所有と非所有のどちらでもない

自我というのは、所有することによって安心を得ようとする性質を持っています。そこに気づいていますか?

持っていないことが不安であり、持っていることで安心できると信じ込んでいるのです。その安心も一過性のものに過ぎないのですけれど。

いつかこのブログで書いたことがあったと思うのですが、小学生の頃に牛乳瓶の蓋でおはじきみたいなことをして、勝ったら相手の蓋を自分のものにするというゲームが流行ったのです。

思えば、物凄い数の蓋をみんなが持っていて、その枚数を互いに競っていたのです。自分は結構上位の方だったと思います。

それが行き着くところまで行った時に、突然ああもうこういうの嫌だなというのがやってきて、自分の所有する蓋を全部友達にあげてしまったのです。

そして、自分は一枚だけ持っていれば、それで勝負はできるし、万一負けてそれを取られてしまったとしても、その時は借りればいいのだと。

そうなった時の清々しさは忘れることができません。こんなに身が軽いという気持ち、守るべき財産がないという快適さ。

けれども、今思うと所有するという欲望と、それへの反発である非所有という自由さのどちらでもないということが大切なのだと気づいたのです。

所有することになったのならそれはそれでいいし、所有しないことになったのなら、またそれはそれでいいという中立の感覚。

これこそが不二一元論、つまりは中道を生きるということなのですね。

同化を外したい

私たちの誰もが患っているたった一つの病、それは「同一化」です。常に、何かと同化してしまって、それに気づかずにいるのです。

同化をはずすことさえできれば、自分の本質に気づくことになります。では一体何と同化しているというのでしょう?

まずは、自我ですね。私たちがこれが自分だと思っているもの、この個人としての自分を自我と呼ぶのですが、これは同化なのです。

そしてこの同化を継続したままで、他のあらゆるものとの同化も行なっているのです。同化とは、何かと一つになってしまうこと。

思考と一つになれば、思考と同化していることになるし、怒りや悲しみなどの感情と一つになれば、その感情と同化していることになるのです。

同化という病から抜け出すには、たった一つの方法があるのみです。それは、見守り続けることなのです。

ただ見ることによって、同化しているものとの距離ができるために、それが自分自身ではないと気づくことになるのです。

もしもあなたがしっかりと意識的に生きることができるなら、それは自分自身をずっと見守ることを意味するので、自我との同化が緩んでくるのです。

いつかはその同化が外れる日を夢見て…。

一つひとつの行為を丁寧に

私たちが何かを行為するときに、丁寧に行う場合もあれば、雑に行う場合もあります。こうしたことは、動物には基本的にはありません。

それはなぜかというと、意識的かどうかに関係することだからです。動物は常に無意識であり、人間だけが意識的である可能性があるからです。

物事を丁寧に行う時には、自動的に意識的にならざるを得ないのです。その逆も然りで、無意識的に行うと雑になる可能性が高くなります。

例えばクルマに乗った瞬間、気がつくとたくさんの動作をほとんど一瞬でこなしているのですが、無意識的になりがちです。

ブレーキを踏みながら電源スイッチをオンにし、エアコンのスイッチを入れ、シートベルトを締めて、サイドブレーキスイッチをオフにし、ギアをBレンジに入れ、e-pedal スイッチをオンにし、擬似音スイッチをオフにする。

今改めて書いてみて、これだけのことをほぼ無意識でやっているのですから、慣れというのは恐ろしいです。

この慣れが、人を無意識にしてしまう悪者とも言えますが、本当は自分が無意識になりたくて習慣のせいにしているだけなのです。

自我は意識的であり続けられると、自分の正体がバレる危険があるので、なるべくなら無意識的に生きて欲しいと思っているのです。

それはともかく、意識的であるということがあまりピンと来ないという場合には、一つひとつの行為を丁寧に行うように心がければいいのですね。 

ただ自分自身を感じる

毎日生きていると、ただそれだけで様々なことがやってきて、その刺激の中で翻弄されたり影響されたりしながら生が流れていくのです。

そんな中で、比較的ヒマな人もいるだろうし、忙しさに巻き込まれて四苦八苦している人もいるかもしれません。

どんな人生であれ、それが間違っているということはないのです。なぜなら、それが起きたということはそれが起きることだったからです。

ただ、自分にとって都合の悪いことだと思えば、それは決して起きては欲しくなかったと現実を恨めしく思うかもしれませんね。

どんな人生であれ共通して言えることは、ほんの少しの時間で構わないので、ただ自分自身を感じる時間を作ることです。

これはとても大切なことです。そうした静かな時間を持たずにいると、知らぬ間に自分のことよりも起きていることの方にばかり気が向くようになるからです。

大事なことは何が起きたかではなく、そこにいるあなたの存在こそが最も大切なものだということです。

ここを間違わずにいること。そのためにも、一日に一回、心を静かにして意識を内側に向け、ただただ自分自身を感じるのです。

その静寂、その空間こそが自分の本質なのだと気づくことになるはずです。少しずつ実践することをお勧めします。

不可能に挑戦しない

何か物凄い勘違いをしている人がたくさんいるように思うのです。人は、他のすべての動物と同じで天使ではないということ。

私たちが住むこの世界は二元性の世界であり、それは簡単に言えば一つのコインには表と裏が必ずあるという世界。

表しかないコインはこの世界には存在できないということ。つまり、二元性の世界に生きているあなたにも表の部分と裏の部分があるのです。

それは表現を変えれば、自分にとって都合のいい部分と、都合の悪い部分があって、どちらか一方だけということは不可能なのです。

怒らない人になりたいとか、強欲な人からそうでない人になりたいとか思うのは勝手ですが、この二元性の世界では不可能なことです。

明るい部分も持っているけれど、暗い部分もしっかりあるということ。これは絶対的なことなのですね。

この原理原則を忘れずにいること。それをしっかり理解して、受け入れるしかないということに気づくこと。

不可能に挑戦することくらい、バカバカしいことはありません。ここまでしっかり理解することができれば、人格者になろうとする人がいなくなるはずです。

人格者というのは、理想的な人のことではなくて、実を言えばこういった原理に気づいた人だとも言えるのですね。

受け入れれば満たされる

私たちは誰もが幸せになりたいと願っています。その幸せというのが一体どういうものなのかをあまり考えることもなしに。

その漠然とした幸せを求める気持ちというのは、もう少し精度を上げて見てみると満たされたいと願っていると気づきます。

満たされたいというのは満たされてはいないからですね。満たされていないというのは、不平不満、希望が叶えられていないというものです。

満たされようとして誰もがやろうとすることは、一生懸命努力をすることだったり、強く願うことだったり、戦略的に生きることだったり。

つまりは、満たされるためには得ることを前提としているわけです。得ることなしには満たされないと信じているからです。

けれども、心理的なことをじっくり見つめてみると、満たされないというのは状況を受け入れられないからだとわかります。

もしもあなたが受け入れてしまったら、満たされようとする欲望は消えていってしまいます。これがマインドの原理です。

結論として、もしもあなたが誰よりも満たされたいと願うなら、人一倍受け入れるようになればいいだけだということです。

自我にとっては受け入れられないことが山ほどありますが、どうして受け入れられないのかというのを、一つひとつじっくりと検証してみることもありだと思います。

そしてほんのちょっとしたきっかけによって、これまで受け入れることができなかったことでも、自然と受け入れられるようになることもあるかもしれませんね。

思い込みを外すには?

幼い頃からずっと、お前はダメだ!、お前のままではどうしようもない、もっとこうならなければならない、そう言い続けられたとしたら…。

しかもそれが親の怒りのエネルギーと共に突き刺さってきたとしたら、その子はどうなるのでしょうか?

幼い子供であれ大人であれ、自我は自分の存在が危ぶまれるのが最も怖いので、できる限り相手の希望に沿うようになろうとするでしょう。

そうなったら、ああ自分て何てダメな奴なんだろうという固定観念が出来上がるのです。それをずっと信じて生きていくことになるのです。

そんな病んだ親の期待に応えようとして必死に頑張るのですが、大人になったあなたは決してダメじゃないよという言葉を聞いても、そう簡単には受け入れられないのです。

それはなぜなのでしょうか?私が思うに、自分はダメだという思考と自分の存在を同化してしまっているからではないかと。

同化してしまっているので、ダメな自分ではなくなってしまったら、自分が消えてしまうという恐怖がやってくるのです。

だから、安易にそうか自分はダメな奴なんかじゃなかったんだとはならないのです。全ての思考は自分という存在とは違うものです。

自分は思考ではないということをしっかり自覚することができれば、どんな思い込みであれいずれは外していくことができるはずですね。

体験よりも観照者に焦点を合わせる

先日のブログで、この世界の中心はあなたであり、万物はあなたの中を通り過ぎては消えていくということを書きました。

実は、その通り過ぎていくものの中にあなたの体験も含まれるのです。自我のレベルでは、体験がとても大切なものだと思われています。

けれども通り過ぎていくものに真実はありません。真実というのは永久不滅だからです。体験は一過性のものです。

そして体験よりも体験する者こそが真実なのです。もっと正確に言えば、体験する者とは、体験を観照する者のことです。

つまり、観照者だけが真実だということです。あなたが何かを体験しているとき、その体験がどれほど素晴らしいものであろうとです。

体験よりも、観照者に焦点を合わせなさいと osho は言います。この感覚を持って生きている人がどれほどいるのか?

なかなか難しい発想の転換と練習が必要ですね。ただし、このブログで常にお伝えしている、いかに意識的であるかということと連動することでもあるのです。

意識的であるなら、必然的に体験そのよりもその観照者に焦点が向くようになるはずだからですね。

直面か?先送りか?

政治の世界では、特に他国との間の外交問題が起きた時に、よく聞く言葉として「棚上げ」というのがあります。

要するに、その問題をすぐには解決することが難しいので、それを一旦棚上げしておいて、それ以外の外交に取り掛かりましょうということです。

問題は解決してはいないのですが、他国との関係はずっと継続しなければならないので、敢えて取る大人の方法ですね。

私たちは、こうしたやり方を個人的なことにも適用しているのです。とりあえず、この問題は置いておいて…、という方法です。

このやり方を自らのマインドに対して多用してしまうと、思い残しやわだかまり、否定的感情の蓄積といった困った問題が起きてしまいます。

場合によっては、ご自身ではっきりとした自覚があって、来世への先送りがいっぱいあるなどと表現される方もいらっしゃいます。

osho が言うように、恐怖を超えていくためには、それに直面しなければならないし、苦悩を超えるためには、それに直面しなければならないのです。

そんなことを言われても、実際には荷が重いと感じてしまうことが沢山あるのも事実です。だから私は個人的には、棚上げしようと先送りしようとOKだと思っています。

その代わり、ここぞというチャンスが到来したと感じた時には、少し立ち止まって逃げずにいてみようと思ってみるのもありなのかなと。

見方の違い

ものの見方というか視点というのか、そういったものは個人個人で少しずつ違いがあるものかもしれません。

例えばセッションの中で、クライアントさんに対して自分の内側に視点を向けてくださいと言うことがあるのです。

その時に、その意味が分からなくて困ってしまうこともあります。日頃どのように見ているのかによるのですね。

このようなことは、国民性にも大きく影響しているということを最近知りました。日本人と英語圏の人の見方が決定的に違うのです。

日本人は自分がいるところから相手を見るので、そこに自分の姿はありません。ところが、英語圏の人は外側から自分と相手の姿を見ているのです。

つまり、彼らはよく言えば俯瞰しているということです。私たちは自分の国のことを我が国と表現しますが、彼らは our country とは言わないのです。

その代わりに this country というのです。直訳すればこの国という意味になりますが、それは実際には我が国という意味なのです。それだけ視点が異なるのです。

どちらの見方が正しいということでもないのですが、それぞれに良いところとそうでないところとがあるのです。

俯瞰する見方のいいところは、偏りのない全体的な見方ができることです。一方の日本人の見方の利点は、直接的なところです。

ただ残念なことに、私たちは自分の姿が見えないのにも関わらず、そこには相手と同じ姿をした自分がいるというイマジネーションを作ってしまうのです。

その無駄な作業に気づいて、それを排除することができるなら、この世界に個人としての自分はいないということに気づくのです。

それと同時に、この世界全体こそが自分の本質なのだということにも気づくことになるのですね。