「自己」ありきでは気付けないことがある

自分がちょっとした気づきを体験したことから、YouTubeや書籍などで覚醒や悟り関連のものをよく見るようになったのですが。

そのどれもが、ほとんど全てと言っていいかもしれませんが、「自己」ありきのことを言っているなあと。

ちょっと前までであれば、なるほど自分もそうなれたらいいのになあという感覚で視聴していたのですが…。

今や全滅です。それほど、「自己」という幻は強力だということです。なんだかんだ言って、自己は様々な形となって残るのです。

これって、気付けないのですね。自分もそうだったのでよく分かるのですが、もうそれは仕方のないことかもしれません。

なんだかそっちの方が幸せな感じがしないでもないのですが、幻想の中での話なのでやっぱり違うなと。

私を含めて誰もいないのに、誰もいないという気づきが起こることが不思議です。これは、気づきに主体はいらないということなんでしょうね。

このことは、「自己」ありきでは、決して気付けないことかもしれません。自己は常に主体を前提にしているからですね。

「真の自己」なんてない

生まれてからずっと自分とは一人の人間なのだと思い、それを信じ込んで生きてきたのです。当たり前ですけど。

ところが、いつの間にか自分を個人だと思い込んでいる自分を「自我」と呼ぶようになり、そこから自我を見つめるようになったのです。

そうしたら自我こそが、苦しみの作り手だと分かったのですね。その頃から、自分の中には個人としての自分だけでなく、もっと無限に広がった感覚があると気づいたのです。

それのことを「意識」として見るようになって、自分の本質は自我などではなく、意識なのだということに目覚めたのです。これこそが、真の自己だと。

自我は思考であり、その思考が鎮まった時には、ずっとあり続けている意識だけがクローズアップされるようになったのです。

そして、どんな時であれ意識の方に注意を向ければ、全体性と呼ぶようになったあの気持ちの良い感覚があることにも気づくようになりました。

自我から外れて、意識へと軸足をシフトして行くことで、自ずと苦しみや不安から解放されるのだろうなと、そう思って瞑想などをライフワークとしてきたのです。

ところがです。この現実の本質には、実体というものがないということに気づいてしまってからは、これまでの流れが急に止まってしまいました。

というのも、個人という自我から意識という全体性へと変遷したとしても、それはあくまでも「自己」ありきだと分かったからです。

自己という実体はないという気づきは、もう決定的であってそこには個人も全体性も何もない、あるのは「これ」だけ。

「真の自己」なんてどこにも見つけることができないとなったのです。なるほど、そう来たかあ…。

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何も知らないし、誰もいない

知ってると思い込んでいたことが、実はまるっきり知らなかったと気づいてしまうと、もう諦めしかないですね。

そして、知っていることは何もないということになって、これはもう赤ちゃんと何も違わないということ。

知っていると思っていたことは、思考によって作り込んでいただけ。それはそれはリアルな感じがするので騙されるのです。

逆に、実体のないこの世界で何か知り得るものが一つでもあるのかと考えると、そんなものは全くないということになるのです。

何も知りようがないということを新たに知ったということでもあります。それで最後はここに戻ってしまいます。

つまりは、何かを知ることができる誰もいないということ。誰もいないのに、幻想は起きた感じがあるということです。

苦しみも喜びも起きてくる感じだけはあるのですが、当然そんなのは誰のものでもないということなので、安心ですね。

ないものとないものを比較してみたり、いない人といない人を比べてみたり、そのバカバカしさは相当なものです。

善も悪もないし、正誤もないし、新旧もないし、過去未来もない。今ここに生きるというけれど、今もここもありませんね。

もっといい◯◯があるという幻想

ある本を読んでいて、急に笑いが込み上げてきてしばらく笑ってしまったということが起きたことは先日お話ししました。

その笑いの原因となるものとは、「もっといい◯◯がある」というのは幻想に過ぎないのだということに気付かされたからなのです。

もっといい考えがある

もっといい暮らしがある

もっといい生き方がある

もっといい自分になれる

もっといい人に会える

もっといい場所がある

こうした無意識に求めていたものが、丸ごとそんなことは決してやってこない、ということを思い知らされてしまったのです。

いったい自分のこれまでの努力はなんだったんだろう?という思い、そのなんとも馬鹿馬鹿しい限りというのが滑稽に感じたのですね。

ここから、必要以上に求めない、必要以上に望まない、必要以上に期待しないという態度が育っていってくれたらいいかもなあと。

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自分の苦しみは自分のものじゃなかった

あらゆるものがひっくり返ってしまったような、全てがその土台から転覆してしまったような感じがしているのですが。

これまで自分が知っていると思っていたことの全てが間違っていたというか、本当は知らなかったということのようで。

きっと、子供の頃だったら学校の友達には決して言えなかっただろうし、社会人になっても職場の人たちには言えなかっただろうなと。

誰にも相手にしてもらえる筈はないし、悪くすると一度病院に行って診てもらった方がいいと言われてしまうかも。

それを想像すると、今はどんなことであろうとこうしてブログに書いたり、動画で表現したりできるというのがありがたい。

ただ私のことを知らない人が、こうしたブログを読んだり動画を観たりしたら、セッションの予約をする気になるとは思えない。

これもまた仕方のないことではあるし、少し前までのスピリチュアル好きの自分に戻れるわけもなく。

逆により一層、この現実の本質を見れば見るほど、元々いない自我の影響力がゆっくりと小さくなって行くのかなと。

嫌いな身体の不調や痛みなども、この自我の所有物ではないということが分かってきて、少しは楽になるのかなと。

モノが見えるとは?

モノが見える原理というのは、学校で習ったことがあると思うのですが、アレってどこまで信じていましたか?

私は100%信じていましたね。割と最近までそうでした。ものを見る時に必要なのは、光です。光の正体を皆さんはご存知でしょうか?

光というのは電磁波の一定幅の周波数のものです。その光の中でも可視光線と言われる周波数の光だけを人間の目は使うのです。

ものに当たって反射した可視光線が人間の網膜に入り、そこで三つの色に反応する神経細胞が刺激され、それが電気信号へと変換されて、脳へと送り込まれるのです。

脳はその信号をなんらかの方法で変換して、ものを見るということが実現するわけです。そうやって、あの鮮やかな赤とかを感じるのです。

そう、いきなり電気信号からあの赤が生まれるって、にわかには信じがたい気がしませんか?科学は今もって、そこを説明できずにいます。

私の中で、今やそこは完全に却下されてしまいました。ものを見るのに、肉眼はいらないということになったのです。

奇想天外なのですが、じつは本当なのですね。視覚というのは、ものを見るという行為のように扱われますが、本当は違います。

視覚というのがそのまま単独で起きるのですね。誰かが何かを見ているというのは妄想なんです。誰かも何かもありません。

ただ見えているという実感だけが起きているわけです。それ以外は何もありません。シンプルだけど、シンプル過ぎますかね。

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やりたいことが見つからない?別にいいんじゃない。

子供の頃から何に対しても、興味を抱いて熱くなって取り組むというのが自分には無かったなあと思うのです。

それでも、きっと大人になるに従って自分が本当にやりたいと思えるようなことに出会うはずだという期待も少しはあったはずなのです。

それが、いつになってもそんなものは一向に現れないし、とは言っても時間は待ってくれないので、仕方なしに会社員になる道を選んだわけです。

自分はこんなようなことに向いているのかなあとか、これは面白いと思って一生やっていけそうと思ったりしたこともありましたが、何であれすぐに熱は冷めてしまったのです。

20年以上前に会社を辞めて、今の仕事をするようになってやっと一生向き合っていける仕事が見つかったと思ったのです。

けれども、それはそうかもしれませんが、じゃあお金が10億円あっても続けるかというと、そうでもないのかなと。

結局、本当にやりたいことは見つかってはいないのではないかと。きっとそういう人生なんだろうなと思うのです。

そしてそれが悪いことだとも思わないし、やや生きるということに絶望しているというところもあるようです。

だからなのか、生まれたこともないし、一度たりとも人生を生きたこともないという、そんな全てがひっくり返るような現実の本質に出会ったのかなと。

非二元の気づきによって、明日への期待が確実に小さくなってしまったように感じています。自我にとってはいいような悪いような。

ああ、言いたいことがまだ言えてなかったです。今日、言いたいことは本当にやりたいことなんか見つからなくてもいいよってことです。

そんなことに悩む必要なんてまったくないということ。生きてるつもりになってるだけなのでね。

「視点がない」ってどんな感じ?

ある人の動画を見ていて、非二元では視点というものがないという話を聞いて、ああ確かになあと思ったのです。

ものがなくて、実体がなくて、ということは自分の肉体もないわけで、そうなると自分の肉眼もないので、見る視点というのはないということになるのですね。

で、それはそうなんだろうとは思うものの、じゃあ一体視点がないってどういう感じなんだろうなあと、いつものように疑問を感じるわけです。

この2〜3週間、そのことについてずっと気になっていたのです。それが、ヒョンなことから解決してしまいました。

それは、もう10年以上前になりますが、ダグラス・ハーディングという人の本を読んで、その中に書いてある実験をやった時のこと。

突然、自分の首から上の部分、顔や頭の部分が消えてしまうという体験をしたことがありました。このことは、動画にも挙げたことがあります。

その状態になると、身体(特に頭)の内側から肉眼を通して、外の世界を覗いているという感覚が消えてしまうのです。

ここから外を見てる自分がいるという感覚がなくなって、外側と内側の分離も消えてしまい、ただ視覚だけがあるという感じになるのです。

視点がないって、ああこれだったんだなと。ダグラスさんは、非二元ということは一切言ってないのですが、色々今後も参考になることはありそうだなと思っています。

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身体からやってくる感覚について見てみる

我々は、ご存じ五感というものを頼りに生きています。視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚ですね。多くの人にとって、とりわけ視覚は大きな要素になっています。

ところで、本当に知覚というのは上記の五つだけでしょうか?じつは私にとっては、視覚と同じくらい大きな別の感覚があると感じています。

それが体感覚です。つまり、身体からやってくる様々な感覚のこと。皮膚からやってくるもの、筋肉から、内臓から、筋から等々。

目を閉じていることが多いということもあるのかもしれませんが、あるいは内的世界で生きてきたという思いもあるので、より身体の内側に意識が向きやすいせいもあるかもしれません。

いずれにしても、年がら年中この体感覚の嵐の中で生きているという自覚を持っているのです。それなのに、いわゆる五感のことばかりが言われていることに違和感を覚えていたわけですね。

で前置きが長くなってしまったのですが、この体感覚はこの身体からやってくるという想定がされていますね。

けれども、それって本当なのか?というのを見つめてみたところ、想定するということ自体が事実ではないということだろうなと。

じゃあどこからやってくるの?となるのですが、ここでも「どこ」を常に考えてしまうのは単なる癖なのだと。

結局のところ、この体感覚というのがただ在る感じがしているということだなんだろうなと、そういう結論になるのですね。

自我はなんでも所有する

所有というものは単なる概念に過ぎないということは、以前にもお話ししたことがあったと思います。

人との関わりの中での所有というのは、単なる契約、約束事です。これは自分の時計だとどれほど主張したところで、ほかの誰もそれを認めてくれなければなんの意味もありません。

また、個人としても自分の身体、自分の知覚、自分の気分、自分の思考、自分の経験などのように多くのものを所有していると思い込んでいます。

自我が確固とした個人として生きていると感じるのは、このようにたくさんのものを所有することで、自分を膨れ上がらせてきたからです。

ところが、この所有というのはあくまでも概念であって、真実ではないのですが、これがなかなか受け入れられないのですね。

たとえば、いつもすぐそばに見えている身体がありますが(もちろん、この身体というのも概念なのですが)、この身体は間違いなく自分のものだと思っているのです。

けれども、自分の所有物だという証拠はあるでしょうか?先入観なしにじっくりみていると、自分の身体だというのが、勝手な妄想だと気づくかもしれません。

そうやってあらゆる所有という妄想を外していくと、いったいどうなるのかを一度ゆっくり見てみるのも面白いかもしれないですね。

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