隠されているものなんて何もない

旅行が好きな人ってたくさんいますよね。というよりも、ほとんどの人が旅行に行って、さまざまな景色を見たいと思っているのです。

ずっと家の中に居続けたり、家と職場の往復ばかりではつまらない。せっかく生まれたんだから、色々な場所へ行って色々な体験をしてみたい。

そう思っているわけです。たった一度の人生なんだから、経済的に許されるのであればそれこそ世界中の国々を巡ってみたい等々。

つまり、自分が見たことのないような風景だったり街並みなどが無数に世界中に存在していると信じているのです。

それを体験せずに死んで行くのは、とても残念なことに違いないと。それがごく普通の人々の感覚ですね。

けれども、実はあなたが見ることのできる景色は今あなたが見ているものだけなんです。あなたに隠された景色など何一つないということ。

コレ以外があるというのが、全て妄想だということに気づくこと、それを見抜くことができたらあなたはもう非二元のなんたるかに気づいたということですね。

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非二元のセッションが増えてきた

動画でもお伝えしているのですが、非二元のセッションをやるようになったのですが、少しずつご希望の方が増えてきたのです。

とても嬉しいことなのですが、ここで少し気付いたことがあるので、今日はそのことについてお話ししたいと思います。

さあ今回はどんな非二元の質問に答えることになるのかなと思っていると、非二元だけでセッションが終わらないことが多いのです。

非二元の話をしていながら、知らず知らずのうちに二元の世界でやっている癒しに関連した話になっていったりするのです。

これってすごく興味深いことですね。もしかしたら、私自身がセラピストを生業としていることに起因することなのか。

あるいは、非二元を理解しようとするその背後に、自分の価値を見出そうとする思いが潜んでいるのか。

純粋な興味や好奇心だけで、非二元に興味を向ける人はもしかしたら私を含めて少ないのかもしれないですね。

私にとっては、そのことは願ったり叶ったりのことで、非二元への興味とセラピストとしての興味の両方を満たしてくれるのです。

本当にありがたいなと思わざるを得ませんね。 

自由意志があるかないかの完全決着

この仕事を始めて間もない頃に、世界的に著名な脳科学者の論文を読んだことがあったのですが、それが衝撃だったのです。

それは、人間には自由意志がないということを認めざるを得ない実験結果が出てしまったということだったのですね。

それで、自分なりにそれを検証してみたところ、確かに自由意志はないなという自分なりの結論に至ったのでした。

簡単に言えば、決意する方法を明確には言えないなと。決意はどこからかやってくるものだという感覚があったのです。

それでずっと過ごしてきたのですが、数年前にAIを開発しているとある人物の動画で、自由意志はやっぱりあるという説明を聞いたのです。

彼が提唱している意識の仮想世界仮説によると、脳の中に仮想世界を作る時間だけ全てがズレて見えるのだと。

これは非常に説得力のある話だったわけです。なるほどそれなら、上記した論文の内容を否定せずに自由意志があることになるなと。

ところが、ここへきて非二元の話をしている中で、こうした議論の無意味さに気づいたのです。

我々には、自分の自由意志で今決意したという感覚があるのですが、でもそれだけがリアルだということです。

そうした見かけの決意だけがあって、決意などないし決意できる誰もいないということなのですね。これで、完全決着ですね。

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すべての知識は妄想

私たちのこの社会で生きている限り、知識とか情報量の多い人の方が有利だし、明確な武器になっているなと思うのです。

考えてみると、小学生の頃から来る日も来る日もず〜っと学校で知識を詰め込まれるのですが、それは凄まじいことですね。

そしてそれが、大人になっても続くことになります。書籍や新聞を読んだり、テレビやネットの情報をみたり。

大人は子供よりも直接の経験から得られる知識量というのは圧倒的に多いのが普通です。こうして、知識は生きている限り増え続けるわけです。

ところが、非二元に寄り添っているうちに、知識というのはその全てがリアルではないということに気づいたのです。

知っていることというのは、今ここにはないものばかりなのです。つまり、知識とはリアルではないということ。

ここに気づくことなしに、非二元に気づくことはないし、気づくことがあれば知識を脇に置くというのが必要だと分かるのですね。

意味は妄想の中にしかない

非二元の話をしているときに、自分で気づくと「ただ◯◯なだけ」というような言い方をしていることが多いのです。

それはなぜかなと思うと、その言葉に「意味はない」ということを伝えようとしているのだろうなと。

人間以外の全ての動物は意味というのを理解することはできません。それは、言葉を話すことができないことと関係があるのです。

多くの場合、言葉によって意味をもたせようとするからなのです。ちなみに、今急激な進化を遂げつつあるAIも意味を理解してはいません。

今のようなAIのままでは、どれほど進化したところで意味を理解することはできないはずです。

私たちが暮らしていると思い込んでいるこの世界では、常になんらかの意味があって、それを互いに共有しているのです。

そしてそれがとても大切なことなのですね。非二元では、その意味というものが全くないのです。

なぜなら、意味というのはリアルではないからなのです。意味があるのは、常にアンリアルなものの中にのみあるということですね。

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怠惰な毎日は続く

最好調に用事のない日々が続いています。少し前までは、母親が亡くなったことに関連した様々な処理があったのです。

それも、着実に終えて行き、とうとう納骨を待つのみとなったのです。それ以外で、自分がするべきことが全部終わったのです。

父親の時と比べて、今回は思いの外処理することが少なくて、本当に助かりました。さて、これからどうしようか?

自我というのは、やるべきことがなくなってしまうと、本当に困ってしまうのですね。それまでは、早く終えてスッキリしたいと思っていたのですが。

実際に終わってしまうと、何度か言葉にならない言葉で、いやあもう終わったよ〜。良かったなあ〜と言っている自分がいるのです。

ところが、さあどうしようかと。毎日やるべきことがひとつもない毎日がまた始まってしまうなあと。

YouTube動画のネタを考えることが嫌いではないので、それでなんとか毎日が回っているという感じです。

でもそれも数十分で終わって、あとは好きなYouTube動画を見たり、無料の映画を観たりして過ごしている日々が続いています。

私の怠惰な毎日は、これからも続いて行くということですね。

非二元と心理療法の対比

セラピストとして日々行っている心理療法と非二元を対比して、両者の違いなどをはっきりさせておきたいと思います。

共通点:

• 苦しみや不安の原因を見つめるという意味では重なる部分がある。

• 「今ここ」に意識を向ける重要性を共有していることもある。

違い:

項目心理療法非二元(ノンデュアリティ)
前提「自我」が存在し、それを癒すことが目的自我そのものが幻想、癒す必要すらない
ゴールトラウマの統合、自己理解、回復分離の幻想が見抜かれること
方法対話・分析・感情表現など「すでにあること」への直接な指摘
時間軸過去の原因や未来への希望を扱う過去も未来も思考。今だけがある
セラピスト導き手・共感者「導く誰かも、導かれる誰かもいない」ことが指摘される

心理療法は「個人という前提」のもとに進められますが、非二元ではその「個人性」を真っ向から否定します。したがって、心の癒しや成長を目指すアプローチではなく、「癒すべき誰もいない」と気づくことがポイントです。

■ まとめ

心理療法: 個人の心を扱い、統合や癒しを目指す。

非二元: 個人という感覚そのものが幻想であり、癒しや目覚めも“すでにそれ”としてここにある。

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概念の海の中で生きている

目の前にあるモノをリンゴだと認識するまでに、私たちの脳ではどんなことが行われているかという話をしたいと思います。

実は左脳の中には、概念データベースというものがあるのです。生まれた時から今に至るまでずっとそのデータベースをアップデートし続けているのです。

特に幼い頃に、親などからこれは◯◯、あれは◯◯、のように学んでいきながら、リンゴという名前のオブジェクトとしてデータが蓄積されるのです。

これが概念データベースです。そして、目の前にある何かを見た時に、概念データベースの中を検索しに行くのです。もちろん無意識ですが。

そして、もっともマッチングしたものをソレと認識するわけです。そして、あろうことかマッチング第一位になった脳内の情報を、現実のものとしてしまうのです。

その結果、実際にリンゴという実体があると断定するのです。このように見ていくと、社会生活を営む上では概念は非常に大事であることがわかります。

だから、概念を無くそうなどということを考える必要はありません。単に、概念を使っているということに気づくことです。

そして、概念を脇に置いておくことができればいいのです。そうするとたった今あるこれだけが全てだということにも気づけるようになるのですね。

本人にとって死はない

人は誰もがいずれは死に至ることを知っているのですが、死に方というのかそういうものを何となく気にする感覚があるのかなと。

母親は96歳で亡くなって、死因は老衰と診断書に書かれていたので、ああ良かったねと誰もが言ってくれるのです。

死因が老衰と診断されるのは実年齢が何歳のあたりまでなのか?ふと考えてみたのですが、なかなかはっきりとコレとは言えないですね。

そして、高齢で亡くなればそれは悪いこととしては受け止められずに、かえって大往生のような捉えられ方をするのです。

逆に、若くして亡くなると、何であれ亡くなったことを残念なこととして受け止められるわけですね。

こういうのって不思議な感じがしてしまうのですが、気持ちはわからないでもありません。結局、残された人々がどう感じるかにかかっているのかなと。

死というのは、本人にとっては経験できるものではないし、存在さえしないのです。このことにしっかり気づいていれば、死を恐る必要がないと分かりますね。

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非二元を役立たせたい

ここのところ、ブログやYouTubeで非二元のお話をするようになってしまっています。その理由は、自分自身がそれを楽しいと感じるからですね。

自分の口から出てくる言葉を、ダイレクトに自分の耳で聴きながら、ああそうなんだあといった感じで面白がっているのです。

しかも、そうしたことを繰り返していくうちに、少しずつですが非二元が口先だけでなく奥深くに浸透してきている感じもするのです。

それだけでもとても嬉しいのですが、気がつくとセラピストの目線でその内容を捉えている自分もいるのですね。

というのも、非二元の話の内容がそのままより良い生き方を目指す上で、とても参考になると気づいたからです。

一番大きいのは、今あるこれが全てであり、これ以外はない!ということです。このことが全面的に気づけば、期待がなくなるのです。

これよりももっとマシな何かがあるはず。この考えが、生への抵抗となってそれこそが苦悩を作り出すものなのだと。

期待と現実との落差が苦しみの元だと気づけば、今あるこれだけがリアルで、そこにゆったりとい続けるだけでいいのだと。

今ないものはない、あるものだけがあるのだと。このシンプルさの中に委ねていられるなら、きっと生の味わいは激変するでしょうね。