いい人路線

罪悪感を人一倍感じやすい人は、いい人であることが多いです。これは決して偶然ではありません。いい人がたまたま罪悪感をたくさん持っているのではなく、罪悪感に敏感だからいい人にならざるを得ないのです。

つまり、少しのことでも自分を責めてしまう傾向が強いと、大したことではないにも関わらず自責の念にやられてしまうため、本人としてはそれが辛いのでできるかぎりいい人になろうと頑張るのです。

誰でも自分の何らかの言動によって、周りの人を傷つけてしまったり、いやな気持ちにさせるようなことがあれば、それは確かに悪い事をしたなと後悔するものです。

その時に、どのくらい自分を責めてしまうのかは人によって様々なのです。一度謝ったのでもう大丈夫と割り切ってすぐに忘れてしまえる人もいれば、いい人のようにいつまでも後悔の渦の中に落ち込んだままになってしまう人もいます。

こうして罪悪感が強い人ほど、いい人路線を突っ走ることになっていくのですが、その度合いが大きすぎるといい人を継続するだけ自己犠牲を溜めていくことになってしまいます。

いい人路線、つまり自己犠牲を強いていい人を演じて罪悪感を感じないようにするのか、あるいは自己犠牲を手放し、いい人になることをあきらめて、辛い罪悪感と格闘するのか、二つに一つだと思いがちですね。

しかし、そのどちらにしてもエゴの領域なのです。そのどちらも選択しないという選択があるのです。それが、エゴの代わりに愛を選択するということです。

愛はいい人になって罪悪感から免れようとするのではなく、罪はないとして罪悪感を認めないでいられるのです。だからこそ、自己犠牲を払うこともないし、とりたてていい人になろうと思うこともありません。

自分はそこそこいい人と思われてるかもしれないという自覚のある人は、このことをよく見つめてみて下さい。いい人は努力してなるものではなく、愛を選択することによって自然と気持ちのいい人になるのです。

今この瞬間からでもいい人を卒業して、できる限り愛を選択するようにしていくことです。いい人を手放す恐れに負けないためにも、聖霊を信頼してすべてを委ねることです。

選択 その3

昨日のつづきです。

「いやなこと」が心に浮かんできたら、自分はそれを選択しないときっぱり宣言することが大切だということを書きました。

様々ないやなことがある中で、エゴにとって我々を翻弄していいように操るために最も好都合なのは罪悪感です。

エゴを選択し、そして罪悪感を選択してしまうと、私たちはいきなりどうしようもないダメな奴になってしまいます。

「自分は家族に苦痛を与えてしまった。」とか、「誰かをひどい目にあわせてしまった。」などとして、自分を責めるのですが、しかし実はどんな場合にも、罪悪感には根拠が絶対にあり得ないのです。

エゴの範囲内では、エゴの操りで、罪悪感には根拠があるように見えてしまうのですが、それは愛のないエゴのルールの中でのことです。

しかしこの根拠が本当にあると思い込んでいるならば、あなたはエゴの枠組みの中に閉じ込められて、脱出できない羽目に陥っていると言えます。

コースが教えているように、誰にとっても、自分を傷つけられるのは自分の思い以外にはない、ということを思い出して下さい。

もしも、自分が罪悪感を選択しないでい続けることができたら、あなたに傷つけられて苦しんでいた人たちにも変化が訪れます。

彼らもそれまでのあなたと同様にエゴの枠組みの中にいさせられ、あなたの罪悪感を正当なものとする意識でいただけだったのです。

自分の内に罪悪感を見ない、選択しないでいることで、他人の内にも罪はないものとしてみることができるようになります。そうなると、自分と相手の間の隔たりを保つものがなくなり、自然と一つになっていくのです。

それが、コースで言う一体化です。それこそが本来の自分の姿なのです。

選択 その2

昨日のつづきです。

「いやなこと」が心に浮かんできてしまう理由は、それを予め自覚なしに自分から選択していたからだというお話しをしました。

心の中のエゴの部分は、自己防衛することがそれ自体の存在理由ですので、自分を守らねばならないという事態を引き起こそうといつも画策しています。

心に浮かんだ「いやなこと」というのは、エゴが自己防衛するためにでっち上げた外敵なのです。外敵は見た目は外側からやってきたように思えますが、実は自分の内側にいるエゴが雇った悪役なのです。

私たちが無意識にエゴを選択してしまうと、エゴが外側に悪役を作り出し、そのことを心の中に浮かぶようにしたり、頭から離れないようにさせられてしまうのです。

そして、昨日あの人にひどいことを言われたのは悔しいということを思い出すと、エゴの防衛システムの働きによって、いつかあの人に仕返しをしてやろうと思いつくかもしれません。

エゴによって明日電車の中で気持ち悪くなったら困るなという予期不安を押し付けられると、これまたエゴがしゃしゃり出てきてどうやったら気持ち悪くならずに済むだろうかと何時間もかけて頭をグルグルさせられたりしてしまいます。

そうやって、エゴは自分の思い通りに我々を操って、自分を存続させる作戦を成功させるというわけです。愛のないエゴの作戦が成功するということは、自分がそれだけ幸せから遠のくということです。

したがって、幸せを本当に求めたいのであれば、エゴを選択しないという決意を毎日し続けることが大切です。エゴを選択しないでいるということは、愛を選択している状態に自動的になります。

それでも、「いやなこと」が心の中にやってきてしまったときには、慌てずに自分はこの「いやなこと」をもう選択しません、ときっぱり心の中で決断するのです。

その上で、それは自分にはふさわしくないものだから、聖霊に差し出して受け取って欲しいと願うのです。誠心誠意これを願うことで、聖霊は喜んでそれを自分から抜き取ってくれるはずです。

これを忘れずにやり続けることです。そして、これが習慣になっていくことで、今度は無自覚にエゴの代わりに愛を選択するようになるはずです。それが、自分を本当の幸せに導いてくれる唯一の方法なのです。

選択

日常の生活の中で、ふと頭に思い浮かぶ事柄を大別すると、「いやなこと」、「何でもないこと」、「いいこと」の三種類に分類されると思います。

「何でもないこと」と「いいこと」については、特に問題はないのですが、「いやなこと」が浮かんできた時には、それを心の中でどう処理するかによって大きく人生が変わってきます。

例えば、今日も職場で苦手なあの人と打ち合わせしなければならないとか、電車の中で気持ち悪くなったら困るなとか、昨日あんなひどいことを言われたのは悔しいなど、「いやなこと」はいくらでもころがっています。

そして、時と場所を選ばずに自分の心にやってくるものです。過去のことであれば、思い出してしまうし、未来のことであれば予期してしまうということです。

みなさんはそんな時どのように対処するでしょうか?もしも、その「いやなこと」の中にどっぷりと入って行って、長い時間そのことをあれこれ考えてしまうとすると、それは完全にエゴの作戦にのせられてしまっていることになります。

「いやなこと」が心にやってくるのは、実は自分自身がその「いやなこと」を選択しているからなのです。でなければ、それは決して自分の心にやってくることはありません。まずそのことをしっかりと自覚することです。

そういわれても、自分としてはそんな「いやなこと」を思い出してわざわざ苦しい気持ちになりたいわけでもないし、未来のことを不安に思ってイライラしたいわけでもないと思っているはずです。

しかし、予め無自覚のうちにエゴ、及びその「いやなこと」を選択してしまったからこそ、そこに目が向くことになってしまうということを認めることです。

はっきりとそのことを認識することで、「いやなこと」を本当の意味で手放していくことも可能になっていきます。

つづく

自己表現 その2

昨日の続きです。

何らかの理由によって自己表現をしなくなってしまうと、そのことによる心の葛藤が生じて、長い間には自己犠牲となって、怒りなどの苦しい感情を蓄積していくことになるというお話をしました。

この状態というのは、常にエゴのカッコウの餌食となっていると言えます。自己表現をしなくなってしまった原因というのは様々ですが、すべてに共通していえることは、何らかの怖れが邪魔をしているということです。

つまり、その怖れから自分の身を守る、自己防衛のために自己表現をすることを抑圧してしまっているのです。これは、すぐに無意識のコントロール下に置かれるようになります。

なぜなら、自己防衛の優先順位というのは幼い時ほどとても高くなっているため、いちいち意識していたのでは完全な防衛ができなくなる怖れがあるために、意識せずとも自己表現を抑制するメカニズムを無意識の中に作ってしまうのです。

したがって、大人になって癒しのためにできるだけ自己表現をして下さいと言われても、そう簡単にそのメカニズムを停止させることができなくなってしまうのです。

発言しようと思っても、喉がつまったようになって声が出ない状態になってしまったり、それでも頑張って何かを言おうとすると今度は頭が真っ白になって言うべき内容が分からなくなるということまで起こりえます。

こうしたことを改善するのにも、「奇跡のコース」の赦しの教えはとても有効です。相手を赦していくことによって、相手は加害者ではなくなると同時に自分のことも被害者とは見なさなくなっていきます。

その結果、自分は周りから傷つけられるという幻想から少しずつ開放されていくのです。そうすることによって、自分を防衛しなければいけないという怖れが徐々に小さくなっていき、自己表現の抑圧も少なくなるのです。

このように、赦しはすべての苦悩から開放される奇跡の手段と言えます。

自己表現

が生まれて始めてやる自己表現はオギャーと泣くことですね。その時に、遠慮がちに泣いたり、控えめに声を出そうと思うことは決してありません。何も構わずにただ声が出る限り泣くことができます。

それがほんの少しずつ変化をし出すのに、それほど長い時間がかかるわけではありません。もしかすると、生まれてまだ数ヶ月の赤ちゃんであっても、ここで思い切り泣いたら何かまずい感じがすると思ったら、少しトーンダウンさせるかもしれません。

片言の言葉を話せるようになった幼子は普通無邪気におしゃべりして親を喜ばせるのですが、何かに怯えていたりするとそんな幼い子供でもしゃべるのを止めてしまうかもしれません。

そうやって、人は存分に自己表現できるタイプとそれがなかなか思うようにできないタイプとに分かれて行ってしまいます。勿論、そのどちらかというよりは、通常その中間的な人がほとんどですね。

そして大人になる頃までには、その人のキャラクターとして屈託なく何でも言えるタイプと、そうではなく何事もどう言ったらいいかと考えてしまうタイプに大別されるようになってしまいます。

自己表現がすっきりできる人の場合は問題ないのですが、言いたいことが言えない人の場合は、そこに心の葛藤が発生します。

つまり、言いたいのに言えない、あるいは言いたくないのに言わされてしまうなどのように自分の言動と心の中身が食い違うことになり、それが葛藤となるのです。

人は人とのコミュニケーションをなくしては人生が成り立たないくらいに、話し合うということが毎日の基盤になっています。ということは、自己表現がうまくできないのは致命的だと言っても過言ではありませんね。

それでも、自分は自己表現が苦手だと感じてる人は相当に多いはずです。これは単なる無口なタイプというのとは全く違います。口数が多いか少ないかの問題ではなく、言いたいと思ったことがスムーズに口をついて出てこないと言う状態なのです。

この葛藤は長い間に自己犠牲となって、怒りなどの苦しい感情を蓄積していくことになってしまいます。

つづく

聖霊は自然治癒力

私たちの肉体には自然治癒力というものが備わっていますね。身体に有害なものが混入してきたときに、それを素早く察知して抗体というものが作られて、それを取り囲み、機能できなくして殺してしまうというメカニズムです。

それがあるために、様々な病原菌に犯されても時間の経過とともに治癒に向かうことができるわけです。

それと同じように、私たちの心の中にも自然治癒力と呼べるものが備わっています。それが愛の部分である聖霊です。ただし、聖霊は自分の本来の心に戻すために愛を使います。

愛は肉体の抗体のように攻撃して相手をなき物にするということができません。これは「北風と太陽」の逸話に対応するかもしれません。

力づくで旅人のコートを脱がせようとする北風が身体の抗体だとしたら、聖霊は太陽のようにやんわりと本人が自然とコートを脱ぎたくなるようにしてくれます。

また身体の抗体が攻撃のターゲットとするのは、自らが有害と判断した全てのものが対象となりますが、聖霊のターゲットはエゴだけです。エゴは愛以外の間違った心の総称だからです。

それだったら、聖霊がこの悲しみや怖れなどの苦悩を早く治してくれればいいのにと思いますよね。しかし、残念ながら我々自身の心がエゴを選択してしまっているために、聖霊のことを忘れてしまったのです。

これはちょうど、肉体の疲労が激しい時などに免疫力が低下して抗体が作られにくくなって、自然治癒力が正しく機能しなくなることに似ています。

心の自然治癒力である聖霊にその力を最大限に発揮してもらうためには、我々自身が聖霊のことを常に選択するようにしてあげることが大切なのです。

そのためには自分の心はエゴそのものではないという気付きが必要ですね。エゴは個人でいて自主性を持って生きていたいという心の部分のことを指します。

それに対して愛の部分はすべては一つという思いの部分です。そう言われても、あまりにも長い間エゴを選び続けてしまったために、具体的にどうしたらいいか分かり辛いですね。

聖霊を選択するということを具体的に見てみると、一番簡単なのは自分の愛の心だったらどうするだろうか?と物事を選択するときに立ち止まって考えてみるという習慣をつけるだけでもいいと思います。試してみて下さい。

エゴの目的 その2

昨日の続きです。

エゴの目的は、分離をし続けることによってそれが事実だと思おうとしているエゴそのものを存続させることだという話をしました。

エゴがその目的を達成し続けるためにやったことは、時間と空間を作ったことです。これによって、空間的にも時間的にも隔たりという概念を導き出しました。それが物理的な分離をサポートしています。

そして、分離してしまったということからくる罪悪感を利用したのです。罪悪感は同時に怖れを生じるものです。そしてそれはまた怒りをも発生させます。

そういった苦悩を持つことによって、それを自分と切り離したいと思うようになって、それを実現するために抑圧と投影を発明したのです。

抑圧はいやなものを持っていないとして楽になろうとする防衛であり、その上にそれを外部に投影することでやっぱり自分にはそんなものはなかったとする二重の防衛をやってのけたのです。

そんなひどいものを持っているのは自分以外の外にいる誰かだとすることによって、結局分離を維持しようとしたわけです。その企みはまんまと功を奏してしまいました。

エゴのたくらみは今も延々と続いています。そして、自分は他人とは違う個人であると自分に思わすことで、分離を確かなものとすることに成功してしまいました。

自分と周囲との間の間隙には、罪というものがどっしりと置かれてしまっています。これが、すべては一つであるという愛の想念を邪魔しているのです。

だからこそ、罪はないとしてすべてを赦すことが、自分と相手の間の距離をなくして元々の大いなる一つと一体になることに繋がるのです。

エゴの目的

このブログでは再三エゴについて繰り返し書いています。本当は愛について書いた方が気持ちが明るくなるのでしょうけれど、私たちはまだまだエゴを全く選択しないで生きることはできません。

身体をもって生活している以上、多かれ少なかれエゴとして生きているのですから、どうしてもエゴに対する目をいつも光らせておく必要があります。

そうやって注意深くエゴを監視する習慣をつけておくことで、まんまとエゴの騙しにやられてしまうことから逃れることができます。

エゴというのは、自分は個人であって周りの人とは違う個体であると信じている自分の心の部分のことです。信じているというより、正確に表現するとそう思いたいと言い換えてもいいです。

それはつまり、すべては分離しているという想念がベースとなっているわけです。自分と相手は常に別々の個体として存在しているとするのです。

それと対極にあるのがすべては一つという想念、つまりそれが愛です。私たちの心の中には確かに愛の部分があるのですが、長い間エゴの部分ばかりを選択し続けてきてしまったために、その愛の部分を忘れてしまっています。

それはとても残念なことです。私たちの真実の心の部分こそ、この愛の想念なのですが、私たちはエゴの作った愛をホンモノの愛だと思い込まされてしまっています。

実はエゴはずう~っと頑張って何とか分離状態のままにいつづけようとたゆまぬ努力をしています。なぜなら、分離してるという想念そのものがエゴであるために、すべてが一つになってしまったらエゴは消滅してしまうからです。

私たちの本来の姿は愛、つまり自分も相手も誰もかれもすべては大いなる全体と一つであるのです。エゴが1分1秒でも、分離を継続させようとすることをやめてしまったら一瞬にしてすべてが一つに戻るのです。

その瞬間エゴはなかったことになってしまいます。エゴの目的はたった一つ、絶対に分離を終わらせないということなのです。

祈り その2

昨日の続きです。

自分が何かをひどく怖れていて、そのことによって多大な損失を被っているとしたら、それを怖れないようになりたいと祈りたい気持ちになるかもしれません。

しかし、いくら真剣に祈ったとしても、残念ながらその祈りは聞いてはもらえないはずです。なぜなら、怖れを感じることも何かの結果でしかないからです。

その怖れの原因となるものを自ら隠しておいて、その結果だけ取り除いて下さいと願ったところで、その祈りは届かないのです。

もしも祈るとしたら、まずその怖れの原因となるものを見ることを選択したいので力を貸してくださいとすることです。

その上で、見つかった原因を結果である怖れと一緒に、これは自分にはふさわしくないものなので、受け取って下さいと差し出してしまうことです。

この方法が一番願いが叶う方法だと言えると思います。なぜなら、仮に祈りを受け止めてくれるのが自分のマインドの中の愛の部分、つまり聖霊だとすると、それが自分に対して頼んでいる唯一のことは、自分が隠していることをすべて曝け出して見せて欲しいということなのです。

自分が自分に隠してしまっていることは、聖霊も見ることはできません。そのことが分かってないと、すべての祈りは無駄になってしまいます。

聖霊はエゴとはコミュニケーションできません。自分が自分を守ろうとして、何かを隠してしまうと、聖霊にはエゴとして見えるためにその願いは伝わらないのです。

隠すことをやめて自分に対しても無防備になると、闇だったところに光が差し込んで、愛が入り込むことができるために、聖霊はそれを見つけてそれを愛に変えてくれるのです。

エゴ的な祈りを何千何万回繰り返しても願いが叶わないのには、こうした理由があるのです。そしてもし、そういったエゴの願いが叶ったとしても、そのことで幸せになることはないのです。