いがやってくるということです。

そういうことをカルマの法則のような言葉で表現する場合もあるかもしれません。因果応報という意味ですね。

「奇跡のコース」では、「自分のすることは、全て自分自身にしている。」というもっと直接的な表現で述べられています。そして、この言葉の本当の意味は、カルマの法則や因果応報などとは全く違うのです。

カルマの法則では、悪いことをしたら、その罰が必ずやってくるということになっています。しかし、コースでは罪もなければ罰もないということが前提です。ではなぜ、自分がすることは、全て自分自身にしていることになる、などと言うのでしょうか?

ここでも例の投影のことを思い出して下さい。(ここで言う投影とは、心理学などで使う一般的な意味での投影とは違いますので、詳細は少し前のブログを参照して下さい。)

自分の内面を外側に映し出したものがこの世界だということでした。だから、あなたの周りにAさん、Bさん、Cさんがいるとしたら、それは自分の内面の奥底にそれぞれに対応するようななんらかの部分を持っているということです。

別の言葉で言うと、他人とは自分の潜在意識なのだということになります。私たちは物心が付いた時から、自分と他人とは別の存在だということを無意識的に叩き込まれて生活してきています。

ですから、わけあって、自分が相手を攻撃すると、相手は傷つき、自分は傷つかないと思っていますし、その反対も当然のこととしてあると信じています。しかし、本当は、自分が右のこぶしで相手の頬をなぐったら、同時に相手のこぶしが自分の頬をなぐることになるのです。

なぜなら、相手は自分の潜在意識、自分の内面の一部だからです。愛はそのことをはっきり理解しています。相手と自分は別の存在だと自分に教えてきたのは他でもないエゴなのです。私たちはそれを信じることでその教えに力を与えてしまいました。

幼いチンパンジーに初めて鏡を見せてやると、びっくりして鏡の中の自分を別のチンパンジーだと勘違いして、攻撃を始めます。すると、相手もまったく同じように自分を威嚇してきますので、更に怒ってもっともっと攻撃しようとしてしまいます。

私たちが日頃やっていることもこれと全く同じなのです。人類が戦争をやめないのも、殺し合いを続けてしまうのも全部このチンパンジーと全く同じだということをしっかり分かる必要があります。

聖霊は勿論、このことを充分に把握していますので、聖霊に従って生きることができれば、争いはなくなります。

与えるものを受け取る。 これも言葉を変えただけで、言わんとすることは同じですね。
相手を攻撃すれば、自分が傷つき苦悩するし、その人を赦せば自分が救われるということです。

愛について その3

昨日の続きですが、実は自分の心の中にあるその真の愛の部分を、どんな名前で呼んでも構わないですが、私は「奇跡のコース」に従って、聖霊と呼ぶことにしています。

「奇跡のコース」では自分はスピリチュアルな存在だということが大前提にあるため、本当の自分の愛の部分を聖霊(Holy Spirit)と呼んでいます。でも呼び方など、どうでもいいのです。

自分の中の愛の部分と思えばいいわけですから。この部分を活性化して生きるとはどういうことかを説明します。

私たちの一日は朝目覚めるところから始まります。その時に、まだ頭がぼーっとしている時はともかく、さあ起きなきゃ!と思った瞬間からエゴのシステムが稼動を開始し、無自覚に私たちの意識はエゴに占領されてしまいます。

そして通常そのまま夜寝るまでエゴのバックアップを受け続けて一日を生活しているのです。ですから、残念ながらそこには愛がありません。エゴの見せ掛けの愛はありますが、聖霊の愛とは全く違います。

そういう毎日の生活の中で、私たちは無数の選択をし続けています。今日は会社に行くのかどうか、あの人にどうやって自分の気持ちを伝えればいいのか、飲み会に出席するべきかどうかなど、実に沢山の選択をして、それに従って行動しています。

その選択をするのは、それを誰かに任せない限りはこの自分なわけです。でもその選択、決断を裏でバックアップしているのは、エゴのシステムということになります。つまり、エゴの選択、エゴの決断を利用して毎日生活しているわけですね。

エゴのベースは自分を防衛することです。そのために愛の代わりに怖れ、怒り、苦悩などが活躍の前提となっているため、心の平安である永続的な幸せを手に入れることは難しくなります。

愛の部分を活性化させるとは、エゴの代わりに愛の部分を使って日々の選択、決断をするということです。

具体的には、朝起きたときに、自分一人で今日一日の選択、決断をしないということを決意するのです。これをしないと、勝手にエゴが活躍してエゴの選択で生きることになってしまうからです。

とにかく、自分一人では選択しない。その代わり、自分の心の愛の部分である聖霊に選択をしてもらうということを決意するのです。聖霊に選択してもらうためには、自分は全く選択していないというまっさらな状態にまずなる必要があります。

その上で、心の中でどちらを選択すればいいのかと聖霊に伺ってみるということです。勿論聖霊の言葉が聞こえるわけではありませんが、毎日続けているうちに、何となく聖霊の選択をニュアンスとして感じ取ることができるようになってきます。

自分がエゴに乗っ取られてしまっているときには、エゴの大きな雑音に邪魔されて、聖霊の清らかな答えを感じにくくなってしまうこともあります。こればっかりは、練習あるのみだと思います。

特に、この選択はとても自分にとって重要だと思う場合には、時間がかかってもいいですから、聖霊からの返事を受け取るようにすることがとても大切です。そして、受け取った聖霊の選択を解釈することなく、実行することです。

解釈しようとすると、エゴがしゃしゃり出てきますので、必ず聖霊の答えに対して不満を訴えることになるはずです。自分の真の愛である聖霊を信頼して、完全に任せるという気持ちになることがとても重要ですね。

このようにして、少しずつ聖霊に従って生きていくことができるようになっていくと、今までと全く違う自分に生まれ変わることができ、愛による心の平安を手に入れることになるのです。

愛について その2

私たちがわかる範囲の愛というものについて、その輪郭、その属性などについて書いてみたいと思います。そうすれば、なぜ愛を与える日々を過ごすことによってのみ幸せになれるのかが分かってくると思います。

純粋な愛は愛そのものにしか反応しません。つまり、自分が愛の心で居る限り、相手のことも愛の塊であると感じることができるのです。逆に、愛は愛以外のもの、例えば、怖れ、怒り、憎しみ、絶望、苦悩、そういったものに無反応です。

愛は自分のことも人のことも裁きません。愛にとって、罪は無意味だからです。つまり、愛は誰のどんな言動に対しても、それを赦さないということはありません。愛は人間が作ったあらゆる常識やルール、枠組みに当てはめることはできません。

愛は攻撃することもありませんし、愛は何も欲しがりません。ただただ与えることのみです。愛は、比較することをしません。愛は、特定の人だけに向けることはできないのです。自分の家族、恋人、大切な人、そういった人にだけ愛を与えるということはできません。

愛があるところには、怖れや怒りは存在することはできません。だから、逆に自分の心が何かを怖れていたり、怒りを感じるときには愛が欠乏しているということになります。

愛は自分を守ろうとするエゴの防衛システムとは意思の疎通ができません。互いに相手を認識することができないのです。エゴの方はもしかしたら愛を知っていて知らないふりをしているだけかもしれませんが。

愛は愛以外のものに同調することはできません。ですから、例えば可愛そうな事とか、悲惨な出来事とかに対しても殊更愛を使って何とかしようとはしません。愛はいつも永続的な心の平安と共にあります。

こうして見ていくと、自分の心の中に愛があるとは思えなくなってくるかもしれませんね。なぜなら、現実とはかなりかけ離れているように感じるからです。でも私たちが理解する範囲の純粋な愛とはこのようなものなのです。

そして誰の心の中にも愛が充満しています。ただ私たちはエゴのシステムに組み敷かれてしまっているために、この愛を使えない状態にさせられているだけなのです。

心を静かにして、そういう愛の部分が自分の中にあるのを感じてみて下さい。うっすらとでもいいですから、必ず何かを感じるはずです。その部分をこれからできるだけ活性化させて生きていく必要があるのです。

愛について

私が今学んでいる途中である、「奇跡のコース」という本の序文に以下のような文章があります。

『…。このコースは愛の意味を教えることを目指しているのではない、なぜならそれは教えられることを越えているからである。しかしながら、愛は実在するもの、と自覚することをさえぎるものを取り除くということはたしかに目指している、そし てその愛はあなたが生まれながらに受け継いでいる。…』

本当に実在するのは愛だけである。しかし、真実の愛を本で教えることはできないと言っているのです。それは我々人間の存在を超越した領域のことであるからであり、だから人間が発明した文字では表現できないということなのでしょうね。

ただし、私たちが理解できる範囲の愛というものに意味がないということではありません。その逆です。私たちは分かる範囲で、できるだけ愛を使う、愛を与える日々を過ごすことによってしか、幸せになることはできないと説いています。

大切なことは、「愛はあなたが生まれながらに受け継いでいる…」という箇所です。私たちの一人ひとりは、みんな等しく愛に溢れた存在であるということです。例外は全くありません。

どんな極悪非道な犯罪者でも、あなたが個人的に憎んでいる人でも、世界中の誰でもが本当は愛のかたまりだということです。でも、そう言われても自分は愛というものがよく分からないと思っている方もいらっしゃるはずです。

それはきっと生まれてから今まで生きてきた人生の中で、愛とは正反対の怖れ、怒り、絶望などの苦悩を沢山経験してきてしまったからなのだと思います。でも、自分の心の奥を注意深く観察すれば、必ず愛がそこに横たわっているはずです。

みなさんは、愛されることと愛することとどちらが幸せだと思いますか?女性の場合は特に、愛されることが幸せに違いないと思っている方が多いかもしれませんね。

しかし、これは比較の問題では実はないのです。愛されるということ、そのものには意味はありません。愛の本質は愛するということによってのみ意味を成すからです。愛するということは、愛を与えるということですね。

そして、愛されるとは愛を受け取ると表現できますが、この愛を与えるということが実はそのまま愛を受け取るということになるのです。なぜそんなことが言えるのかは、いずれどこかで説明することになると思いますが、今はへえと思って聞き流しておいて下さい。

つづく

心は傷つかない

傷心旅行とか、心を傷つけられてひどく落ち込んだとか言うように、私たちは通常心は傷つくものだと思い込んでいます。今日はそれを覆したいと思って今書き始めました。

なぜ心が傷つくと思うのでしょうか?確かに、好きな人に裏切られたり、人からひどい暴言を吐かれたりしたら、心が痛む、痛手を負うという経験をします。だから心も身体と同じように傷つくものと解釈しているのです。

勿論、心は身体のような物理的な実体があるわけではないので、その傷は見たり触れたりすることはできないので、ある意味比喩的な言い方であることは分かっています。

身体は確かに傷つきます。そして、その身体の中に心が宿っていると一般的に思われていますね。人によっては、心というのは身体の一部としての脳の働きによって起こる物理現象に違いないと思ってるわけです。

そういう意味では、初めに身体があって、その上で心というものを発生させているという捉え方ですね。だから、身体が傷つくのと同様に心も傷つくと思っているのです。

傷つくというのは、実は身体の死というものから連想されるものなのです。傷つく度合いが小さければ、死をイメージすることはありませんが、それでも傷つけられるということは死の方向へ近づくことを思わせるのです。傷の度合いが大きければ直接的に、死をイメージしやすくなるだけです。

身体は必ずいつか死を迎えるし、今この瞬間に死がやってくる可能性もないわけではありませんね。つまり、身体である私たちは生まれたときからいつも死と隣り合わせに生きているということです。これが傷付くという原因です。

ではもし、身体があるから心があるのではないとしたら、どうなるでしょうか? つまり、身体とは無関係に、あるいはまず心というものがあって、その後で身体が作られたとしたらどうでしょう?

心と身体は全く別物という捉え方をするということです。こうなると、死は身体だけのものとなるため、傷つくのも身体だけだということになります。こういう考え方を唯心論というように呼ぶこともできるかもしれません。

つまり、自分というのは心あるいは魂であって、この世に生まれてきて肉体という乗り物に乗って生活をし、その乗り物が死によって使えなくなったときに、とりあえずあの世に戻るということですね。

しかし、たとえ自分は唯心論者だと言っている人がいるとして、その人が心も傷つくことがあると思っているのでしたら、残念ながら心の奥では心と身体を混同しているということになるのです。

好きな人に裏切られると心が傷つけられたと感じるのは、そのことが見捨てられる恐怖につながっているからです。それは幼い頃に感じた、親から見捨てられたら自分は生きてはいけないという怖れです。これは肉体的な死と直結しています。だから、身体と心を混同していれば、傷つくという状態を感じるのです。

人からひどい暴言を吐かれて、心が傷ついたと感じるのも、幼い頃に親に怒られたり否定されたりして、愛を感じない状態のときに、やはりこれでは生きてはいけないと感じた経験が元になっています。それもやはり物理的な死と直結しているからこそ、身体の死を心の死と同じものとすることによって、心が傷つくと思ってしまうのです。

心は傷つくことはないということをしっかり認識することができたとしたら、私たちの人生はどんなふうになるでしょうか?それは少しは楽になるかも知れないなどというレベルではなく、きっと激変してしまうはずです。

なぜなら、私たちは身体が傷つけられるのを怖れている以上に、心も傷つけられるのを怖れています。そのためにできるだけの防衛をしようと毎日エネルギーを使い続けているのです。

ですからその一方である、心が傷つくことはない、ということになったら、単純に考えても日々の防衛が半分で済むことになってしまいます。原始時代や戦国時代であれば、身体の防衛が中心となる毎日になるかもしれませんが、この現代では身体を防衛しなければならないことはそれほど多くはありません。

ということは、心を防衛せずにいられるようになるということは、ほとんど防衛せずに生きていけるようになるということを意味します。これはエゴを使わずに生きることに近づくことを意味します。

その結果はこのブログを読んでおられるみなさんでしたら、すぐに察しがつきますね。つまり、エゴの防衛を使わないということは無防備になるということ、それは愛で生きるということを意味します。死のない世界は愛の世界となるのです。

私自身もまだまだ心が痛むという経験をしますので、心と身体を混同してしまっている部分が残っているということです。でもいつの日か、自分自身の本質は身体ではないということが本当に分かるときがきて、愛の心だけで生きられるようになりたいなと思っています。

原体験 その2

昨日の続きですが、その最初の体験をした後、自分のことは自分で守らねばならないという意識が発生します。それまでは、自分と親とは精神的には一つものであったのですが、この時を境に分離が起きてきます。そして、このときに発生した、自分を守らねばという意識がエゴというわけです。

エゴは惨めな情けない弱々しい自分というものを隠そうとします。それは、自分からも他人からも隠さねばならないのです。そうしておいて、自分は強いんだ、自分は大丈夫なんだという姿を外部に対して見せようとします。

その発達段階で出来上がるのがエゴの防衛システムです。エゴは惨めな自分を隠しつつも、その惨めな自分をそそのかして、昨日説明したような投影をすることによって、本人の人生で惨め体験を繰り返させてしまうのです。

そのすべてがエゴの防衛システムのなせる業なのです。エゴはそれを正当化するために、本当は両親に愛されていたんだということとか、防衛するのに不都合なことをすべて隠そうとします。

つまり、愛されている自分というものを知っているのに、それを否認することで抗議活動を続けられるようにと仕向けるのです。エゴは愛を否定します。なぜなら、愛されていることを認めてしまうと、防衛することができなくなってエゴは衰退してしまうからです。

セラピーでは、通常、原体験もしくはその後に発生した似たような惨め体験を思い出して、その時に溜め込んでしまった感情を味わって開放することで、惨めな投影を止めていくように仕向けます。

ただ、それだけではエゴの作戦に勝てないので、エゴから切り離された愛の部分にしっかりと目を向けることをやっていく必要があります。エゴが邪魔をするのでなかなか認めたくないのですが、実は親の愛をしっかり受け取っていたということを思い出していただくのです。

そのことを充分に認めたうえで、もう抗議活動はできなくなるけど、その方が幸せになることができるということに目を向けるのです。そうすることで、無意味に繰り返されていた投影も、そしてエゴの防衛も力を失っていき、結局愛に気づいた平安な心を取り戻すことができるようになるのです。

原体験

以前コラムの中で書いたことがあったと思うのですが、人間を人間たらしめている脳である前頭前野という部分は、他の脳の部分と違ってわずか3年で9割がた発達を終えてしまうということです。

つまり、人間は3歳にしてほとんど人間としての脳を獲得してしまうのです。ただ、経験が少ないために大人のようには生きることはできませんが、感性や人の気持ちを汲み取るなどの情緒的な部分はほとんど出来上がってしまうということですね。

そしてその頃にとても惨めな辛い体験をするのです。それまでにも経験してる可能性はあるのですが、脳の発達がまだ未成熟であったため、その体験を本当に惨めなものとして受け止めることができなかっただけです。

3歳くらいのこの惨めな初めての体験は、心の奥にしっかりと残ります。ただ、その時には自覚としてはまだ反応ができずに、ぼんやりとした経験をするに過ぎないのですが、心の奥では辛い体験として刻印されます。

その後、この惨め体験に対して、抗議したいという自分が出てきます。これは意識できるようなレベルではないために、本人としては自覚することはできないでしょう。それでも、その抗議したい意識は非常に強力なので、その抗議活動をその後の人生で何度も何度も繰り返していくことになるのです。

方法は簡単です。例の投影を使うのです。自分が体験してしまった、あの惨めな思い、激しい怒り、そういったものをまた自分が体験できるように仕向けるのです。投影によって、まさにそういう状況を作り出してしまうということですね。

同じように惨めで腹立たしい状況になることによって、またいつでも抗議活動ができるように仕向けるのです。自分が幸せな人生になってしまったら、もう二度と抗議できないわけですから、この抗議活動が可能な自分という状態をずっと持ち続けたいわけです。

本人にはそういった自覚は全くないですから、ただ非常にいやな体験をなぜか繰り返してしまうという人生になってしまうのです。勿論ネタは様々です。原体験の相手は通常親ですが、その後の人生では友人や先輩、職場の上司、恋人など、あらゆる相手を投影として利用します。

なぜだかは分からないが、繰り返されてしまう腹立たしい、惨めな体験を打ち止めにしたければ、その最初の体験(原体験)の時の自分を思い出して、その時の本当の気持ちを受け止めてあげることが大切です。

つづく