老子のありがたい言葉

かつて有名なお笑い芸人の方で、「読まずに死ねるか!」というのを口癖にしている人がいました。死ぬまでにできる限り本を読みたいということでした。

それこそ毎日、5冊も10冊も本を読み続けていて、読まずに死んでいく本があることが残念でならないということなのでしょう。

それと似たようなことで、世界各地の観光名所と言われるところに訪れることなく死にたくないと、感じている人は結構いるのではないでしょうか?

その気持ちも分かるのですが、結局は世界中のありとあらゆる本を読むことは不可能だし、全ての観光名所を巡ることも全く不可能なことです。

さらに言えば、どれだけの本を読もうと、どれだけの名所に訪れようと、結局は満足するということがないのが人間(自我)なのです。

そこをしっかり見極めたところで、見るべき場所を設定し直すことです。私の大好きな老子の言葉で次のようなものがあります。

『真理を見出すために部屋の外に出ていく必要はない、扉を開ける必要すらない、目を開ける必要すらない。真理とは、あなたの実存だから。』

自らの内側に意識を向けること、意識的であり続ける事。煩悩が邪魔をするのを承知の上で、少しずつ意識を目覚めさせてあげたいものですね。 

愛と欠乏感は真逆

純粋な愛というのは、後から後から無尽蔵に溢れ出てくる枯れることのない泉のようなもので、それは常に外側へと広がっていくイメージがあります。

一方の私たち自我というのは、その真逆。自我の根っこにあるものは、欠乏感なのです。愛とは逆に周囲から吸収しようとするものです。

つまりは、ギバーの反対にテイカーであるということです。それの是非はさておき、自我は欠乏感があって初めて成立するのです。

もしも、完全に満足しきってしまい、もう欲しいものは何もないという状態になったとしたら、自我は存続することが難しくなってしまうでしょう。

ですから、自我として生きていくためには欠乏感は必須のアイテムなのです。それが純粋な愛と正反対であるということを認められるかどうか。

自我には純粋な愛がないことを原理的に認めてしまうと楽になります。もちろん、私たちには愛しいと感じる他者がいるのも事実です。

それが、純粋な愛へと変化することもあるかもしれませんので、自我の愛を否定する必要もないのですが、純粋な愛は自我のものではないということは理解すべきことです。

ただし、私たちは場合によっては純粋な愛を感じることができるのです。なぜなら、あなたが常に自我に乗っ取られているわけではないからです。

ある時突然、自我が静かになって、つまりは吸引力が収まり、その代わりに純粋な愛が表面化することもあるからです。それこそが、私たちの本来の姿なのですね。

今日も一喜一憂

スマホの急速な普及とともに、ホームページもスマホで見るという人が圧倒的に増えたわけですね。ところが、手作り感満載なルシッドのホームページは、パソコンで閲覧するように作られています。

従って、スマホで閲覧しようとすると、文字が小さくなり過ぎたりして非常に見づらいし、とにかく不親切なモノになってしまったのです。

というわけで、重い重い腰をようやく持ち上げてホームページのリニューアルをしようと思い立ったのです。さあ、プロに依頼するか、はたまた自分でまた作るのか?

ネット上でざっと見積もりをしたところ、びっくりするくらい高額な感じだったので、ひとまず自分+友人でチャレンジしようということになったのです。

いろいろ準備を始めたりしている間に、今現役で頑張っているホームページが何かの拍子に見えなくなってしまっては大変です。

せっかく予約しようとして下さっている人がいても、それができなくなってしまうので、そこは慎重にことを進めようと。

ところが、色々なことがうまくいかずに、ああやばい!ということなどが毎日のようにやってきて、その度に一喜一憂してしまうのです。

ああもう絶望的だと思ったら、今度は意外と大丈夫だったと思ってみたり、次にはまた今度こそまずいことになったと思っていると、やっぱりなんとかなりそうになってみたり。

そろそろこの一喜一憂のバカバカしさから解放されて、落ち着いた気持ちで作業に取り掛かれるようになりたいなと思うのです。

そのためには、危機的状況になってしまった時にこそ、できるだけ意識的な状態でいられるようにすることなんですね。

中道を生きる

初めに真ん中があって、そこから振り子が揺れるように左右に動きが現れて、その揺れがこの二元性の世界を形作っているのです。

もしもまた揺れが止まって最初の真ん中の位置で止まるなら、そこが非二元の世界なのです。サイドに揺れている時には、必ず対極があって両者はペアです。

明暗、昼夜、善悪、正不正、左右、遠近、高低、美醜、このように具体的に見ればこの世界の二元性を再認識できますね。

そして左右の揺れが最大限になった時、つまりは両極端の状態になった時には当然のごとく、最も人が病んでいる状態です。

極端に我慢する、極端に怠ける、極端に敏感、極端に鈍感、極端な快楽主義、極端な禁欲主義、こういった極端さはマインドを蝕むのです。

マインドを癒していくということは、極端に大きく振れている振り子の振り幅を少しずつ小さくしていくことなのです。

そして、できるなら真ん中に近づくくらいの状態で生活すること。これこそが、ブッダが提唱していた中道なのですね。 

一貫性など元々ない

梅雨の時期であるのに、昨日今日と猛暑日のように異常に暑くて、身体はもうしんどいよと悲鳴をあげているようです。

そんな中、あれ?これは夏休みの時の感触じゃないの?ワーイ、夏休みだぁ!と喜んでいるのが内側にいるのです。

多分小学生くらいの時の自分なんでしょうけれど、あの頃はとにかく休みが大好き&夏が大好きということで、夏休み命だったのですね。

そんな子供のサブパーソナリティがいまだに突然お出ましになるのですから、人間とは如何に過去に縛られているかが分かります。

大人になって、暑くてだるい夏よりもおしゃれなブルゾンとかを着ることができる冬の方がいいじゃないと感じるようにもなったのに。

年齢とともに、いろいろなパーソナリティがいて、どれが出てくるのかはほとんど予想できません。だから、一貫性などないわけです。

これが人間なのです。TPOに応じてその時に都合のいい奴が出現するのです。そんな自分を温かい気持ちで見守ろうと考えた本日です。 

外側の世界と内側の世界

私たちには、世界が二つあるのです。一つは内側の世界であり、もう一つは外側の世界。馴染みのあるこの世界は外側の世界です。

外側の世界で生きているので、他人の外側のごく一部のことしか知り得ません。内側を知るすべはないのです、たった一つの例外を除いて。

その例外とは、私たちは自分自身の内側には入っていくことができます。他人の内側に入ることはできませんが、己の内側には幸運にも入れるのです。

あなたが自らの内側深くを覗き込むことができれば、それだけ外側の世界の上位の次元であるところへと近づくことになるのです。

一般常識としては、外側の世界はみんなで共有している世界であって、内側の世界というのは個人個人のプライベートな世界ですね。

けれども、内側の世界の内奥へと迫っていくことによって、個別に存在しているように見えていた意識が、実は全体性としての唯一の意識だったと気づくのです。

そこには分離という概念がありません。あなたの意識と私の意識とは同じものだったということ。無限に広がった意識の大海原なのです。

それがほんの一瞬、自分は大海原から分離した水滴だと勘違いしている夢を見ているに過ぎないのです。外側の世界に生きているという夢の中で、このことを見抜くなら一瞬にして真実に出会うことでしょうね。

夢の中でくつろぐ

例によって以下のoshoの言葉に耳を傾けてみましょう。

『あなたのハートに沈みこませるべき最初のことは、あなたは眠っている、完全に眠りこけているということだ。あなたは明けても暮れても夢を見ている。

目を開けて夢見ている時もあれば、目を閉じて夢見ている時もあるが、あなたは夢を見ている。あなたは夢だ。まだ現実ではない。』

実はこの仕事を始めるずっと以前から、「この世界は夢だ」という感覚を持っていたのですが、もちろん誰かに言ったことはなかったと思います。

今でこそこのブログがあるからこうして表現することができるのですが、それでも直接会話の中で言うチャンスもないし、何となく気が引けるのは確かです。

なのでosho がこのような言葉で語ってくれるのは、物凄くありがたいのです。自分一人の感覚なんてあまりにも曖昧で荒唐無稽なものでしかないので。

最近の自分の言葉で言うなら、みんなで自我になった夢を見ているということです。この宇宙がないということではなくて、目覚めた状態でそれを見てはいないということ。

もしかすると私のこの感覚は、目覚めていた頃の感覚を夢の中でもうっすらと感じているのかなと。きっと死んだらすぐに目覚めるような気がします。

どうせ眠って夢の中にいるのなら、苦痛のそれよりも穏やかで楽しい夢にした方がいいですね。防衛から手を引いてくつろぐことですね。

意識が覚醒すると…

一般的に言って、気絶した時には意識を失うという言い方をするし、そこから回復した時には意識が戻ったと表現しますね。

こういった言い方に慣れてしまっているので、意識というのは失ったり戻ったりするものだという思い込みが出来てしまったのです。

真実のレベルで言う純粋な意識というのは、決して失ったり戻ったりするものではなく、私たちの本質そのものだということ。

意識はこの宇宙である3次元の上位の次元にあるものなので、この世界のあらゆるものに浸透しているのです。つまり意識の内側(より低次元)にこの世界があるということ。

ただし意識の状態として二つの状態があるのです。一つは、覚醒している状態であり、もう一つは眠っている状態なのです。

私が知る限り、この宇宙の中で覚醒した意識が顕れているのは人間だけなのです。それ以外の全ては眠っている意識が覆っているのです。

あらゆる動物、植物、鉱物も全てに意識は浸透しているのですが、とにかく眠っている状態なのです。そしてその唯一の覚醒した意識も、人のマインドの中のほんの少しだけ。

それ以外は全て眠っていると考えられます。残念ですね。眠った状態の意識に覆われたマインドの代わりに、覚醒した意識に気づくなら、誰もが本当の自分に戻ることになるのですね。 

マインド優位からハート優位へ

マインドというのは思考で出来ている一方で、ハートは感覚や感性で出来ていると言っていいと思います。不思議なことに日本語では、どちらも「心」と呼びます。

単純に言って、考えることと感じることの両方があっての人間ですから、どちらもとても大切な欠くことのできないものです。

けれども、現代人の多くにとってマインドとハートの使われ方の比重が、マインドの方に強く傾いてしまっているのです。

その理由は、このせちがない世界の中で生き抜いていくために、自分をあらゆる敵から守らなければならないために、思考を働かせる必要があるからです。

戦いに勝つために有利な条件とは、マインドによって戦略を練る一方で、痛みを感じやすいハートを閉じることです。だからマインド優位が必然なのです。

たまに忙しい毎日から脱出して、大自然の中で日常を忘れてゆったりと過ごすことができれば、その時はマインド優位が崩れて、自ずとハート優位の状態になるはずです。

こうしたことは、誰もが大なり小なり気づいていることのはずなのに、それならなぜいつまでもマインド優位の人生から逃れることができないのか?

それは、マインド優位であればあるほど、自我にとっては具合がいいからです。自我はマインドの中に棲んでいるので、ハート優位の時には大人しくしていなければならないからです。

自我は幸せを求めているふりをして、実はマインド優位の状態を保って、戦いの人生を継続させたいという本音があるのです。

こうしたことに気づいて、少しずつマインドを沈めるとともに、ハートを開いて感じやすくなるように、生き方全般を見直してみることが大切ですね。

防衛は自我の独壇場

人は何か興味があること、好奇心を駆り立てられるようなこと、大好きでやりたくて仕方ないようなこと等に向かっている時には、取り立てて「安心したい」とは思わないものです。 

つまりそこに不安があろうとなかろうと、それを安心に変えたいという衝動が小さくなっている状態だということです。

その一方で、逆に興味深さや好奇心とは無縁のやりたくないことに従事している時には、どうやって自分を安心させられるかに意識が向くのです。

つまりは自己防衛が発動しやすい状態になっているということです。こうなると、自我の独壇場となってしまうのです。

さてあなたの人生はどちらの色合いが強くなっているか、ご自身で検証してみてください。万一、安心を目指すような人生になっているのでしたら、癒しが必要というサインです。

防衛を繰り返していて満たされるということは決してないからです。安心を求めている人のマインドの中は、思考でいっぱいです。

なぜなら、防衛には思考を使うからです。思考が止まらないという自覚があるなら、それは年がら年中防衛を繰り返しているということを意味します。

そしてその目的は、闘ったり守ったりを繰り返すことで自我はやるべきことがあり続ける状態となって、それが安心につながるわけです。

自我の安心なんて所詮そんなものなのですね。不安だから安心したいと思うのは当然ですが、それをただ見守ってあげられるように練習することですね。