得難いものを得ている

友人の死を目の当たりにして、いつもよりも深く自分の死を見つめることができて、少しだけ生きる感覚が変化した感じがしました。

死をリアルに感じようとすればするほど、今この瞬間の生というものが有難いもの、得難いものを得ているという感覚になったのです。

そうなると、当然のことながら感謝のような気持ちが溢れてきますね。初めのうちは、今の仕事をするようになってからの人生への歓びがきました。

そのうち、自分にとって都合のいいことも都合の悪いことも、分け隔てなく全部丸ごとがプレゼントなのかもと。

更にいえば、ああやっぱり人生という物語は夢のようなものだなという感覚。不確かで、何一つ残るものがないのですから。

どんなに激しい夢であっても、朝目が覚めれば消えてしまうのと同じこと。身体から解き放たれて本質に戻れば、全ては夏の夜の夢と同じ。

若い頃はほとんど不可能に近いことかもしれないけれど、自分の死としっかり向き合うことのメリットは絶大です。

今日、亡くなった友人の最期の顔を見にご自宅まで押しかけてきました。ただ穏やかに眠っているようで、もうすでに本質に戻ったのかなと。

死を否定的に捉えない

大学時代の友人が今朝亡くなったという連絡をもらいました。長いこと気丈に病気と戦っていたのを知っていたので、気持ちは複雑です。

まだ死ぬには若いので残念と言う気持ちと、身体の痛みから解放されて良かったという気持ちの両方があるからです。

私は死と言うものをあまり否定的に捉えないので、ほかの友人達の反応と少し違うのかもしれません。

考えてみれば当然のことですが、私たちは誰もがいつも死を突きつけられた状態で人生を生きているのです。

それなのに、恐怖のあまりにそれを見ようともせず、死ぬのはいつも自分以外の誰かだとして向き合おうとしないのです。

だからいざとなった時に、慌ててしまったり絶望的になったりするのです。自分の場合はどうなのか、本当のところは分かりません。

けれども、もしも自分が死を受け入れることができたなら、その時にはいかに死に行くかに焦点が当たるようになると思います。

つまりは意識的に死ぬと言うことに全エネルギーを集中したいし、あわよくばその姿が誰かの役に立てばもっと嬉しいと感じます。

肉体から離れて、まだ少し自我が残っている状態で、色々と悪戯をしに回ろうと思っています。すぐに全体へと吸収されたら、もったいない気がしますので。

去り行く雲を見続ける

空一面が雲で覆われているような曇りの日であっても、その雲の向こう側には青空が広がっていることを私たちは知っています。

けれども、あまりに雨天が続くような時には、本当に青空があるのだろうかと疑いたくなることもありますね。

雲が思考だとすれば、青空は意識だと言えます。私たちがこれが自分だと思い込んでいる自我は思考の塊です。

つまり、雲を自分自身だと思っていて、その奥に隠されて決してなくなることのない青空こそが本当の自分だということを忘れているのです。

雲は常に行ったり来たりして、時にはその雲は小さくなって青空がしっかりと顔を覗かすこともあります。

晴天の時には雲がなくなり、青空だけが残る。私たちが知っている自分の死とは、雲がなくなることを言うのです。

日頃から決してなくなることのない青空(意識)こそが自分の本質だと気づいているなら、自分には死はやってこないと言うことになるのです。

これは知識として持っていても全く役に立つことはありません。いかに雲の隙間から見える青空に意識を向け続けていられるかが勝負です。

自分の最期に、去り行く雲を見続けていられるように今から準備しておきたものですね。

意識は病気にならない

高齢になって認知症になった母親を見ていると、新しく何かを学ぶということが全くなくなってしまったのが分かるのです。

短期記憶がなくなってしまったので、それは無理もないことなのですね。永久記憶領域に保存されている記憶については、まだまだ使えるのですが…。

もしもあなたが将来認知症になってしまったとしたらどうしますか?今の医学ではどうしようもないので、諦めるしかない?

私はそんなことはないと思っているのです。というのも、記憶というのは便利なものですが、単に思考が使うものなのです。

つまりあなたの意識はたとえ認知症になったとしても健在なままなのです。意識は病気になることがないからです。

何が言いたいのかというと、常日頃から意識的であることを心がけつつ生活しておけば、認知症になっても自覚が揺らぐことはないのです。

母親の場合は、残念なことに無意識的に生きてきてしまったために、いざ意識を使おうとしてももう間に合わないということです。

これは仮定の話しでしかないのですが、十分に意識的である人はもしかしたら認知症になる確率が低くなるのではないかと密かに思ってもいます。

理想を現実の世界に持ってくるな

子供の頃のことですが、理想の両親、理想の兄弟を勝手に作り出して、その家族の妄想の中で楽しむということをしていたことがありました。

それは大抵夜寝る前に布団の中で一人密かに楽しむのです。あまり夢中になってしまうと眠れなくなるので、ほどほどにして寝るのです。

けれども、その妄想は現実の家族とは違うものでしたので、それを追い求めるということはせずに済みました。

妄想の中で理想を作り出して楽しむのは別に悪くはないと思うのですが、理想を作って現実の中でそれを目指すとなると、事態は変わってきます。

というのも、理想の自分、理想の環境などを設定して、それを目指して生きてしまうと、間違いなく困難な人生が待っています。

それはそうですよね。理想とは程遠い現実からスタートしようとするわけだから、自分に対して厳しい評価をするようになるからです。

理想に到達できない自分を責めるし、あらゆる点で自分がダメ人間のように感じるだろうし、罪悪感にも苛まれることになるのです。

そしてその理想はいつまで経っても追い求める目標となって、実現することはありません。その間中苦しむことになるのです。

万万が一それが実現したとしても、喜んでいられるのは一時だけであり、また次の目標が必要になることは間違いありません。

月並みな言葉ですが、理想という未来に意識を向ける代わりに、今現在の自分を見つめて受け入れることができれば、それがどんなものであれ満たされることになるのですね。

奴隷のエネルギーを脱ぐ

多くの人にとっては意外かもしれませんが、実はまるで奴隷のようにして生きてきた人がたくさんいるのです。

奴隷というのは、人間としての自由や尊厳を無視されて、恐怖や罪悪感を利用されて相手の言いなりになる状態のことです。

ブラック企業などはその典型かもしれませんね。残業をしても残業代は出ないし、ノルマを達成できなければ虫ケラのように扱われる。

じゃあどうしてすぐにそんな企業を辞めないのかと疑問に思うかもしれませんが、そこにはきちんとした理由があるのです。

それは、幼い頃から激しいコントローラーの親に育てられて、まるで親の奴隷のように扱われてしまった経験がある人は、それを繰り返すということ。

そういう人が自覚がないままに、就職した先がブラック企業だったということがあるのです。これがエネルギーの法則です。

家族の中で、奴隷のように扱われていれば、そうしたエネルギーをまとってしまうことになり、そのエネルギーに見合った現実を引きつけるのです。

だから大人になってブラック企業を選んでしまうことになるのです。それは決して偶然などではないということです。

もしもあなたが人間関係において、何となく奴隷のような立場になりがちだと感じているなら、奴隷のエネルギーを解放するための癒しが必要だということです。

戦えば惨めになるしかない

osho の言葉に次のようなものがあります。

「降伏の中に勝利があり、戦いの中に敗北がある。もしあなたが欲求不満だとしたら、それはただただあなたが必死に戦ってきたことを表している」

降伏、降参、觀念、明け渡し、どんな言い方でもいいのですが、この中になぜ勝利があるというのでしょうか?

その勝利とは一体何に対してのものなのか?それは、自我に対する勝利を意味しているのです。降伏や明け渡しは自我の死を意味するからです。

一方で戦いというのは自我にとっては好都合であり、自我は活性化し続けることができるのです。この単純な仕組みを理解すること。

自我が強く君臨すればするほど、あなたの人生は殺伐としたものとなり、潤いや豊かさなどから遠のくことになります。

なぜなら、自我の根っこにあるものは分離感だからです。あらゆるものは分離しているという思いの中に、自分は個人だという信念があるのです。

分離からは惨めさがやってきて、そこから防衛が生まれるのです。それも必死の形相で防衛をし続けることになり、まさに自我の天国ですね。

自我を敵対視する代わりに、その仕組みや構造を深く理解することです。理解すればもう敵ではなくなるのです。

最終的には自我を手なずけて、その機能や能力だけを使うことができるようになるでしょうね。

小さな持ち場を生きる

osho の言葉で、「あなたはただ、自分に与えられた小さな持ち場で自分の生を生きればいいのだ」というのがあります。

なんだかすごく自分にピッタリの言葉だなと思って、嬉しくなってしまいます。自分は大それた考えが全くないのです。

人の役に立つことをしようとか、世のため人のために生きるなどというのは、私の場合100年早いと感じます。

正直言えば、自分のことで精一杯だからです。自分の本性、自分は一体なんなのか?が分かるまでは、自分を中心に生きるしかないと思うからです。

日本がこの先どうなっていくのかは確かに心配だし、世界中の人が飢えや戦さに苦しむことがないようにと願う気持ちはあります。

けれども、今の自分には正直荷が重すぎて、ただ祈ることしかできないと割り切っています。それが小さな持ち場ということです。

この生で何を成し遂げようとも、自分自身の正体に気づくまでは満足することはないだろうと分かっているのです。

ただしそこに気づいたなら、つまり本質に目覚めたなら、今度は不満は無くなるけれど、満足も消えてしまうことになるのでしょうね。

より自然に、より自由に、より無防備に…

ある時セッション中にクライアントさんから、「大澤さんはクライアントにどうなって欲しいと思っているのですか?」と質問されたことがあります。

1秒くらい考えてから、考えるまでもなかったと思って答えたことが、「より自然に、より自由に、より無防備に生きられるようになって欲しい」でした。

要するに、生後培ってきてしまったあらゆるバカバカしい教えから解放されること。それが癒しの目的なのです。

その教えの中には、親や社会の正しさも存分に含まれています。この正しさ、このルールというのが防衛に使われることになるのです。

私はクライアントさんに人格者になって欲しいとは全く思っていないのです。それよりも心の中で野生を取り戻して欲しいのです。

社会の中にいるためには、それなりのルールを守って順応することも必要ですが、内側では幼い子供のように野生を持っていて欲しいのです。

そうして、社会の中にいながら社会に染まらずにいることが可能になるのです。そのバランスが取れるようになること。

あなたの自我がどんなものであれ、それを十分に注意深く見守りながら生きること。受け容れることでしか、人は満たされないということを忘れないことですね。

何も持って行けない

2ヶ月くらい前からだったと思うのですが、2階の自分の部屋から、かつて父親の部屋だった1階の部屋に引っ越ししたのです。

老齢の母親が夜の間転んだりしないかどうか心配で、夕飯を済ませてからはずっとその部屋で過ごすようになったのです。

いつもソファに腰掛ける生活に慣れていたので、突然ベッドとテーブルと座椅子しかない畳の部屋に移って、バリバリ違和感だらけ。

自分の私物もないので、これは不便な生活になってしまうかもと当初は後悔したのですが、それがそうでもなかったのです。

ベッドは自分の部屋のソファベッドよりも快適だし、考えてみたら夜眠るまでの4〜5時間の間、タブレットとスマホがあれば事足りることに気づいたのです。

要するに夜何もしていないということですね。あれ、じゃあ昼間は何かしているのかというと、スポーツクラブに午前中行くだけ。

セッションの予約が入ってなければ、それこそ本当に何もしないのです。自分の毎日って、何もしない時間だらけだなと。

かつては何か生産的な時間を過ごしていないと、落ち着かないような感覚があったものですが、もうそんなものはすっかり姿を消しました。

どれほどの成果物を残したとしても、あちらに旅立つ時には手の中は空っぽなのです。何も持っていくことなどできないのですね。

今のうちにそのことに気づけてよかったと思っています。