瞑想 その2

昨日のつづきです。

昨日は我流で私が続けている瞑想の目的は、心の平静を取り戻すための簡単なものだというお話をしました。

瞑想を自分一人ではうまくできないと感じる方も結構いらっしゃるようですが、勿論そのような場合には、市販されている瞑想用のCDなどを利用するのも一つの方法だと思います。

ただそういったものを利用すると、比較的寝てしまって瞑想ではなく睡眠になってしまうというお話を聞きます。寝てしまうのもリラックスできている証拠ですから悪くはないですが、瞑想にはならないですね。

瞑想中に寝てしまわないようにする一つの方法は、身体のどこか一点に意識をずっと向けていることです。この方法は簡単ですが、かなり効果が期待できます。

私の場合には手や腕に集中したり、鼻腔に意識を向けて自分の呼吸を感じるようにすることもあります。ただ何も考えないようにして、いわゆる無念無想を求めるとかえって寝てしまうことになるかもしれません。

私が瞑想する場合には、平静を取り戻す以外にもう一つの目的があります。それは言葉ではなかなか表現し難いのですが、少し特殊な意識の状態になろうとしているのかもしれません。

ですので、この場合の瞑想は普段の瞑想よりもかなり長く時間をかけます。30分から1時間以上かける場合もありました。

ちょうど今から一年前くらいからこの瞑想を始めて、ほぼ毎日のように朝やっていましたが、この数ヶ月はあまりやらなくなってしまいました。

うまく深い瞑想状態になれたときには、何か自分の身体からの感覚が一点になった感じがまずしてきて、ここまでは気持ちいいのですが、身体の感覚がもっとヘンになってきたときに、必ずといっていいほど恐怖を感じ出すのです。

それで最近はあまりやることがなくなってしまいました。それと、朝は「奇跡のコース」のワークを読んだり、テキストを読んだりする時間に当てる事のほうが有意義に思えるようになったということもあります。

そして後もう一つ、そういう瞑想をする必要性をあまり感じなくなってしまったというのが本音なのです。それには、やはり「奇跡のコース」を学んでの変化が影響していると思います。

とても深い瞑想に入って何か特別な意識状態になるということを期待する自分がいたということに気づいて、その期待は、どうやらエゴが欲しがる愛以外のものを求めていたと分かったのです。

もう特別な瞑想を必要とする自分を選択する必要はなくなりました。ごく普通の心を中立にして平安な状態を保つための瞑想だけで充分です。機会がありましたらご一緒に瞑想できたらいいですね。

瞑想

今の仕事をするようになって、知らず知らずのうちに瞑想をするようになりました。最初のきっかけが何だったかは、はっきり覚えていないのですが、今では自分にとってはごく日常的なものとなったのです。

ただし、この瞑想という言葉の意味を深く理解して使っているわけではないので、もしも詳しく正確な情報を知りたい方は専門書などで調べてみて下さい。私の瞑想は全くの我流ですので、もしかしたらそんなのは瞑想じゃないよと言われてしまうかもしれませんね。

それでもまったく反論できない程度のものですが、でも一応面倒ですので、瞑想という言葉をここでは使わせていただきます。

私はもうかれこれ10年近く、瞑想をし続けています。勿論、全くしない日もあるのですが、でも気が付くとそういう日でもあっという間の瞑想をしていたりします。

私の瞑想には、その用途によって大まかに二種類のものがあります。一つは、単純に心の平静を取り戻すためのものです。

クライアントさんとのセッションの前には大抵、5~10分程度は瞑想することにしています。それは、出来る限り、自分をまっさらな心の状態にしてセッションに望みたいからです。

セッション直前に別のクライアントさんからの悲痛なメールなどを読んだりすると、その内容に心が揺れ動いてしまったりして、完全な中立の状態から逸脱してしまうことがあります。

そうなっては、セッションにいらっしゃるクライアントさんと向き合うには不適切な心の状態といわざるを得ません。それを避けるためにもセッション前の瞑想は必要なものとなっています。

また、朝起きて決められた作業を心の中で行うのですが、そういったときにもこの平静を保つ瞑想が役に立ちます。というよりは、そういった作業そのものは瞑想の中で行うのが自然だと思っています。

また、ヒーリングセッションの場合にも、その直前に必ず短時間ですが瞑想します。その瞑想の中でヒーリングの準備作業をしています。

この平静を取り戻す瞑想では、特別なことは何もしていません。ただ、呼吸に意識を向けて静かにしているだけで、身体の血の循環がよくなってくるのが分かります。

そして、自分はそれまで冷静でいたと思っていたとしても、その瞑想をすることで身体のどこかに力が入っていたことが分かったりして、やっぱり瞑想をしてよかったということを実感することができます。

つづく

お金の恐怖 その2

昨日のつづきです。

経済的な問題がすべて解決したら、自分の人生は全く違うものになるのにと思っている人が沢山いるというお話しをしました。

お金が沢山あったら、気に食わない上司の下で我慢しながら仕事をする必要もないし、欲しいものを我慢せずになんでも手に入れられるなら、毎日楽しい人生を生きることができると考えがちです。

ではお金持ちが全員幸せかというと、そんなことは絶対にありません。お金の不安を感じないで生きられているだけです。

それでもお金のことをいつも心配しながら生きている人にとったら、お金が沢山あってお金の心配をする必要のない人を羨ましいと思うのは当然のことですね。

ところが、癒し、つまり幸せになるという観点からみていくと、お金が沢山あることはマイナス要因となる可能性が大なのです。

それはお金の上に安心というあぐらをかいてしまって、自分を見つめることをしなくなってしまう場合が往々にしてあると思われるからです。

例えば、いやな上司がいるからといって、すぐにその職場を辞めてしまうのであれば、なぜいやな上司がいるという現実が自分の身に起こっているのかという本質を見ようとしなくなってしまうのです。

そうなると、違う職場に異動したとしてもまたそこでも同じような苦痛な人間関係が発生してしまいます。それは、何も職場に限ったことではなく、人が生きるうえで大切なすべての人間関係にも同様のことが起きてしまいます。

人間関係で発生する問題は、100%本人の心にその原因があるので、そこを見ないようにして生きる限り問題の解決はできないのです。

お金にあぐらをかいて、いやな人やいやなことから逃げてしまうと、人生は実りあるものには決してならないのです。

そして、お金の不安そのものを持っているということ自体が、実は心の癒しを進めていくためにとても必要なことなのです。

お金の不安を解消するのは、お金持ちになることではありません。大きなシナリオに身を委ねることによってしか、本当の意味でその不安や恐怖を手放していくことはできないと分かることです。

そのことを理解して、お金の不安を手放していくことができたら、他の恐怖や不安も同様にして乗り越えていくことができるようになります。

そうすると、自分を防衛することからも開放されることになり、結果として本当の幸せを見い出すことに繋がっていくのです。

お金の恐怖

私たちは多かれ少なかれお金に対する恐れや不安を抱えながら生活しています。今のような過去に前例のないくらいの不況の最中であれば尚更かもしれませんね。

子供の頃はその家庭の経済的な事情に左右されてしまいますから、一概には言えませんが、何の不安ももっていないということは少ないはずです。

ましてや大人になると、人生の関心事の中でもある意味一番大きなことになってしまうかもしれないのが、このお金の問題です。

生活していくためには、普通自分で働いてお金を稼ぐか、あるいはパートナーが働いて得たお金が必要となりますね。

ですから、もしもお金が無くなってしまったらどうしよう、生きていけなくなってしまうという予期不安を強く持っているのです。これは、自分や家族の生死がかかっていると思えば当然のことです。

そして、このことがセラピーをしていく上でも相当に大きな影響力を持ってしまうのです。自分の人生を変えたいのだけど、そう簡単に変えられないのは経済的な問題があるからだと思っている人は意外に多いかもしれません。

例えば、夫婦の仲がうまく行ってなくて、できれば離婚したいと思っていても、お金の問題があるから怖くてできない、という女性は沢山いらっしゃるはずです。

現代では女性も大勢仕事を持つ時代ですからそうでもないかもしれませんが、昔は女性は結婚したら家にいて主婦をすると決まっていたわけで、そういう時代であれば、とてもおいそれとは離婚などできなかったはずです。

また、自分には合っていないような仕事でも、ノルマがきつくて辞めたいと思っているような仕事にしても、そう簡単に辞められないのは経済的な問題があるからですね。

あの大嫌いな上司の下で働き続けたから私はウツのような状態になってしまったとしてセッションにいらっしゃるクライアントさんの場合でも、じゃあ辞めたらいいでしょうと言っても、それができないから相談に来たのにと怒られてしまいます。

お金さえあったら、自分の人生はいやな仕事からも、不自由な暮らしからも開放されて見違えるくらいに快適な人生に変えられるのにと思っている人は沢山いるでしょうね。

だからこそ、経済的に豊かな人はあまりセラピーにいらっしゃることはないのかもしれません。逆に、辛いのでセラピーを受けたいと思っても、セッション費用が高くてそう何度も行けないよ、というのが現状かもしれません。

このようにお金のために自分は苦しい生活を強いられていると感じてる人が多いと思います。

つづく

すばらしい言葉

「奇跡のコース」を読んでいると、本当に毎日すばらしい言葉たちに出会うことができます。実は私はミクシィの方でも毎日日記を書いているのですが、下記の言葉もその日記の中でつい先日引用したものです。

『エゴは分析しようとし、聖霊は受け入れる。』

セラピストというのは、かなりの部分、クライアントさんの心のひだに隠された闇の部分を分析していく仕事であると言えるのですが、この言葉はそんな毎日の仕事の中で絶対に忘れてはいけない事だと思っています。

分析するということは、全体を細かな部分に分解して、その一つひとつを詳細に調べていくことで、結果として全体を把握しようとする方法ですね。これは言ってみれば物質世界での考え方です。

それは、物事はすべて分解可能だという前提に立脚しているからです。しかし、いつも言っているように実在は決して分けることができません。なぜなら、すべては一つであるという愛それ自体がすべてだからです。

コースの言葉をここでも引用してみます。

『全体としてなりたつ状態を分解して理解しようと試みるのは、エゴのあらゆることにたいする典型的で矛盾した取り組み方であることは明らかだ。』

我々人間はこの宇宙についてのあくなき探究心から科学を発達させてきました。そして、近年の科学の発達は目覚しいものがありますね。

しかし、科学は分析によって進歩してきてしまったため、この先どんなに進化しても本質的な到達点へたどりつくことはないのです。

宇宙を分析することはエゴの世界のやり方だからです。どんな優秀な学者たちが新しい発見をしたとしても、全体を愛で理解することはできないと思うからです。

クライアントさんの心をどんなに詳細に分析したとしても、そこはエゴの世界でしかないのです。問題を分析しても問題が解明されるだけで、そこに愛はありません。

反対に、クライアントさんの心の愛の部分を見い出すことができれば、クライアントさんの心に愛が戻ってきます。それには、セラピスト自身がクライアントさんを丸ごと受け入れることが一番大切なのですね。

神の擬人化 その2

昨日の続きです。

神を表現しようとすると、どうしても人間の想像能力の範囲内でしか表せないために、結果として擬人化することになってしまうというお話をしました。

もう一つ神を擬人化する方法として、実在する人間を神の代わりにして偶像化すると言うやり方があります。

例えば何かの宗教の教祖様はそういった神の代わりとして崇め奉られる存在とされていることが多いと思います。

しかしこれはある意味とても危険なことである場合があるのです。なぜなら人間の中の誰かを特別視するということは、すべては一つであるという愛の本質から逸脱しているからです。つまり、そこには必ず恐れがあるのです。

神への依存であればいいのですが、神の偶像への依存になってしまうと、それは完全にエゴの世界になってしまいます。そこには、永続的な平安である幸せはありません。

あの人の言うことを信じていれば自分は救われるはずだとしてしまうことが、宗教の一番問題となりやすい面ではないかと思います。

「奇跡のコース」はその点、ただの本ですし、教祖様もいるわけではありません。厳かな建物もないし、組織も必要ありません。特別な儀式をするでもなく、ごく普通の生活の中でいかに幸せな人生に変えていくかということを具体的に教えてくれるだけです。

ただ、「奇跡のコース」の教えを使って、宗教的な組織を作って活動しようとする人は中にはいるかもしれませんね。しかし、そういう人は、「奇跡のコース」の大切な教えをきちんと理解していない人だと言わざるを得ません。

「奇跡のコース」は自習書だとその中ではっきりと述べられています。そしてその学習を続けていく中で心を鍛えていくトレーニング本なのです。

すべての人は、人間の皮をかぶったスピリットであって、それは一つの実在なのだと言っています。従って、教える人と教えられる人がいたとしても、それは決して教祖と信者の関係にはなりようがありません。

教える人は、与えることによって、教えられる人から与えられるのです。そしてお互いが一つなのだということに気づいていく道だと言っています。誰も特別な人はいないのです。

神の擬人化

無神論者の多い?と思われる日本人の間では、神という言葉もイメージにも何となく違和感がある人が多いのではないでしょうか?

私もその一人でした。でしたと過去形になっているのは、「奇跡のコース」を学ぶようになって、多少慣れてきたからです。

とは言うものの、神を「神様」のような言い方をしてみたり、あたかも人格を持っている高貴な存在のように表現することには今だに抵抗が残っています。

「奇跡のコース」のワークブックの中に、例えばこういう表現があります。「神は慈悲をもって、自分が救われるようにと意図なさっている」

慈悲深いというのも意図するというのも人間に関する特徴や能力のことを指すわけですが、それをそのまま神にも当てはめて言っているわけで、こういうのを擬人化というのですね。

そしてこういった表現が無数に出てきます。何だかいやだなあと思いながらも、ふと分かったことがあります。それは、もし擬人化して表現することをやめてしまったらどうなるんだろうということです。

きっと、神をどう言葉で言い表したらいいのか分からなくなってしまうはずだということです。神を擬人化するのは、人間が作った言葉で表現するためには仕方のないことなのだなと理解したのです。

私自身の言葉で表現すると、神は全体であって、あらゆる一切合財を含む存在である。ただし、この存在という言葉の意味も相当に曖昧であって、この表現そのものも一種の擬人化になっています。

神は愛であり、愛は、全ては一つという想念である、こう表現しても愛も想念という言葉も人間に当てはまる言葉であるので、結局私の言葉で表現したところで、自分の嫌いな擬人化は免れないということが分かったのです。

それは、神が人間のすべての能力を注ぎ込んでイメージしたり、表現したり、感じたりしたとしても、神そのものをそのまま捉えることにはなりません。それは我々をはるかに超越しているためですね。

そう思うと、人間が理解できる言葉やイメージで表現せざるを得ないのだなと納得することができたのです。そして、最近では、この神にまつわる様々な概念について、拒絶反応をしてしまう自分にも、その理由が明らかになってしまいました。

それも「奇跡のコース」を学んだおかげなのですが、そうして明確になってしまうと、もう拒絶することから開放されていくことができつつあるようです。

ヒーリング講座

もう二年以上前からですが、午前中に仕事をするのをやめて、毎日スポーツクラブに行って運動をするようになりました。最初は三日坊主で終わるんじゃないかと懸念していたのが、意外にも今までずっと続いています。

運動と言っても10分程度泳いで、その後10分くらい深いジャグジーで全身をマッサージしてからサウナに入って、最後にお風呂で身体を洗って帰ってくるというものです。

運動というよりは、ほとんどスパとかレジャーランドに行ってる気分ですので、無理せずに決めた距離だけ泳いで楽して帰ってくるわけですから、継続してるのでしょうね。

ですから、オフィスに戻ってくるときはとても気分爽快で、心身ともにすっきりした感覚で仕事に向かうことができています。自分としては、生涯これは続くかもしれないなと思っていました。

ところが、最近は「奇跡のコース」を学んでいるおかげなのか、常に与えることを意識するようになっていて、それに照らして考えてみた時に、午前中のスポーツクラブ通いは与えているとは言えないなと思い出したのです。

おまけに気分爽快なのは自分一人のしかも身体の感覚だけのことです。勿論、それによっていい気分になれて、それがいい仕事に繋がるということは充分考えられるので、決して否定するつもりはないのです。

でも、どうも与えるということにはしっくり当てはまらないというのが本音となってしまっていました。

もし、午前中の自分の時間と場所と労力をすべて自分以外の誰かに開放したら、与えることができるのではないかという考えが浮かんできました。

今の自分にできることでみなさんになんらかの役に立って、自分も楽しめることをご提供しようという気持ちが出てきました。

まだ内容ははっきりと決められてないのですが、何かヒーリング講座のようなものを無料でみなさんにご提供してみようと思っています。聖霊に聞いたら、より多くの人に来てもらえるようにするために、料金は低ければ低いほうがいいよと言われました。

ご期待下さいね!

変わり者

昔知っていたある人の消息を探そうと思って、ネットで検索していたらどうしたことか名前の字画による占いサイトに行ってしまったことがありました。

そこで興味半分で自分の名前を占ってみたら、思ったとおりの結果が出てびっくりしました。。名前の漢字の各部分ごとの組み合わせによって、いくつか占いの結果が出るようになっているものでした。

結果全部を覚えてはいないのですが、確か「才能や能力はそこそこあるのにパッとしない人生」みたいな事だったと思います。何だかその言い回しがいや~な感じ。

そしてもう一つ、「簡単に言ってしまうと単なる変わり者」というのもあったと思います。いやあ、当たっているなあと思わず苦笑いをしてしまいました。

こういった占いの類は世の中に沢山あるわけですが、なぜそういうものが当たるのかということは、「神の使者」という本にほんの少し言及されてたと思います。

この本は、「奇跡のコース」を読む前に読んでおくと、比較的理解しやすくなりますという触れ込みの本なので、昨年二度ほど読みました。

確か、太陽系だか星の動きなどがなんちゃらかんちゃらといった内容だったと思いますが、正直よく分かりませんでした。

コースを勉強しているほかの人はそういうことはないと思うのですが、自分に関して言えば、やっぱりこういった種類の本に傾倒することはやや変人なのかもしれないと思うこともあります。

最近学生の時の仲間と飲む機会があって、久しぶりだったので一人ひとり今どんなことをやっているのかめいめいが話しをしました。

自分以外はみんな会社員であり、この社会にしっかり組み込まれてそれなりにお偉いさんになっている友人ばかりなのです。

その友人たちにさすがにコースの話しをそのままはできないとは思ったのですが、さわりだけをほんの少し話してみたら、お前は学生の時からそんなようなことを言ってたよな、と言われてしまいました。

全く記憶がなかったので、びっくりしたのですが、私が「奇跡のコース」にこれほど傾倒しているのは、きっと地なんですね。

与えることと与えられること

少し前のブログで与えることについてのお話をしたことがありました。心の平安を得て、満ち足りた心になるためには、与えることが大切だということでしたね。

自分自身に対しても、いつも忘れずにこのことを心に刻んで生活しているのですが、ふとしたときに、ああ、与えることを忘れて与えられることを期待している、と思う瞬間があることに気づかされます。

例えば、仲間とお酒を飲む時に、この気持ちのいい仲間の中で自分はとても楽しい時間を過ごせるのですが、気が付くと自分が楽しむことにばかりに気持ちが向いてしまっています。

自分がただ楽しむのは、みんなが作り出してくれたその雰囲気をただ与えてもらっているということですね。勿論それは決して悪いことではありません。自分が楽しむということも、巡り巡って与えることになってることもあるかもしれません。

きっと無意識的にでも自分も何らかのモノをみんなに与えられているのだろうとは思うのですが、与えることを選択することを忘れてしまうことが多いのです。

与えることに慣れていない自分は、すぐに与えてもらえることを期待してしまいます。習慣とは恐ろしいものですね。エゴは習慣を利用して自分を変えないようにするのです。

このエゴの習慣から抜け出すためには、どうしても意識的に選択するということが必要になります。与えるという選択をして、実践するとしても、何も物理的な行為に限ったことではありません。

心の中でも充分に与えることはできます。例えば、自分が楽しい時間を与えられていることを感謝するということだけでも、その感謝を自分の心から相手に贈ればいいのです。

感謝するのは何となく受身のような気もしますが、実は愛を送ることになると思います。充分に深く感謝の念を抱いて、それをエネルギーとして相手に贈るイメージを持つだけでもいいのです。

自分のお金、自分の時間、自分の労力、そういったものを愛で包んで相手に贈るのも与えるという行為になりますね。毎日、自分は一体どのようにしたら、愛を与えることに繋がるのだろうか、考えてみて下さい。

そして、無理のない方法で実践することです。愛を与えることができた場合には、必ず同じだけの愛を与えられるはずです。これが愛の法則ですね。