自分の本当の姿 その4

またまたまた続きです。

知覚するとは願望を満たすことなので、私たちは自分の見ようとするものを知覚しているということになります。しかしそれは、自分の想念が作り上げたものですから、ホンモノではありません。

その願望の中心となっているものは、自分がその他のものと分離しているということです。実際私たちは個別の身体を持って、それぞれが別々のことを考えながら生きていると思えるように知覚しているのです。

これこそが私たちの願いそのものです。 それが願いなのだと言われてもきっとピンと来ないかもしれませんね。それなら、これを想像してみてください。世の中で自分が一番忌み嫌うような人をイメージして、その人と自分が一心同体だとしたら…。

絶対いやだと思うはずです。つまり、それが自分は自分として、他の人と違うものでいたいとする心の働きなのです。私はあんな人とは全く違う、似ても似つかない。

極悪非道な殺人鬼ともしも一心同体だとしたら?冗談じゃないと思いますね。それこそが、分離を願う原動力になっています。

もっと一般的な表現をすれば、自分の中の認めたくない闇のような部分を、自分から切り離して、それを自分の外側にある存在として分けたのです。そうすることで、自分はそんな酷いやつとは違うのだと思えることで安心しようとするのです。

その外側にいる酷いやつとは、自分がでっち上げた想念による知覚が作った幻想なのですが、でもその知覚を信用してホンモノとしてみることができるために、あいつは自分ではないとすることが可能になるのです。

でも実は、外側にいると思い込んでたあいつは、自分の内部にいる自分にとっては都合の悪い闇の部分だったということです。

さて、まとめましょう。自分の本当の姿というのは、実はスピリットであり、きっと愛の想念であるのですが、理由はともかくとして、何か自分の内部に良からぬ部分があると思い込んでしまったのです。

でもそれはとても都合の悪いことなので、その部分だけを心の中で隔離して見えないようにするとともに、知覚を使ってその都合の悪い部分を自分とは分離された外側の存在とするような錯覚を起こしたのです。

身体もこの世界もその悪い奴もみんながバラバラに存在しているという錯覚を作り上げて、安心することにしたというわけですね。

分離しているという錯覚によってひと安心はできたものの、自分とは身体を持っていずれ死ぬ運命にある個体としての人間だと惑わされているわけですから、心から満たされるということはあり得ません。

それに身体を持ってしまったという錯覚によって、様々な不幸が訪れるようになってしまいました。それは、病気であり、怪我であり、本当に愛する人とはどんなにくっついてみても一つにはなりようがないという絶望的な悲しみです。

身体を死から守らねばならないという幻想を持ったことで、自己防衛を続けなければならなくなってしまい、そうやってエゴの活躍が続くのです。本当の自分であるスピリットであれば、全く無防備でいられるはずなのですが。

自分の本当の姿 その3

またまた続きです。

私たちは、自分の外側の世界というものがあって、そこに物体があるとして、それに光が当たって、その反射した光が肉体の目の網膜に入り、視覚情報としてそれが脳に伝わって、そこに物体があると認識するというように考えています。

その知覚についての常識を一旦白紙に戻しましょう。そして、次のように考えてみるのです。肉体も、その肉体の一部である知覚も、すべて自分の想念が作り出したものであって、その知覚を使って自分の外側に自分とは違う何かがあると思わされてるだけだと。

つまり知覚(五感)による感覚そのものも自分が作り出しているものであって、それを我々は信じてしまっているということです。自分の心の奥の想念が見たいもの、聞きたいもの、触れたいもの、そういったものを身体を使った知覚として発生させて、それによって、身体の外部にこの世界があたかもあるように見せかけているということです。

これが、実はこのブログで何回も出てきた投影というものです。投影というのはその言葉どおり、心の奥の思いを知覚を使ってあたかも外側に存在するかのように、まるで映写機のように投影しているということです。

常識では、この宇宙の中に地球があって、それは自分がここにいてもいなくてもずっと存在していて、そこに赤ちゃんとして生まれてきて、生きて、そして死んでいくのが自分の姿です。

しかし、この新たな想定ではそういったことがすべて否定されてしまいます。深刻に考える必要はまったくないのですが、この想定を科学的に否定することはできないはずです。

そうすると、こういう想定をしたとすると、自分という存在は一体何者なんだろう、という疑問が果てしなく浮かんできます。すべてがひっくり返ってしまい、今までの常識は全く使えなくなりますね。

一つの結論としては、自分とは思い、想念そのものであるということが言えると思います。つまり、それがスピリットということです。肉体は作り物だし、この世界も同じように自分の想念による作り物であるということになります。

この結論が自分の幸せとどう関連するかを考える必要があります。

自分の本当の姿 その2

昨日のつづきです。

子供の時にふと思っていた、自分とは何なのだろう?という疑問について、それを真剣に紐解いていくことで人生をより幸せな方向へと向かわせるという、その理由について考えて行きたいと思います。

私たちは6歳くらいからの義務教育のスタートと共に正規の教育が始まりますね。勿論その前から英才教育と称して幼稚園その他でも教育する場は沢山あります。

いずれにしても、『あなたは、こういう存在で、こういった目的のために今ここに居るのです。』といった、教育というのはされることはありません。

それはそうですね、学習過程を作る人にとっても先生や親にとっても、誰にも分からないようなことを子供に教えることはできませんから。

日本の常識では、そういった種類のことは宗教などの教えとして、あるいは個人的に興味があればそれなりの年齢になって書物などを頼りにして勉強すればいいことという捉え方をしていると思います。

そして、誰に教わるでもなく、気がつくと自分は当然のように人間として生まれて、この世界でしばらく生きて、そして死んでいくのだと結論付けてしまいます。それが自分というものなのだと信じてしまうのです。

一度信じてしまったことは、よほどのことでもない限り、それ以降疑うこともしなくなるし、その信じていることを覆すことは非常に難しくなりますね。

しかしなぜ、誰にも明確に教えてもらったわけでもないのに、このような一つのことを誰もが信じてしまうのでしょうか?

それは、人は自分の知覚(五感)を信じているからです。すべてはそこから始まっていると思います。自分が見るもの、聞くもの、触るもの、そういったものは実在としてあるという認識をします。

なぜなら、自分の知覚を信用しているから、感覚から入ってきた情報を鵜呑みにして、それをベースにしてこの世界を認識してしまうのです。

そして、普段はそんなことも忘れて生活しています。もし、自分の知覚を疑うとしたらどうでしょうか?自分の存在も、この世界である自分の周りの実在もすべてが怪しくなってきますね。

幻覚、幻聴というのはありますが、そうではなくて、普段の自分の視覚、聴覚を疑ってしまうのですから、それこそこの世界がひっくり返るくらい大変なことになっても不思議ではありません。

実は疑う価値があるのです。もし、自分の本当の姿を隠して、ニセモノの自分として生きていたら、満たされた幸せな状態になるでしょうか?私は自分が何をやっても完全には満たされることが無いのはなぜかと真剣に考えたのです。

そして出た結論は、満たされない真の理由は、本当の自分とは何ものかに気づかずに生きているからなのではないかと思ったのです。自分の本当の姿を自分は心の奥で実は知っている。

でもそれを思い出したくないなんらかの理由があるために、気づかないようにされている。だから、何かがしっくりこないような、何とも言えない感覚を抱きつつ生きているのだろうと思ったのです。

本当の自分を探すには、今まで何の疑いも無く信じていたものを全部一度白紙に戻して、見つめなおす必要があるのです。それ以外に方法はありません。

だから私は幼い頃の自分の感覚を信じて、つまり自分の知覚に違和感があるなという気持ちを思い出して、再度、この五感はホンモノなのかを疑うことを始めました。

そうしたら、そこに思いも寄らない世界が広がってきました。ものすごく強力な後押しをしてくれたのが、他でもない、「奇跡のコース」でした。

皆さんも自分の正体を知りたくはないですか?これはただの興味ではなく、本当に満たされた平安な心で生きていくうえで欠くことのできないことだと思うのです。

目的はとにかく単純です。いかに幸せになるかということですから。このことを一度心静かに見つめてみてはいかがでしょうか。

自分の本当の姿

子供の頃、自分て何ものだろう?何で自分は今ここにいるんだろう?何で宇宙があるのだろう、死んだらどうなるのだろう?というようなことを考えたことがあります。こういったことは、多かれ少なかれ誰にでも経験があると思います。

ところが、成長するにつれて、このようなことが頭をかすめることは次第に少なくなっていきますね。それは、こんなことをいくら考えたって答えが出るわけでもないし、毎日の実生活には何の足しにもならないと思うからです。

それどころか、大人になるにつれて日々の生活に追われて、辛いこと苦しいことを何とか乗り越えて生きていかなければならないので、子供の頃の純粋な疑問などすっかり忘れてしまうようになってしまいます。

しかし、子供の頃の純粋な探究心は後に大きな成果を生む場合もあることを我々は知っています。例えば、ニュートンがりんごが木から落ちるのをみて、万有引力を発見したなどは有名ですね。ただ、この話しは実話ではないらしいですが。

ですが、きっと最初は素朴な疑問からのスタートだったのだろうと思います。そして、ニュートンが発見したニュートン力学がなければ、人類は月に行くこともできませんでしたし、それどころか、あらゆる乗り物などの発明もなく、今の近代文明の発達はあり得なかったはずです。

それと同じようなことが自分自身についても言えるのです。つまり、自分が子供の時にふと思っていた、自分とは何なのだろう?という疑問について、それを真剣に紐解いていくことは実は人生を大きく変えるチャンスとなるのです。

勿論、より幸せな人生へと向かわせるチャンスであると同時に、実際に幸せへと向かわせることになるのです。なぜそんなことが言えるのかと、それこそ疑問に感じられるはずですね。

それについては、このつづきでお話ししたいと思います。

判断しない

私たちは日頃、よい判断、悪い判断という言葉を使っています。よい判断ができる人、的確な判断、正しい判断ができる人はすばらしいし、逆に悪い判断をする人、不適切な判断をする人に対しては否定的になってしまいます。

また、世の中には正しいこと、正しくないこと、というものがありますね。これは、実際には自分が正しいと判断したものが正しいし、正しくないと判断したものは正しくないとしていることなのです。

ところが、この自分の判断というものが大変怪しげなものだと言ったらどうでしょうか?
立派な人格者はいつも正しい判断をするので、そういう人が下したこれは正しいという判断は信用できると思いがちですね。

自分だって冷静であれば、そこそこ正しい判断をすることができるよ、と自負している人も多いはずです。逆に、自分はいつも判断がうまくできなくて、すぐに人に聞いてしまうので、困っています、という人もいるでしょう。

さて、今日のテーマは、なるべく判断するのを止めてみましょうということなのです。

なぜなら、自分の判断とは、エゴの判断であるからです。エゴである自分は、物事を判断する時に、エゴの防衛システムにその情報を送り、そこで防衛するのに都合のいい判断をし、防衛システムはその結果を自分に返してくるのです。

私たちは、それを自分の判断として使って生きています。例えば、人に迷惑をかけないようにするのが正しい行動である、という判断をしているとします。(多くの人がきっとそう判断しているでしょうね)

そうすると、自分の行動の一つひとつをチェックしては、それが迷惑をかけない正しい行動かどうかの判断を下すのです。そして、迷惑をかけそうに思える、つまり正しくない行動だと判断された場合には、自己犠牲を払ってでもその行動を中止するのです。

それは実は人に迷惑をかけないようにすることで、自分の評価を下げないようにする自己防衛の行為なのです。エゴはこの防衛をするためだけに、その行動を中止させるのです。そのために、本音を抑えたり、いつも人の都合を優先するような生き方になってしまいます。

それが愛から出た行動ならいいのですが、防衛からの行動であるために、自己犠牲が発生して、それを繰り返すことで心が苦悩することになってしまいます。

また、毎朝きちんと部屋の掃除をすることが人として正しい行為だと判断していると、それができない人を否定することになってしまいます。人を否定することは、自己防衛の得意技なのです。そうやって、人間関係が悪化することになっていくのです。

だからといって、判断を止めてしまったら、一日たりとも普通の生活ができなくなってしまうと思われるでしょうね。確かにそういう面も沢山ありますが、正しさというものを判断によって作り出さないようにするということはできるはずなのです。

今まで、長年かけて作り込んできたこれは正しいという判断結果を、総ざらいしてその判断を無効にしてしまえばいいのです。これは真剣に取りかかれば全くできないということはありません。

それと、日々の判断が必要なことも、即時性が要求される場合は無理としても、比較的ゆっくり判断すればいいような場合には、例の聖霊に判断を委ねればいいのです。そうすれば、自分のエゴの判断を使わずに済みますね。

実は聖霊だけがまともな判断ができるのです。なぜなら私たちはエゴです。防衛を主目的として判断してしまうわけですから、それこそ聖霊の判断とは常に違う判断をしてもおかしくはないのです。

実はこれは幸せを手に入れる最短の生き方なのです。それだけに、なかなか実践することは難しいと感じるかもしれません。でも、少しずつでもやっていくことで自分を慣らして行くことが大切ですね。

過去と未来 その2

昨日の続きです。

過去も未来も見ないで、今この瞬間だけを生きると、とてもすばらしい心で過ごせるのかもしれないけれど、でもどうやったらそんなことができるのかが分からないですね。

だって、過去は確かにあったし、未来も必ずやってくるのですから。でも誰でも今だけを見ているという過ごし方をしたことが必ずあるはずなのです。

それは例えば、何かに熱中している時、テレビや映画を観ながら、その中に引き込まれてしまっている時などはまさにそういう状態です。本を夢中になって読んでいるときも時間を忘れてしまいますね。

無邪気な子供時代はまさにそういう時間が沢山あったはずなのです。特徴はすべて時間の経過のことを忘れることや、過去と未来のことも忘れていることです。更に付け加えると、身体に関する感覚もかなり薄れてしまうようです。

身体の体勢を全く動かさずに長時間ゲームに熱中していた時、終わって立とうとしたら足が痺れていて感覚が全くなくて立てなかったという経験なども同じものですね。

以前、友人がそのお祖母さまが亡くなる直前の床で、「一生はあっという間に過ぎて、まるで幻のようだったよ。」って言われたのを聞いたそうです。自分はこの話を聞いたとき、すごく納得した記憶があります。

実は今でも自分の過去を本当にあったものかどうか、すごく疑わしい感覚があるからです。どういうわけか、幻想のように感じてしまうのです。

過去は幻想だというのはやはり乱暴かもしれませんが、過去に殊更価値を見出さないでいることはできるはずです。過去のあらゆることは、実は取るに足らないどうでもいいことだという感覚が大切なのです。

過去にこだわりを持ち続けると、現在を一番いい状態で生きることがとても難しくなるし、未来も大きくその影響を受けてしまいます。

出来る限り、過去はないものとして今この瞬間から生きていくようにしてみることです。今この瞬間しかない、過去はすべて夢のようなものとするのです。

そうすれば、過去のいやな出来事、いやな奴、理不尽な思い、苦痛の時間、そういったものから開放されるのです。

そうすると、必ず、過去はなかった、いやあってもなくてもどっちでもいいや、という心境になってきます。記憶はなくならないのですが、ボーっとしたものに思えてきます。

いつか見た夢と同じくらいに曖昧なものに思えてきたら、今日生きるエネルギーを過去に奪われずに済むようになります。それを全部今につぎ込むことができるのです。

過去と未来

みなさんは苦悩のほとんど全てが過去からくるということをご存知ですか?

いやそんなことはない、今この瞬間に胃がキリキリ痛むのは過去ではないと言うかもしれません。しかし、癒しを進めていくと、そういった身体の不調も過去の体験が原因となって発症しているということが分かってきます。

産声をあげたその時から現在に至るまでの長い歴史の中にこそ、今の自分が出来上がるすべての原因があるということですね。

幼いある日、自分が昼寝をしている間に母親が買い物に出かけて、戻ってくる前に目が覚めてしまった時の、どうしようもない不安感や一人ぼっちにさせられてしまった寂しさなどが原因となって、見捨てられ不安という形で大人になっても心のしこりとして残ってしまったりするのです。

それまで大好きだったものを食べて、ひどい食中毒を起こしてしまったことが原因となって、その後まったくその食べ物を口にすることができなくなってしまったなどもよく聞く話しですね。

また、過去にひどい裏切られ方をしてしまった経験によって、それが原因となってその後の人生で人を信頼することができなくなってしまったり、とても理不尽なことを繰り返された相手を、その後ずっと憎み続けなければならなくなったりするのです。

このようにどれだけ過去の出来事や思いが現在の自分を苦しめているか、分かっていただけると思います。そして、未来についても、実は過去の経験というものをベースとして、予想するようになるのです。

不安な毎日を過ごしてきた過去を持つ人は、そういった経験を基準として未来を見つめるために、やはり未来に対しても大きな不安を感じるようになってしまいます。その場合、現在の状況など概ねすっ飛ばして過去から直接未来へと気持ちを向けるのです。

例えば、過労や寝不足、風邪などによる体調不良が重なった時に、満員電車の中ですし詰め状態になって、運悪くちょうど事故などで延々車両内に閉じ込められたりすると、貧血や吐き気などのパニック的な症状を起こすことがあります。

そして一度そういった苦痛の経験をしてしまうと、次に満員電車に乗った時にもしも今度も似たようなことが起きたらどうしようという予期不安が起こるのです。そういった緊張が激しくなった結果、特に体調は悪くなくてもまたパニック的な症状を起こしてしまうといったことがあります。

つまり、私たちは現在をあまりにもないがしろにしていることに気づいていません。過去と未来に自分の意識がいつも向いているといっても過言ではないと思います。

もしも、過去も未来も本当はない、幻想だとしたらどうでしょうか?過去がなければ、誰かを責めることもないでしょうし、未来がなければ不安な毎日を過ごす必要もなくなります。

それを想像してみて下さい。未来を憂うこともせず、過去にとらわれないで今この瞬間にしっかり意識を向けられる人生がどれほど快適なものか、平安で愛に満ちた心で生きていけるとは思いませんか?

自分の力

何か大切な問題に逃げずに立ち向かおうとしてる人を見ると、私たちはえらいなあ、頑張ってるなあと応援したくなります。辛いことや苦しいことから逃げ出したくなるのが人間の常ですから、それをせずに苦難に向かっていくわけですから尊敬すらしたくなるかもしれません。

そうやって、一つひとつ乗り越えていくことで自分の力を向上させていき、立派な人物になっていくものだと思っています。それは物理的な能力でもそうですし、精神的な力の場合もあるかもしれません。

そして、くじけずに頑張ったおかげで何かを成し遂げた人はきっとそれなりの自信を身につけることができるはずですね。一度自信をつけると、それだけ物事に対して怖れを抱かなくなるのです。

こうして、自分の力に磨きをかけていくことで、人生を悠々とした穏やかな気持ちで生きていくことができるようになります。それは何ものにも換えがたいすばらしいことですね。

しかし、こうしたやり方は確かに立派なのですが、ものすごい時間と労力とたゆまぬ努力が必要となるのです。またそれだけではなく、いろいろな弊害が出てくる危険性が非常に高いのです。

例えば、頑張りすぎて身体を壊したり、忍耐し過ぎて精神的な病気にかかってしまったりと言ったことが起きてきます。それでも他人からの評価が下がるわけではないので、この生き方が好きという方もいらっしゃるかもしれませんね。

人間とはそうやって成長していくべきなのだという信条をお持ちの方は、ご自分の心身に気をつけながら、ある種の苦行難行のような道を進んで行かれるといいと思います。

でも、もっとお気楽で、短時間で人生が幸せになっていく、言って見れば「ずるい」方法があるのです。楽チンなやり方でなおかつ無理しないので病気になることもありません。

それはどんな方法かと言うと、自分や自分の力を向上させようとするのではなく、他力本願な生き方をするということです。ただし、他力といっても、他人ということではなく、聖霊の力に頼るということです。

自分の力など、どんなに頑張っても高々知れています。何かを判断する時に、完璧な判断をするためにはすべての情報を把握しておく必要がありますが、それは人間である限り不可能なことですね。

自分の力で物事を判断したりしない、解釈もしない、自分を立派な人物にしようとする代わりに、自分は主体性を持たないと決意するのです。自分の力を使うのはたった一つだけ、聖霊に従うと決心するところだけです。

あとはオールマイティな聖霊(自分の中の真実の愛の部分)にお任せしてしまうのです。この生き方は、最初はとても馴染めたものではありません。こんな主体性のない毎日でいいはずないじゃないかと思います。

でも、実はこれこそがこの世界を地獄から天国に換えるもっとも有効な方法なのです。聖霊を信じて、少しずつそういう生き方を実践して行って欲しいと思います。

永遠について その2

昨日の続きです。変化するものしかないというこの世界において、愛という漠然としたものをずっとイメージで追っていくと、どうも不変なものだという感覚がやってきます。

真実の愛が変化するというイメージはどうしても湧いてきません。我々の恋愛における愛は、結構コロコロと心変わりするようですが、これはどう考えても真の愛ではありませんね。

そして、もしも愛である神がいて、その存在がこの変化しかあり得ない宇宙を創ったのだとしたら、ヘンだと思いませんか?永遠の愛である神が何でその存在とはかけ離れたこの世界を創るのでしょうか?

答えは二つあると思います。一つは、神はいないとすることです。もう一つは神はいるが、神はこの諸行無常の世界を創ってはいないとすることです。あなたはどちらの考え方が気に入るでしょうか?

もしも前者の方を好むのでしたら、この世界は偶然に生まれたものですから、それが変化し続けようがどうしようが議論の余地はありません。しかし、後者を好む場合はどうでしょう?

神はいるがこの世界を創ってないとすると、またまた二つの疑問が浮かんできます。一つは、ではこの世界はどうやって創られたのかということ、もう一つは、神の世界はこの世界とは違う永遠の世界として実在するのか?ということです。

神はあらゆるいっさいであるとしたら、神以外のものはないのですから、この世界が神の手を離れて別の誰かが創ったとすることは不可能です。とすると、神はいるとするなら、この世界は実在しないということになります。

そして実在するのは、神である永遠の愛の世界だけということになります。でも困ったことに私たちはこの諸行無常の世界に生きているという実感を持ってしまっていますね。これはどう解決したらいいでしょうか?

そこで、例の投影を思い出せばいいのです。エゴは望むとおりの知覚を作ることで、あたかも自分の外側にこの世界があるように実感させているということですね。

ここまで話を引っ張ってくる言動力は何かなと思うと、それはどうやら自分の心の奥のどこかにデンとした愛の存在を感じるからだと分かります。愛の表層の部分だけを感じているのだろうと思いますが、全体を感じなくてもそれがどれほどのものなのかどこかで知っているような感覚もあります。

これがすべての土台のように思います。神というとちょっと違和感がありますが、すべては愛であってそれは不変である、この感覚こそかけがえのないものではないかと思っています。

怖れ、不安、怒り、絶望、渇望、悲しみ、孤独、そういった愛以外のどんなものも永続性を欠いています。だからすべて知覚による錯覚の産物だと捉えるのが一番合理的ではないでしょうか?愛はそういった世界とは関わることができません。

愛だけが実在であって、それ以外はすべて錯覚なんだという結論に到達してしまいました。永続性のないものは、つまりこの世界はすべてまやかしだということです。

本当の幸福とは、永続的な心の平安であるとこのブログでもお話ししているように、真に大切なものは不変なのです。不変なものが一つもないこの世界に生きていると思わされている我々は、どうやったら不変なものを身にまとって生きていくことができるのでしょうか?

それは錯覚から目を覚まして、自分自身の本当の姿を思い出すということになるのではないでしょうか?不変であるものを身にまとう必要はありません。自分自身が不変である存在だということが分かればいいのですから。

自分だけではなく、目の前にいる相手も自分と同じ永遠の存在だということに気づくことでもあります。それを実践を通して、学んでいく方法を提供してくれるのが、「奇跡のコース」なのですね。

永遠について

花の命は短くて…

昨日今日で一気に桜の花が散り出しました。今年は咲き始めた頃に急に寒さが戻ってしまったせいで、満開になるのが一週間くらい遅くなってしまいましたね。そしてやっと咲いたかと思ったらもう桜吹雪になってしまいました。

人はそういった、はかないものに特別の感慨を持つものです。桜が一年中咲いていたら、それはそれで確かにきれいだとは思うかもしれませんが、これほどまでにもてはやされることもないはずです。

仏教用語か何かに、諸行無常というのがありますね。この世界のありとあらゆるものは、変化して一定であることはない、という教えです。そんなことは改めて言われなくても誰しも当たり前のこととして理解しています。

でもそのことをなぜなんだろうと考えることはあまりないと思いませんか?なぜ、不変のものはあり得ないのだろうかと。この広大な宇宙さえも、大昔にビッグバンが起きて誕生して膨張し続けていると言われています。

私たち自身も生まれるという変化から、成長という変化を経て、死という変化を遂げることから逃れることができないと思い知らされています。

私たちは変化を好む傾向と、変化を好まない傾向との両方を同時に持っていると思います。そのどちらも愛がベースというよりも、怖れや不安が原動力となっているのです。

変化を好まない傾向としては、誰しも死を怖れるわけですから、永遠の命というものを欲しています。老いていくことを怖れて、永遠に年をとらない若い身体でいたいとも思うし、別れることを怖れて大好きな人とは永遠に一緒にいたいと思うわけです。

一方で、変化を好む傾向としては、花の命は短いからこそ、貴重だとしてそれを好むし、野球の試合がずっと0対0で何の動きもないようだと見ていても飽きてしまうでしょう。それよりは、変化に富んだエキサイティングなゲーム内容の方が楽しむことができると思っています。

この変化を好む傾向というのを探っていくと、どうも退屈しないで済むとか、我を忘れて楽しむことができるなどのイメージが出てきます。変化がないとマンネリ化するということも知っています。

つまり、この変化を好む気持ちは、満たされない心、何かを渇望している欠乏感のようなものが原動力であるように思えてきます。ということはそこには愛はないですね。

つづく