体験よりも観照者に焦点を合わせる

先日のブログで、この世界の中心はあなたであり、万物はあなたの中を通り過ぎては消えていくということを書きました。

実は、その通り過ぎていくものの中にあなたの体験も含まれるのです。自我のレベルでは、体験がとても大切なものだと思われています。

けれども通り過ぎていくものに真実はありません。真実というのは永久不滅だからです。体験は一過性のものです。

そして体験よりも体験する者こそが真実なのです。もっと正確に言えば、体験する者とは、体験を観照する者のことです。

つまり、観照者だけが真実だということです。あなたが何かを体験しているとき、その体験がどれほど素晴らしいものであろうとです。

体験よりも、観照者に焦点を合わせなさいと osho は言います。この感覚を持って生きている人がどれほどいるのか?

なかなか難しい発想の転換と練習が必要ですね。ただし、このブログで常にお伝えしている、いかに意識的であるかということと連動することでもあるのです。

意識的であるなら、必然的に体験そのよりもその観照者に焦点が向くようになるはずだからですね。

直面か?先送りか?

政治の世界では、特に他国との間の外交問題が起きた時に、よく聞く言葉として「棚上げ」というのがあります。

要するに、その問題をすぐには解決することが難しいので、それを一旦棚上げしておいて、それ以外の外交に取り掛かりましょうということです。

問題は解決してはいないのですが、他国との関係はずっと継続しなければならないので、敢えて取る大人の方法ですね。

私たちは、こうしたやり方を個人的なことにも適用しているのです。とりあえず、この問題は置いておいて…、という方法です。

このやり方を自らのマインドに対して多用してしまうと、思い残しやわだかまり、否定的感情の蓄積といった困った問題が起きてしまいます。

場合によっては、ご自身ではっきりとした自覚があって、来世への先送りがいっぱいあるなどと表現される方もいらっしゃいます。

osho が言うように、恐怖を超えていくためには、それに直面しなければならないし、苦悩を超えるためには、それに直面しなければならないのです。

そんなことを言われても、実際には荷が重いと感じてしまうことが沢山あるのも事実です。だから私は個人的には、棚上げしようと先送りしようとOKだと思っています。

その代わり、ここぞというチャンスが到来したと感じた時には、少し立ち止まって逃げずにいてみようと思ってみるのもありなのかなと。

見方の違い

ものの見方というか視点というのか、そういったものは個人個人で少しずつ違いがあるものかもしれません。

例えばセッションの中で、クライアントさんに対して自分の内側に視点を向けてくださいと言うことがあるのです。

その時に、その意味が分からなくて困ってしまうこともあります。日頃どのように見ているのかによるのですね。

このようなことは、国民性にも大きく影響しているということを最近知りました。日本人と英語圏の人の見方が決定的に違うのです。

日本人は自分がいるところから相手を見るので、そこに自分の姿はありません。ところが、英語圏の人は外側から自分と相手の姿を見ているのです。

つまり、彼らはよく言えば俯瞰しているということです。私たちは自分の国のことを我が国と表現しますが、彼らは our country とは言わないのです。

その代わりに this country というのです。直訳すればこの国という意味になりますが、それは実際には我が国という意味なのです。それだけ視点が異なるのです。

どちらの見方が正しいということでもないのですが、それぞれに良いところとそうでないところとがあるのです。

俯瞰する見方のいいところは、偏りのない全体的な見方ができることです。一方の日本人の見方の利点は、直接的なところです。

ただ残念なことに、私たちは自分の姿が見えないのにも関わらず、そこには相手と同じ姿をした自分がいるというイマジネーションを作ってしまうのです。

その無駄な作業に気づいて、それを排除することができるなら、この世界に個人としての自分はいないということに気づくのです。

それと同時に、この世界全体こそが自分の本質なのだということにも気づくことになるのですね。

あなた自身でいること

私たちが気づいて実践すべきことは、他でもないたった一つだけ。それは、ただただ自分自身でいようと努めることなのです。

誰かの従順な奴隷になることをやめ、何者かになろうとすることをやめること。あなたはあなたでしかないのですから。

あなたがあなたらしくいることは、とてもシンプルなことなのですが、それがとても骨の折れることになってしまっているのです。

両親からの圧力、社会からの強制、最後は自分自身からも強いられて、結局あなたの中のあなたらしさが奪われてしまうのです。

誰かの役に立とうとすることや、自分の居場所を探す代わりに、十全にあなた自身であればいいのです。

恐怖のあまりに自分を守ろうとして、あなたの中のあなたをどこかへ押しやってしまうのですが、それを止めること。

本当は、あなたがあなたであることを邪魔するものなど、どこにもないのです。身体の力を抜いて、ハートを開くのです。

全体は、あなたがあなたであることだけを望んでいるし、それを絶対的に保証してくれてもいるのですからね。

未来の自分からの声を聴く

人生を生きていれば、誰であろうと必ず今人生の岐路に立っているなあと実感することがあるはずですね。

その時に大抵の場合、憂鬱に感じたり辛いなあと感じることになるのです。それは、自分で1番最良の道を選ばねばならないと思うからです。

要するに間違ってしまうことを恐れるあまり、荷が重いと感じて参ってしまうのです。重圧に負けてしまうとも言えます。

けれどもそんな時、一つやって欲しいことがあるのです。それは、何年後でも構わないので、未来の自分からの声を聞こうとするのです。

未来の自分であれば、もうすでに今を通過した経験者として、落ち着いた感覚で大切なものを伝えてくれそうではないですか?

実際、他の誰の助言よりも未来の自分からやってくる言葉が最も信頼できるのです。どれを選択していいのか悶え苦しんでいても、未来の自分はそれとは全く違く視点を持っているのです。

そして多くの場合、岐路に立っていると言っても、物事はあなたが思っているように複雑ではないと教えてくれるはずです。

本当はとてもシンプル。なぜなら、あなたが正しい選択をするのではなく、そうなることになっている道が選ばれるだけだからです。

あなたに責任はありません。しかも、人生全体を見渡せる視野を持っているなら、正しい選択も間違った選択もないと分かります。

とにかく一度未来の自分の声を信頼してみてください。きっと、何かがストンと腑に落ちた感覚になれるはずですね。

あなたは宇宙の通り道

この宇宙、この世界ではおよそすべてのものが流れているのです。文字通り流れ星しかり、川の流れしかり、あなたの血管を流れる血液もそうですね。

流れていることが自然であって、それがどこかでストップしてしまうと不自然なことになってしまうのです。それは病気です。

もしも川の流れがどこかで滞ってしまうと、水の汚れが酷くなり、終いには腐り出すことになるのです。澱むということですね。

この世界の中心はあなたであり、万物はあなたの中を通り過ぎて消えていくのです。その感覚を大切にすること。

夏がやってきて、やがて秋の到来とともに夏は去っていくのです。つまり、夏があなたの中を通り過ぎたわけです。

その時に、ああ夏が行っちゃうのが名残惜しいとなるのはいいのですが、それでも潔く手を離してあげることです。

あなたの中を通り過ぎるどんなものも捕まえたりしないこと。悲しみがやってきたら、逃げずにそれを見守ること。

それを握りしめたりせずにいれば、自然と通り過ぎていくのですから。怒りについても同じです。捕獲しないこと。

やってきたものを隠したり小突き回したり、責めたりせずにただ過ぎ去るのを悠々と待つことです。それが自然だからです。

その時、ああ自分はただ宇宙の通り道なんだなと気づくのです。そうなったら、いかなる執着も他のものと一緒に流れていってしまうでしょうね。

進歩も後退もない

若い頃から、「3歩進ん2歩下がる」という言葉があることは知っていたのですが、どこかで自分には無関係だと思っていました。

せっかく3歩も進んだのだから、2歩下がるなんてありえないと思っていたのでしょう。何歩であろうと、進んだ分を奪われたくないということです。

しかも、奪われることはないとも思っていました。ところがです。年齢を重ねていくうちに、あれ待てよ、となってきたのです。

なんであれ、一直線に進み続けることなんてないのかもしれないと思うようになりましたね。もちろん実体験からです。

たとえば、何かを深く知るようになると、それまで気づけなかったことに気づくようになるために、新たに知る必要のあることが見えてくるのです。

それは後退しているわけではありませんが、キリがないなあということに気づいてちょっと大変だなと思うのです。

癒しについても同じようなことが言えます。セッションを通して、様々な気づきがやってくるのはいいのですが、その周辺がより鮮明に見えてくるのです。

そうなると、新たに癒すべきところが増えてしまったという感じになったりするのです。場合によっては後退したと感じてしまうかもしれません。

私は後退してるわけではないと知るに至りましたが、それでも感覚的にはそう感じてしまうのは仕方のないことですね。

癒しを進めるという表現をつい使ってしまいますが、実際には培ってきたものを手放していく作業なので、元に戻していく作業という方が正確です。

そこに気づくことができれば、進むとか後退という概念とは無縁だと分かって、ちょっと気持ちが楽になるはずですね。

どこにも行き着かない

以下の osho の言葉をしっかり胸に刻んでおきましょう。

『生はどこでもないところからどこでもないところへの旅だ。それを通して達成されるものは何もない。誰ひとり、生を通して何かを得た者はいない。

人々は走る。疾走する。そしてどんどんスピードをあげてゆく。が、彼らはけっしてどこにも行き着かない。』

私たち(自我)は、より早く、より強く、より高く、より賢く、より多く、より正しく、という戦いにいつも挑んでいます。

このままでいいとは決して思っていない証拠です。昨日よりも今日、今日よりも明日という具合に進み続けようとするのです。

ところが、osho が言うように生はそれを通して達成するものなど何もないのです。本当は誰もがそのことを知っています。

知っていながらそれを認めようとしないのは、自我にとっては走り続けなければ底なし沼にズブズブと沈み込んでしまうと恐れているからです。

実際前へ進んでいる気がしなければ、自我は憔悴してしまうのです。自分はまだまだイケると思ってはいませんか?

いやいや、どこへも行く所などありません。それを腹の底から認めることができるかどうか、そこには大きな気づきがありますね。 

意識的であれば思考は入れない

思考がグルグル回り続けて止めることができずに困っている人が沢山いますね。思考に抗うことはとても難しいものです。

それが困難であるのは、思考を止めようとするからです。思考を止めようとすればするほど、ラッキーとばかりに思考がやってきます。

その理屈を理解する必要があります。それは、思考を止めようとすること自体が思考だからです。意志というのは思考の一部なのです。

だから自分の力で思考を止めようとすることをまずは諦めること。その上で、思考が寄り付けない状態になればいいのです。

あなたが充分に意識的であるとそれがバリアのようになって、思考はあなたの中に入ることができなくなるのです。

もしも瞑想をするとしても、心静かに座して目を閉じて…、のような型にはまったやり方にとらわれる必要はありません。

もっと自由に、例えばいつもより少し目を見開くような状態にして、あなたが今いる部屋の周囲の音に耳を傾けるのです。

見開いた目は、どこを見るでもなく部屋の宙に向けていればいいです。目よりも耳に意識を向けた方がうまくいくかもしれません。

そしてもしも思考が忍び込んできたら、それをただ見る側になっていることができれば、いずれは出ていってくれます。

人それぞれ好みが違うように、自分に合ったやり方を模索するといいと思います。いずれにしても、意識があなたを救うのです。

自我の不思議

もしもあなたに、たった今完全なる満足、とてつもない充足がやってきたとしたらどうなると思いますか?

すぐには想像できないかもしれませんね。私自身もその感覚がはっきりとは分からないというのが正直なところです。

けれども、20年以上にわたって自我を見つめてきた経験からすると、自我が崩壊することは間違いないでしょうね。

自我を支えているマインドの思考群が、一つにまとまっていることができなくなって、溶けていってしまうのです。

それはまるで一滴のインクを水の中に垂らしたような感じで、すぐに水の中に広がってインクは溶けて消えてしまうのです。

なぜそんなことが分かるのかというと、自我が何を頼りに一つのまとまりを維持しているのかを知ったからです。

それは不満、不足感、欠乏感、そういったものがベースにあって、そこからそれを解消しようとして欲望が生まれるのです。

その欲望を原動力として、思考が塊となってマインドの働きを継続しているのです。欲望は自我の死活問題です。

だから完全なる充足は、自我にとっては命取りになるというわけです。自我という個人とは不思議なものですね。

いつだって満たされたいという不満を抱えていながら、万が一満たされたなら消えていく運命にあるのですから。