心を鍛える

私たちは毎日のジョギングや水泳、あるいは専門的なトレーニングによって肉体を鍛えることができることは知っています。アスリートと呼ばれる人達はその代表者でもあり、目的別に高度に鍛えられた肉体を持っていますね。

それと同じように、心も鍛えることができるのです。心に必要な栄養を与えながら、毎日のたゆまぬ鍛錬によって、少しずつ心が鍛え上げられていくということです。

身体を鍛える目的というのは、もしかしたら人によって全く違うかもしれませんが、心を鍛える目的はたった一つと言えます。それは幸せになっていくためです。

心を鍛えるといっても、筋肉のようなもので心を固めて頑丈にするということではありません。忍耐強く、我慢強い心を育てて屈強な人物になろうというわけでもありません。そんなことをしたら、エゴの思う壺です。

私は『奇跡のコース』を学んでいく中で、この本の教えというのは、幸せになっていくための心の筋トレなのだということがはっきり分かりました。それも本来の心を取り戻すための訓練なのです。

私たちの心は本来とても柔軟なはずです。大人よりも子供の方が自由な発想ができるとよく言われますね。それは成長して自立していく過程において、エゴが立派に育ってしまうために非常に偏った狭い考え方しかできないように、エゴによって教育されてしまうからです。

幼い子供はエゴがまだ未発達であるために、自由な心をもっているということです。ですが、大人になっても実は私たちの心は本来の柔軟さを完全に失ってしまったわけではありません。心を鍛えるとは、意図的に生活することによって、心が元々持っている心そのものの特質に合った方向へ向かわせてあげるということです。

私たちの心は本来愛のかたまりのようなものであり、それはスピリットである実在とつながっています。『奇跡のコース』では、心の本来の働きというのは、その愛を与え続けることだと教えています。

そして、そのためには、エゴに縛られて身動きできなくなってしまった心を本来の働きができるように開放してあげることが必要です。そして、それを実現するためには、ただボーっと生きているだけでは何も変化は起きません。

そうではなくて、瞬間瞬間に、自分の心が愛を与える方向にむかうように常に調整してあげる必要があるということです。そしてその方向の調整は心の中の愛の部分に任せるのです。

何かを選択する場合には、心の中の愛の部分に判断を委ねるという習慣をつけることです。こうしたことは、トップアスリートたちが、その種目にとても大きな情熱を傾けて鍛錬しているのと全く同じように、心を鍛えて幸せになるということに強い意欲を持つことが必要だと思います。

心の中の愛の部分にいちいち伺わなくてもできることもあります。例えば、なんらかの怒りを感じた時には、どんな怒りにも意味はない、それは単にエゴの策略だとして瞬時に怒りを静めるのです。そして、赦しの作戦を開始します。

こうしたことをいつも忘れずに実行することです。エゴにそそのかされないでいることができると、怒りはふっと消えていくことを実感することができるようになります。

こうしたことを実践していく上でも、はっきりと心のトレーニングなのだとして、それに毎日のエネルギーをつぎ込むだけの並々ならぬ思い入れが必要かもしれません。

でも本当に幸せにしか価値はないし、幸せになりたいという素朴な気持ちさえあれば、心を鍛えていくことはむしろ楽しいことであり、それがうまくできた時には大きな喜びになっていくはずです。

アディクション その2

昨日の続きです。

アディクションはそれに嵌ってしまった自分を赦すことで抜け出せるというお話しをしました。その具体例を少しご紹介します。

女性に多いアディクションの代表的なものとして過食というのがあります。過食は誰にも迷惑がかからずにでき、なおかつ誰にも見つからずに一人で簡単にできてしまうので、とても多くの女性が陥るアディクションの一つです。

友人のある女性が、昔からずっとひどい過食に悩まされ続けていたのですが、なんで自分はこんな子供じみたことを延々やりつづけるのかと、過食するたびに自分を叱ってきたのです。

ところが、ある時にもう酷すぎて完全にお手上げ状態になったときに、もう好きなだけ過食していいよと自分を赦す気持ちになったらしいのです。

そうしたら徐々に過食をしてしまうことが少なくなっていって、今ではほとんどしないでいられるようになったということです。

自分を赦して、過食を許可してしまったら、益々ひどくなってしまうのではないかと思って、怖くて許可するということができなかったらしいのですが、実は赦すということが最大の効果があったということを身をもって経験されたのです。

実は過食をさせているのは、大人の自分ではなくて幼い頃の自分の満たされない思いなのです。だからその行為は子供じみているわけですね。

ですから、赦すということはその幼い子供の行為が不満を訴えたい気持ちから発生しているということをわかってあげて、その子供を丸ごと赦してあげることによって、子供の気持ちが安らかになり、アディクションをする必要がなくなるのです。

赦すということは愛を与えるということと等しいのです。だからこそ、愛が足りないとして訴えていた自分のインナーチャイルドが愛に包まれて穏やかな気持ちになれたときにアディクションを手放してくれるのです。

アディクション

アディクションというのは直訳すると嗜癖(しへき)のこと、分かりやすく言うと何かにのめり込んで、心身に悪影響があると知りつつもやめることができない事を言います。一般的にそのような状態を依存症と言いますね。

これは、エゴが自分に差し出す巧妙な作戦であり、それによって我々はその囲い込みから抜け出られなくされてしまいます。アディクションを持っていないという人はほとんどいないでしょう。

人間はアディクションを探すプロだと言ってもいいくらいに、ありとあらゆるものをアディクションの対象として利用してしまいます。

はじめのうちは、エゴは自分を守るためにそういった対象を探し出して自分に提供します。それとは知らずに自分はそれに飛びつきます。そうすることで自分に都合の悪いことや、見たくないこと、感じたくないことから離れることができると勘違いさせられてしまうのです。

エゴはキミのためだから、キミを救うためだからと言ってそれを与えようとするのです。それはあたかも、気持ちよくなるから試してみなよ、と言って悪い仲間から薬物をそそのかされるのに似ています。

最初は軽い気持ちで始めたことですが、エゴには初めから周到なたくらみがあるのです。ひとたびそれが本人にとってアディクションとなれば、もうしめたもの。エゴは自分を思うようにコントロールすることができるようになります。

アディクションに嵌れば嵌るほど、自分はどんどん愛から遠ざかっていきます。そして、アディクションを続けることが生きる目的と化してしまいます。そのためには、自分の人生のほとんどを台無しにしてしまうのです。

アディクションの全部とは言いませんが、その多くは身体の健康を害するとか、心を蝕むことになるとか、社会性を失うなどの傾向のあるものなのです。

例えば子供がテレビゲームをやり過ぎて目を悪くしてしまうなどは、まだ分かりやすいアディクションですが、大人になってどうしても借金をしてしまうなども実は立派なアディクションなのです。

常識的には借金をしたいという人はいないはずなのですが、エゴにかかるとそれも一つのアディクションとして利用できるのです。しかも、一般的にアディクションとは見なしてもらえないので、本人はとても辛い人生を送ることになってしまいます。

アディクションがとても重い状態にまでなってしまっている場合には、とても自分一人の力では抜け出すことは難しくなってしまいますので、専門医や心理療法などを受ける必要があると思います。

しかし、そこまで行かないような場合には、いつも言っている赦しによってそこから脱出することができます。アディクションしている自分を客観視し、エゴに翻弄されているだけだということを理解してあげるのです。

そして、そんな自分を充分に赦してあげることです。赦すことができると、自然とエゴはアディクションから手を引いてくれます。なぜなら、赦しの元には愛があるからです。愛に触れるとエゴは溶けてしまうので、その作戦を続けることができなくなるのです。

周りの人の目

自分が自分のことをどのように見ているのかということが、そのまま投影されて周囲の人の姿として表れてきます。従って、人間関係でなんらかの悩みがあるという場合には、その問題自体が自分自身を問題視している箇所を映し出していることになるのです。

人の視線が気になったり、どう思われているのか心配で仕方ないという場合には、自分に対する自己評価がとても低いということなのです。自分のことをダメなやつだと裁いているからこそ、それを周りの人の目から隠さなければならないのです。

こういう場合には、人といて知らず知らずのうちに緊張していることが多いものです。とても気を赦している相手の場合であればいいのですが、そうでないと肩が凝ったり胃が痛くなったりしてしまうこともあります。

また必要以上に相手を気遣ってみたり、相手の意思や気持ちを優先してしまったりすることもあります。いい人になろうとして、笑顔を絶やさぬようにしてみたり、感情を表現することが下手になってしまったりもします。

人と人との和に神経を使いすぎて、自分が犠牲になってでもその場を丸く収めようとしてしまいます。そのために、言いたいこと、主張したいことがあってもそれを抑えてやり過ごすという行動になってしまいます。

子供の時の両親の仲が悪かったり、嫁姑の問題などが表面化していたりすると、子供心に大人同士仲良くしてもらいたくて、自分は無邪気な表現を抑えて、仲裁役に徹してしまうなどのことも起こるのです。

そういった自己犠牲を続けていくと、それが怒りの感情として蓄積されていき、大人になってから、何かと周囲の人に怒りを沢山覚える人生になってしまいます。

電車に乗ったときに、周りの人がみんな自分を見ているような気がして、どこを見ればいいのか分からなくなってしまったり、居心地の悪い圧迫感を感じてしまったりすることもあるかもしれません。

こうした人といる時の居心地の悪さは、周りの人からの評価をいつも気にしていることが原因なのです。周りからは100点をもらいたいのですが、自己評価が低いのですから、100点の効果はほんの一瞬しかありません。

自分が怒りを感じたり、否定したくなる周りの人たちをよく見つめ、その人たちの言動を赦していくことで、その部分に対応する自分自身を赦すことになり、その分だけ自己評価が高くなっていくのです。

その結果、周りの人の目が気にならなくなって、本当に幼い頃の無邪気な自分に戻って人間関係を楽しむことができるようになるのです。

心を奪われる

人生が生き辛くて苦しんでいる人と、心が癒されて幸せな人との共通点は何だと思いますか?それはどちらもあるものに心を奪われているという点です。

苦しい思いをしている人は、自分の周りの人やものに心を奪われた状態で生きています。逆に癒されている人というのは、自分の内奥にあるスピリットに心を奪われている状態なのです。

前者が心を奪われている状態を一般的に依存と呼びます。依存の特徴は、自分の心を閉ざしておいて、外側の世界を自分のいいようにコントロールしようとすることです。したがって、思い通りにいくことはなく、不平不満の多い辛い毎日となってしまいます。

一方、後者が心を奪われている状態を一般的に委ねていると表現できると思います。自分の心を開放して、スピリットのために生きるような毎日になりますので、不平不満がなく、充実感の中で生活することになります。

前者は今の自分のままではダメだと思っておきながら、その部分を見ないようにしてうまくいかない自分の人生を周りのせいにしようとします。そして、何とかして他者によくしてもらおうといつも期待しています。

後者は、今の自分をそのままに受け入れていながら、自分の人生の舵取りをスピリットに明け渡している状態です。それには深い信頼の心が基本になりますね。

前者は、周りを信頼することはとても難しいと感じています。逆にいつも疑心暗鬼になって不安や心配の種が尽きません。それに自分の心を投影しますので、理不尽なことが続けて起きるのです。

後者は、平安な心を投影するようになるので、穏やかで永続的な安心の中で生きていくことができるのです。

どちらを選ぶことも可能です。決心する力は自分自身の中にあります。しかし、決心しなければ、選んだつもりでも実際には今までどおりの自分の行き方のままである可能性が高いです。

私たちは口先では幸せになりたいと言っておきながら、前者を選んでしまっているか、あるいは依存の少ない自立を選んでしまっているのがほとんどです。

後者を選ぶには、自分の心の中心にある信念や信条を一旦白紙に戻さねばならないため、恐怖が邪魔をするのです。それ以外にも感覚的な恐怖というのもあるかもしれません。

何度か体験したのですが、自分がすばらしいところへ行きそうになった瞬間にバサっとシャッターを下ろしている自分を感じたことがあります。あのまま進んでいたらと後悔するのですが、それは相当に恐ろしいことだと思っている自分がいるみたいです。

恐怖は一度では乗り越えられません。少しずつ自分が本来のスピリットに近づいていくようにしていくしかないですね。早くとっぷりと自分のスピリットに心を奪われるようになりたいものです。

習慣

いいに付け悪いに付け、人は何度も繰り返すことによって多くのことを自動的に習慣化していきますね。そして一度習慣となってしまったことは、それをやめることがとても難しくなってしまいます。

たばこはニコチン中毒になっているので禁煙するのが辛いのだと思ってる方が多いかもしれませんが、実は3日間くらいたばこを吸わないでいるだけでニコチンの中毒は消えていくらしいです。

本当は、たばこをやめるのが難しいのではなく、たばこを吸うという習慣をやめるのが難しいのです。セッションでは、心の癒しを進めていって、やめたくてもどうしてもやめられなかった事の心の原因を探り、それを取り除いていくことをします。

ところが、実際には原因となる問題を開放しても、なかなかはっきりとした効果が出ない場合もあるのです。それは、習慣化されていることが自動的に繰り返されてしまうからなのです。

時速100kmで走っているクルマのブレーキを踏んでも、急には止まれないのと似ています。習慣にはある種のエネルギーがあるのでしょうね。

『奇跡のコース』を学んでいくと、自分が今まで生きてきた中で培ってきたこと、養ってきたことなど、さまざまな無意識的にしてきたことなどを一度白紙に戻してみなければならないところに追い込まれていきます。

その時に、二つの困難と向き合うことになります。その一つは、恐れです。自分が立っている地面が崩れて行ってしまうような、自分の拠り所がなくなってしまう怖さを感じることになるはずです。

そしてもう一つは、この習慣を手放すという難しさだと思うのです。普段の生活の中でほぼ無意識的に繰り返している様々な行為、あるいは思考などのほとんどが習慣化されているのです。

このブログでも書いてきましたが、たとえば判断や解釈をするのは明らかに習慣となってしまっています。ですから、よほど意図的に判断はしないと強く思い続けない限りは、それをやめることはできません。

自分の言動や思考にはすべてその原因となるものがあるはずですが、その原因が見当たらないままに繰り返してしまうことがあったとしたら、それは習慣となっていること自体が原因なのでしょう。

習慣とは、エゴの防衛の一つの形であると言ってもいいと思います。つまり、習慣化することで、間違いを減らしたり、熟達することでより安全に物事を進めるという機能を持つわけです。

一見すばらしい機能のように思えますが、実はそれをし続けることでこのエゴの世界から抜け出さないでいるように仕向けられていると捉えることもできるのです。

自分が持っている膨大な習慣を手放すことを軽くみないことです。もしかすると、恐れを手放すのと同じくらいに難しいことなのかもしれません。

感謝の体験

連休中にあるセミナーに参加したのですが、そこで感謝が胸に溢れるという体験をしました。実はこのセミナーにはちょうど一年前の同じく連休の時に初参加したことがあったのですが、その時にも大きな感謝の念を体感しました。

昨年の感謝の体験は、その感謝のターゲットとなる人々がまるで映画のエンディングロールのように次々と浮かんできて、そのすべての人たちに対してとても深い感謝の気持ちを感じました。

それは初めて深い感謝という感覚を知った自分にとってはとても衝撃的な出来事だったのですが、今年は二度目ということもあって衝撃度はそれほど強いものではなかったのですが、その代わりターゲットが全く浮かんでこないという特徴がありました。

うまく表現できないのですが、ただ感謝の中に入っている体験とでもいうのか、とにかく何の記憶とも結びつくわけでもなく、ただ嬉しいとか、悲しいというのと同じようなレベルでただただ感謝としか言いようのない感覚の中にいました。

4日間に渡るセミナーのあちこちで感謝がやってきたのですが、その時々で感覚の大小はあるのですが、最終日にやってきた感謝の体験はまた今まで経験したものとは違う不思議なものでした。

それは、感謝がやってくる感覚はそれまでと同じだったのですが、それをしばらく感じていると次にはただただ与えたいという衝動のようなものがやってきました。この与えたいという感覚も知らないわけではないのですが、抑えがきかないような強いものでした。

大勢の人達が参加している中で、しばらくその衝動を我慢していたのですが、それもすぐに赦しの作業が自動的にやってきてくれて、あまり明確な意識もないままに勝手に腕を使ってあふれ出るものをその会場全体に向けて放出しました。

それがとっても心地いいのです。もう恥ずかしさとか、そういった類の感覚が小さくなってしまっていて、きっとヘンな声も出ていたのではないかと思います。

感謝は愛の一つの感覚なのでしょうね。その愛が大きくなってくると、愛の元々の特徴である拡張が始まるのだろうと思います。拡張とは、愛そのものが愛を与え続けるという意味であって、それは愛の本質なのです。

愛は与えずにはいられない、まさにそのことを経験することができたのだと思います。

本当の自由 その2

昨日の続きです。

私たちは自由気ままな時間を過ごしていると思っている時でも、その背後には、常にエゴのシステムが動いていて、そこから逸脱できないようにされているのです。

自由だと思っていたものは、そんな束縛された心の状態であったのです。エゴの内側での見せかけだけの自由とは違う、本当の自由とはどういうもののことを指すのでしょうか?

自立することが幸せへの道と教わってきたし、それを信じている我々にはとても相容れ難いことなのですが、自分の心の愛の部分である聖霊に判断を委ねることで、人生の舵取りから開放されることでしか、本当の自由は得られないということです。

愛には制限がありません。聖霊に依存することは、とても大きな抵抗感があることは否めませんが、それもエゴの抵抗でしかありません。

聖霊の役目である、間違いを訂正するための判断というものを、聖霊から奪ってその代わりに自分が判断をしようと考えたところから不自由が始まったのです。

不自由さというのは、何かの枠組み、それはエゴが自己防衛のためにこしらえた本当には存在しない制限を受けつつ生きることを言うのです。

自分はとても自由人だなあと思って生きてきました。特に、会社員をやめて現在の仕事に変わってからは更に自由な時間、自由な発想、自由な仕事の進め方、全く自由の中で生活ができるようになって嬉しいと思っていました。

しかし、奇跡のコースを学ぶようになってからというもの、本当の自由についていつも考えるようになったのです。エゴのままでよしとしている限り、見た目や現実的なスタイルがいかにも自由に見えてもそれは違うと分かりました。

例えば、オフィスから自宅へ戻る時に、いろいろな道順を自由に選んで帰ることができますね。少しくらい遠回りをしてもいいやと思ったら、それこそ無数に通る道を選ぶことができます。

それでも、それが本当の人生の自由ではないということは何となく分かっていただけると思います。交差点や分かれ道にぶつかるたびに、その都度いくら気ままに道を選んだとしてもです。

聖霊は私たちが培ってきた常識やルールなどに左右される判断をしません。ですから、頭でいくら名案を探し求めてもどうしてもうまくいかなかった問題が、聖霊に委ねることで思いもよらなかった方法によって解決してしまうといったことが起こるのです。

エゴのシステムの中で自由を得ようとすること自体、もう不自由な感覚で生きている証拠ではないでしょうか。

自由は求めるものではありません。愛を伴って与え続ける選択をすることによってのみ、本当に開放された自由な心で生きていくことができるようになるのです。

本当の自由

私たちは一般的に仕事などに追われて忙しくしている時間と比べて、ゆったりと気ままな時間を過ごしてる時のことをイメージすると、何かとても快適でリラックスしている感じであって、それは間違いなく自由だなあと思いますね。

確かに束縛されてるわけではないですから、テレビを観ようが音楽を聞こうが大好きなモノを食べようが自由だというわけです。

あるいは奴隷だった人が、重い手かせ足かせをはずされて、どこへでも行っていいよと言われたら、それこそ自由の身になったと言って喜ぶことでしょうね。

よほど特殊な事情でもない限り、我々は制限されるよりも自由でいたいと思うものです。でもここで一度、自由ということについて、真剣に考えてみてください。

自由とは、言動を束縛されないこと、あるいは思考を制限されないこと、と定義できると思います。では、気ままな時間を過ごしている時は、本当に自由でしょうか?

実は我々のマインドというのは、そんなに自由でいるわけではないのです。それは意識そのものがエゴの作ったものだからなのです。

この自分というものが自己なのだと認識している自分の意識、これがクセモノなのです。寝ているとき以外は通常意識が表面に現れていますね。それで気ままな時間を意識できるわけです。

しかし、それがエゴの作った世界に限定されていると考えるとどうでしょうか?それでも本当に自由だと言えるでしょうか?

自由気ままな時間を過ごしていると思っているその背後には、しっかりとエゴのシステムが動いていて、そこから逸脱できないようにされているのです。

だからこそ、不思議なことはそうそう起こらないのです。一般常識的に理解に苦しむような事柄というのは、この世界を現実のものと思わそうとしているエゴからすると、かなり厳密なルール通りに推移する必要があります。

それでこそ、この世界はやっぱりホンモノだと我々に思わせることができるのです。そしてエゴの世界ですから、愛もなければ赦しもありません。あるのは、逆に恐れや怒り、そして絶望などです。

ニセモノの愛も豊富にあることはあるのですが、真実の愛からはほど遠いものがあります。そういった世界で生きている私たちが、いくら勝手気ままな時間を過ごしているとしても、それは愛のない限定された世界での話しなのです。

それを自由と呼んでいるわけですね。では本当の自由とはどこにあるのでしょうか?

つづく

与えること その3

また続きです。

与えたものは与えられるという愛の法則について昨日はお話しました。最近、自分が体験したこの愛の法則のことを少しお話ししたいと思います。

実は私は、自分の時間を奪われることがとても苦手で、すぐにイライラしてしまうという面がありました。

例えば、何かの勧誘の電話がかかってきて、テレビを楽しく見ていたのを邪魔されるとか、食事の時間を中断されるなどがあると、もうほんの数分だけでも苦々しい思いをするのです。

ある日、数時間程度の空き時間ができて、その時間を利用してじっくり奇跡のコースのテキストを読もうと思って、予定どおり勉強していたのですが、勉強を始めてすぐに電話がかかってきてその時間を邪魔されたのです。

いつもなら早く切ろうと思うのですが、その時は思いなおして相手の気持ちに寄り添って自分の時間をあげちゃおうと思ったのです。

そう決心してからはイライラすることもなく、穏やかな気持ちで応対することができたのですが、結局ほとんどの時間を電話での対応に使ってしまったために、予定していたコースの勉強はできずに終わりました。

それでも、特別損をしたような気持ちになることもなかったのです。そして、奇跡はその後寝る前に起こりました。

就寝前の少しの時間でもいいから、今日読む予定だったところを読もうと思ってしばらく読み進めているうちに、気が付いたらその日予定していたところを全部読破してしまっていました。

驚いて時計をみても、それほど時間はたっていません。びっくりしたのですが、その時に愛をもって時間を与えたために、その時間を与えられたのだと気づいたのです。

しかも、常識では考えられないことですが、時間の進み方を調整されたとしか考えられないのです。おかげで、通常通りの時間に寝ることもできました。

時間については、もう一つ経験があります。昨年末にハワイに行った時のことですが、成田まで吉祥寺からリムジンバスで行くことにしていたのですが、乗ってからすぐに大渋滞の中に入ってしまいました。

運転手さんに聞いても、相当やばいかもしれない、というだけで、夜でしかも雨が降っていたためか、首都高の電光掲示板には渋滞60分と出ていました。

このままだと、完全に飛行機に乗り遅れるわけです。いつもだと、またイライラして成田に着いたときに大慌てで走っているイメージをしてみたりするところですが、その時は成り行きに任せようという気になって寝てしまったのです。

考えてみると、これは渋滞を赦すという気持ちになったのでしょう。これはある意味、愛を伴う意識に違いありません。その後、途中で目が覚めると、渋滞は解消していてバスは気持ちよく走行していました。

考えられないことですが、結局バスは定刻どおりに成田に到着してしまったのです。きっと渋滞という状況に対して、赦すという愛を与えることができたために、必要となる時間を与えてもらえたのだろうと思っています。

愛をもって与えることをすると、人生がとても都合よく回りだします。それは、愛を与えてもらえるからです。そしてそれは様々な形となって、自分が受け取れるようになるのです。

是非試してみてください。そして、一度でもこの経験をすると、与えることが自分を幸せにするのだと身に沁みて分かるようになるはずです。