自分は個人じゃなかった、体験そのものだった

そうなったら、どんな瞬間であろうと、そこで何が起きていようと、それはもう受容以外がなくなってしまう感じがする。

これ、なかなか敷居が高いなと思っていたのですが、どうも個人のままでもその感覚をちょっとだけ得ることはできるなと。

もちろん自我がいるので、このままでは済まないのは分かっているのですが、それでもこれはかなりいい感じのヒントにはなるなと。

非二元によって、体験主体と体験と体験される対象の三つ巴だったものが、そのうちの体験主体と体験される対象が消えて、体験だけが残るのだと。

つまり、しつこく言い続けて来た「体験だけがある」というところに落ち着くのだけれど、それは純粋な気づきとイコールだったんだなと。

正確な表現ではないけれど、本当のわたしは全ての体験の受け皿だったんだという感じがするのですね。

別の表現を使うと、あらゆる体験が起こる空間、あるいはダグラス・ハーディングの言い方をすれば、体験が起こる受容能力だったと。

この気づきは本当に大きいかもしれません。

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個人という嘘に気づけばいいだけ

最近になって、ようやく「非二元」という言葉の意味がはっきりと分かるようになってきましたね。

これまでは、物質には実体がないということに気づいた時には、これって世の中では何と呼ばれている世界観なんだろうなと。

それでふと思い出したのが、非二元だったのです。10年以上前に非二元のスピーカーさんらの本を何冊か読んでいたので、ピンときたわけです。

けれども、自分が体験したことが本当に世の中で言われているような非二元とマッチしているのかどうかは定かではありませんでした。

それでも、何かコレに名称をつけないといけないということで、非二元が一番近いのかなと思ってそう呼ぶことにしたのです。

ところが、深く探っていく間に、コレこそが非二元だったのだなということに気づくことができたのです。

そしてその感覚も明確になりました。今では「何もない!」というところに重きを置く代わりに、常に気づいている気づきの方が主役なんだと。

少し前までは夢も希望もなく、殺伐としてしまったなと思っていたのですが、今は完全に救われていることが分かります。

こんなにコロコロ変わってしまうのも問題かなとも思うですが、でも仕方ありません。実際にそうなのですから。

苦しみから解放されるために

ブッダの言葉なのか、仏教の教義なのか分かりませんが、「人生は苦しみだ」というのがあると聞いています。

私も全く同感であって、だからこそそこから脱出するために瞑想をしてみたり、色々な探究を続けてきたわけです。

心の癒しというのは、あまりに苦し過ぎる状態からごく当たり前の苦しみのレベルにまで戻ってもらおうとするものなのですね。

セッションを通して苦しみがなくなるということは期待していませんし、いいことばかりが起きるようになるなんてこともありません。

癒しというのは冷静になっていただくためのもの、探究を始めるための下準備的な位置付けなのです。

もちろん癒しだけで人生が終わってしまっても、何の問題もないのですが、その先があると感じている人にとっては、まだ探究が残っていると感じるわけです。

その場合の目的とは、真理の探求というよりは、真理に目覚めることで個人として生きている我々の終わることのない苦しみを消滅させることなのです。

それは分離という幻想からやってくる、不安や孤独感、そしてそこから派生する比較による苦しみ。こう言ったものが本当はなかったと見抜くこと。

長らく覚醒することを目指していたのですが、それに代わって上記のように幻想からくる苦しみを解放できればいいなと思うようになりましたね。

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自分を身体だと信じているフシがある

非二元の気づきによって、物質の実体はないということが明確になったのです。ということは、自分の肉体も同様にその実体はないのだと。

ただその見かけ、現れだけがあるということです。そう言えば、この身体の形が瞬間ごとに変化しているのが分かります。

その自己イメージとは違って、首から上は常にないのです。自分は人間ではないので、別にどうってことはないかと。

そのくせ、身体の中にいるという感覚がなくならないのが不思議なのです。この身体には通常背中もないので、中に入るような容器の形をしていないのです。

そう言えば、イメージで身体の中に、ふわっとした塊のようなものとして自分(の魂)が存在している感じがあるかもしれません。

視覚を意識すると、目の奥の脳の中にいるという感覚もやってきたりします。どれもイメージ、観念でしかないのは明白なのですが。

身体の中、あるいは近くに自分はいると感じているのなら、自分のことを物質だと信じていることになるわけですね。

そうじゃないと言っている自分もいるようですが、物質でなければ位置や大きさがないので、移動もできません。

そうなると局所性が消えてしまうので、私の経験とあなたの経験が違うなどというトンチンカンなことも言えなくなるわけです。

ではなぜ自分は、物質である身体といつも紐づけられているのか?こう言ったことを、一つひとつゆっくりと解いていくのがとても楽しいですね。

荒削りだったけど…

この仕事を始めた頃ですから、かれこれもう20数年前になりますが、なぜだかわかりませんがふと思ったことがあったのです。

それは、「存在」ってなんだろうということです。元々そういうことを考えることが好きだったのが、きっと会社員の頃と比べて格段に時間や気持ちに余裕ができたからなのでしょうね。

そして自分なりに出した答えは、「存在とは知覚すること」だったのです。その時は、我ながら的を射た答えだなと。

今から思うとだいぶ荒削りな感じがしますが、それでも外側の世界にある物質というのは自分の知覚とくっついているということを見抜いていたわけです。

今ではそれがもっともっと明確になったし、もう少し精度を上げて表現すれば、知覚と物質の見かけ(現れ)は一つものだということです。

つまり、物質の存在というものはなかったということになります。さらに言えば、知覚は気づきと同義語なので、結果として存在とは気づきだったのだと。

もう一つ、面白いことを思い出しました。その頃、とある女性のクライアントさんとそんな話になったのです。

もうその人のことは完全に忘れてしまったのですが、その人に我々の本質ってなんだと思いますか?と質問したら、意識だと答えたのです。

ついでに、ものの存在ってなんだと思いますか?という質問に対しても、知覚することだと答えてくれたのです。

そういうことに直観的に気づいている人っているんですね。

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今の自分にやれることをやるだけ

非二元の探求をやっている時に、最後まで残る矛盾というのがあるのですが、それは誰もいないのに誰が探求をしているのかということです。

このような問いが浮かんできた時に、いくつか言えることがあるのですが、一つは非二元というのは単なる概念だということ。

二元の世界で生きているつもりになっている自分からすれば、非二元というのは概念に違いなのです。

それと二元の世界で生きているつもりになっているわけですから、今自分がいる場所からスタートさせなければなりません。

だから、この自分がいると思える限りにおいては、いる場所から探求を開始する以外に方法がないのです。

それ以外に方法を思いつくことができないのですね。そして結局のところ、探求しているこの私がいる限り、真実を体験することはできません。

なぜなら、この私は幻想の世界の住人だからです。ここにも大きな矛盾が存在していますが、だからと言って諦めるわけにはいかないのです。

そして最終的には、今の自分に解決の目処がつかなくても、いずれは自然の成り行きによってこの世界の全てが気づきそのものだったという地点に行くことになるのかなと。

非二元で視点がないとは?

非二元の話の中で、時々出てくる事柄として「視点がない」というのがありますね。いやいや簡単に言うけど、視点なき視覚なんて想像を絶するけどと思われても仕方ないことです。

でも色々調べていくうちに、やっぱり視点はなかったんだなというところに落ち着いてしまうのです。

というのも、この二元の世界では自分という主体が外側に広がっている空間内に存在する対象物を見てるという感覚があるわけです。

だから、どう考えても何かを見る時には、この身体、この肉眼が存在する場所から向こう側を見ているので、そこには視点が必ず存在すると感じるのです。

けれども、もしも視覚という経験が起きている時には必ず気づきも同時にあるという点に気づけば、今度は気づきの視点へと移行できるのです。

それなら気づきの視点がどこにあるのかを見てみると、気づきには位置というものが存在しないのは明白です。

その結果、我々が日常的に感じている視点が妄想だったことがバレて、代わりに主体として対象物を見ていた自分も、気づきの視点からすれば一種の対象となってしまうのです。

この瞬間、気づきと視覚(経験)と対象(現れ)のすべてが一つモノであったんだと。これが非二元なのですね。

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比較がなければ苦しまない

私たちは1日のうちで一体どれくら比較ということを繰り返しているでしょうか?きっと予想よりはるかに多いのではないかと思うのです。

比較にもいろいろありますが、たとえば、自分の期待値と現実の比較。これは、その落差が惨めさに繋がるのです。

あるいは、自分の内面においての理想の自分像と現実の自分の比較、これは単に惨めなだけではなくて確実に自己否定が発生します。

そして一番多い定番としては、自分と他人の比較です。外見から始まって、学校の成績や運動能力。

学歴や裕福さ加減だったり、所有物や身につけるもの、職場での評価や場合によっては互いのパートナーでさえ比較の対象になったりします。

そしてなぜ比較をすると苦しみが生まれるかといえば、どんな人であれあらゆる比較で希望通りの結果になるなんてことは決してないからです。

比較によって都合のいい結果が出ると、一時的な安心を得ることはできるのですが、幸せになるというわけではありません。

それならそもそも比較をしなければいいのですが、そこはなんと言っても不安を解消して安心したいという気持ちが強いので、おいそれとやめられないのです。

もしもあなたが抱えている不安をそのままにして、傍において相手にせずにいられるなら比較をする頻度が減ってくるはずです。

そうなったら、日々抱えている精神的な苦しみの多くは消えていってしまうはずですね。生に抵抗することをやめてしまうことでも、比較は影を潜めてしまうでしょうね。

全ては無駄ではなかった

非二元の気づきがやってくるまでの間、結構長きに渡ると思うのですが、ずっと純粋な意識こそが自分の本質だということを言ってきました。

その本質に気づくために、瞑想を続けてきたのですね。瞑想によって、マインドの奥底に隠されている真の自己、つまりは気づきに気づけるかもしれないと。

そのことによって、自我としての自分の苦しみから永遠に解放されるはずだと信じていたわけですね。

ところが、そこに非二元の気づきがやってきて、それはもう驚愕の事実だったのです。自分の正体が気づきだということよりも、この世界この宇宙が丸ごと幻想だと気づいたのですから。

そうなったら、もうそのことをただ追求していきたくなって、瞑想もやめてしまいました。癒しの仕事は問題なく続けて行くことができたのですが。

そして、全てが現れであって、それへの気づきが常に共にあるのだと。ただここで、ふと気づいたのです。

あれ、これって一周して戻ってきたんじゃないかなって。そうなんですね。瞑想をして気づきに気づこうとしていたのは間違っていなかったんだと。

そんなわけで、この一周は自分にとってとても大きな経験になったように感じています。非二元の気づき前と後が融合したみたいな感じです。

全ては無駄ではなかったということです。

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「気づき」によって救われる?

意識というのは、脳の機能によって作り出されるモノだと、きっとほとんどの人はなんとなくそう考えているのでしょうね。

脳、つまりは身体の一部によって生み出されるモノということです。だから、身体が自分の一部だと感じても不思議ではありません。

その一方で、意識というのは物理的な身体や精神的な心などを超えたところにある何かだと感じている人も中にはいるはずです。

私はこれまでずっと後者の感覚を持って生きてきました。もちろん今もそこは変わらないのです。

そして今ではもう確信になってしまっています。ただ、意識という言葉にはさまざまな意味合いが込められていて、間違った意味で伝わってしまう可能性が高いのです。

だから、今は敢えて意識という言葉よりも、「気づき」という表現の方を選んで使うようにしています。

たとえば、非二元的なことを言えば、今ここにあるコレというのは、全てが現れであると同時に、それへの気づきでもあると。

目の前にあるリンゴを見て、そこにリンゴがあると分かるためには、気づきがどうしても必要となるのです。

目で見るという視覚だけでは、リンゴを見ているということに気づくことができないからです。

人間以外の動物には、この気づきがないので、ワンちゃんは今目の前にある餌を食べていると自覚することはできないのですね。

我々も何かに夢中になっていたりすると、いわゆる無意識状態になってしまうので、気づきはあるものの気づいていない状態に一時的になるわけです。

逆に、私はただ在るということに気づいていられるなら、幻想から脱出して自分の真実に戻ることができるかもしれないですね。