マインドを晒してくれる母親

最近は夕食を終えてゆっくりしている時間帯になると、認知症を患ってしまった母親の様子をリモートカメラで確認しながら過ごすようになりました。

認知症の症状の一つなのかどうかは分かりませんが、頻繁に目を覚ましてはトイレに行ったり、台所で冷蔵庫の中を覗き込んだりするのです。

家の中を彷徨しているような感じですね。そして最近特に私の部屋を訪ねてくることが増え、そこから二人の会話が始まるのです。

母親のマインドは不安を原動力として様々な心配事を作り出してしまうので、いつも悶々としている様子がよく分かるのです。

それも尤もなことで、日々の生活の記憶がほとんどない状態なので、明日のことを考え出せば全てが終わりのない心配のループにはまるのです。

もう一年以上毎日同じデイサービスセンターに行っていることを伝えて、明日も同じだよと伝えたところで、もちろん納得できないのです。

母親からしたら、そう言われても明日はじめて知らないところにいかなければならないのかとなるわけです。

記憶がないことを分かってはいるつもりでも、なかなか相手の立場に立って考えてあげることって難しいことだなとつくづく感じます。

30分ほど話しをしてようやく落ち着いて寝たと思ったら、20分くらいですぐに起きてウロウロする姿を見ると、ちょっと虚しくなりますね。

それでも、人間のマインドの仕組みや働きがどうなっているのかを知る上で、物凄く参考になるのでその点はありがたいのです。

さて今日は母親の中のどういった人格が出てくるのか、その人と話すことを少しは楽しみにしておこうと思います。

無選択の代わりに見守ること

選んではいけない。無選択こそあなたを自我から解き放つ。そのように osho が繰り返し言うのは知っています。

けれども、私たちの毎日の実情はといえば、選択また選択の連続で成り立っているのですから、無選択など土台無理なこと。

ずっとそのように思って、随分と不可能なことを言うんだなという理解でいたのです。ただ、無選択が結果として中道に導いてくれるというのは分かっていました。

私たちは選ぶことによってこの二元性の世界をより確固としたものにしているということも認める必要があります。

もしも本当に無選択でいられたなら、この世界は二元性から非二元へと変わってしまうはずなのです。

選ぶということはそれくらい、重要なファクターであるということですね。さて、だからと言ってじゃあどうしたらいいのか?

私が辿り着いた一つの方法ですが、無選択を指向するというよりも、ただ見守るということでいいのかなと。

自分のマインドの中には選択をし続けている部分が山ほどあるのですが、それをとにかく見守り続けるのです。

それによって、自分の中心では無選択と同じ状態になり、そのことによって中道という理想の生き方へと変わっていくはずですね。

自分が誰であるかを知ること

osho は次のように言っています。『最初で最後のステップは、自分が誰であるかを知ること、目覚めることだ』と。

文字通り、最初で最後とは一度しかないということを意味しますね。人生を通してステップが一つしかないということです。

そんな馬鹿なと思っても不思議ではありません。なぜなら、私たちは成長と共にあらゆるステップを上がり続けていると信じているからです。

二足歩行できるようになったら、一つステップアップしたのです。話せるようになったら、また一つ大きなステップアップを果たしたのです。

このようにして、できなかったことができるようになる、分からなかったことを理解できるようになる。

結局のところ、人生とはステップアップの連続とも言えるのです。それなのに、ステップは一つだけだと。

それも、自分が誰であるかを知ることだと言うのですから、変な話しですよね。自分が一番自分は誰かを知っているはずだからです。

このブログの一つの大きなテーマともなっているのですが、自分が誰であるかとは、自分の本質は何なのか?ということです。

それを知ること以外のステップアップは、ステップと表現する事もはばかれるくらいに、本質的なことではないということです。

であるなら、人生をもっともっと気楽に捉えてもいいのかなと。何を成し遂げたとしても、そんなことは自分の正体に気づくことと比べたら、本当にどうでもいいことだからですね。

我慢と受容は真反対

我慢すること、あるいは耐えること等と真逆にあるのが受け容れるということなのですが、この辺りが微妙に解りにくい場合もあるかもしれませんね。

もう少し具体的に言うと、例えば痛みを感じる事とその痛みを我慢することとでは違いがあるでしょうか?

どちらの場合もその痛みからは逃げてはいないように見えます。逃げる場合であれば、その痛みが辛すぎて痛み止めを打ってもらうという方法もあります。

けれども、我慢するというのは実のところその痛みを丸ごとは感じようとはしていないということに気づくことです。

我慢の裏には敵対視しているという感覚があるので、額面通りに感じることではないと分かります。

ただ多くの場合我慢している時には、十分にその痛みを感じているはずだと思えるかもしれませんね。それが両者の違いを曖昧にしているのです。

その痛みが物理的なものであろうと、心理的なものであろうと、その痛みとともにいようとするのであれば、受容するしかありません。

そして実は戦わずに受け容れる時の方が、その痛みの感覚というのは小さくなってくれるのです。勇気が必要ですが、その方が賢いやり方でもあるということですね。

気づくということ

気づきというのはとても不思議な現象ですね。一般的に言えば、気づくということは知らなかったことを知るようになるという意味です。

けれども、ここで言う「気づき」というのはそれとはだいぶ意味合いが異なるのです。一番の差異はなんなのか?

それは元々知っていたものなのに、それに対して新たな気づきがやってくるということです。ではなぜそのようなことが起きるのか?

それは、知っているということに秘密があるのです。私たちは知っているということを誤解して覚えているのです。

実は知っているというのは、そういう情報があることを知っているということであって、そのこと自体を知っているのではないということ。

ここがミソなんですね。知識として知っていたことに対して、腹の底から腑に落ちるという状態になること。

これこそが気づくということの本当の意味なのです。何度も繰り返し同じ本を読んでも、その度に入ってくるものが変化するというのも同じことです。

自分の顔が見えない状態で周囲を見ている時、自他の二元対立を思い出せば外側だけが見えているということは起きないはず。

そのことは知ってはいたのですが、今朝クルマを運転していてそのことが気づきという形でやって来たのです。自も他もどちらも真実ではないということ。

とても新鮮な体験をしたという感覚ですね。ただし、気づきというのは自分の中に定着させて初めて意味があるのです。

大切な気づきがまた消えていってしまわないように、繰り返し練習する必要があるということですね。

今ここに戻るとは?

osho はよく「今ここに戻ってきなさい」という言い方をします。それには本当はどんな意味合いが込められているのか?

今というのは、もちろん過去でも未来でもない現在のこと、今この瞬間のことを意味するわけですね。

そしてもっと言えば、今とは時間の概念から外れることを意味しています。時間というのは思考が作り出した概念です。

同様にして、ここというのも空間の概念から外れること。あっちでもそっちでもない、あなたが在るところ。

それに大きさや位置という概念はないということです。だから「今ここ」というのは自我にとっては未知の分野なのです。

自我は今ここに戻ってくることはできないということ。じゃあ一体誰が戻ってくることを想定しているのか?

誰でもない、私たちの本質は戻ってくるどころか、今ここにしか在りえないのです。では戻ってくるとはどういうことか?

それは、夢の中でどこかに行ってしまっていたのに、夢から目覚めた瞬間にずっとい続けたここに戻ってくるという意味と同じです。

今ここに戻ってきなさいとは、夢から目覚めなさいということですね。

取り憑かれないために

もしも悪魔か何かが誰かに取り憑いてその人を自由に操って、不幸にしたり災いの中に自ら入っていかせようとするとします。

仮にあなたがその悪魔だったとしたら、どのような人をターゲットとして狙うでしょうか?幼い無邪気な子供でしょうか?

それとも、日頃から悪事ばかりを働いている困った人物を標的にするでしょうか?よく言われるのが、心が空っぽの人は忍び込まれやすいというのがありますね。

私が悪魔であったなら、思考だらけの人を狙うと思います。それは、日頃からその思考に飲み込まれているからです。

思考も外からやってくるものであって、それが容易にその人の中に入り込んでコントロールしているわけですから。

そういう人を狙うのは当然のことです。逆に心が空っぽの人というのは、全くコントロールすることができないはずです。

なぜなら、思考のない自我のない全き空間では、乗っ取る誰もそこにいないのですから、手の打ちようがありません。

もしもあなたが、良からぬものに取り憑かれたくないのであれば、マインドに思考がやってきても見守っていられるような訓練を日頃からすることです。

やってきたものに闘うスペースを与えずにいられれば、あなたの協力がもらえずに相手は力を失って退散していくでしょうね。

自他という二元対立を理解する

昨日のブログでは、自我はただそれのみで生きることはできない、ということを説明させていただきました。

今日は、それをもう少し深掘りしたいと思います。自我それ自身だけでは生きられない、成立しないとはどういうことか?

つまりは、自我というのは自分が個として存在していると思っている存在ですが、それは自の反対である他を必要とするということ。

自他という言葉があるように、自と他はこの二元生の世界における二元対立の代表のようなものです。

自が存在するためには、他が絶対的に必要だということ。もちろんその反対も然り。私たちにとって、他というのは他人でありその他の一切合切の自分以外の存在を意味します。

けれども、他が自分の存在にとって不可欠だということを普段は忘れているのです。無人島でたった独りでも生きていけると思っている人もいるかもしれません。

それはそれまでの他とのあらゆる関わりによって作り出された自分をベースに生き延びることができると言っているに過ぎません。

そもそも自我というのは他人との関わりの集合によって出来上がっているのです。そのくせ自分は他人とは分離していると思い込むのです。

これが自我の真骨頂ですね。自我の本当の姿とは、自と他の間の関係性の中にあるのですが、個として存在したいのでそのことを忘れるのです。

もしもあなたが消えたとしたら、この世界からあなたにとっての全ての他(他人や他のもの)も同時に消失するということです。

このことの深い理解をすることで、日頃ムカついてしまうような他人や外での出来事に対しても、自分の存在を支えてくれているものだと思うと、少しは気持ちが穏やかになりますね。

自我は永久機関

自我にとっての不安というのは、孤独と共にその仕組みからして持たざるを得ないものだということを理解する必要があります。

それをいいことに、自我は闘う対象がなくなってしまった時に、その生来の不安を上手に利用するのです。

このことを理解するためには、自我はただそれのみで生きることができないモノであることも分かっておく必要があるのです。

別の言葉で言えば、自我は何かに従事していること、自分以外の何らかの対象との関わりを必要としているということです。

それが病気であれ貧困であれ、あるいはあらゆる苦しみや痛み、そういった対処すべき問題が必要なのです。

もしもあなたが全ての問題を解決してしまい、あらゆる欲望が叶って恵まれた人生を生きるなら、自我は困りだすのです。

そして必要とあらば、妄想の世界に入り込んでまで不安の原因を作り出すのです。それがどれほどの詐欺行為であれ、それは成功します。

なぜなら、前述した生来の不安を元々持っているからです。それを使えば、死ぬまで安泰でいられるのです。その不安が枯渇することはないからですね。

自我が持っている不安という自前資源は半永久的なものであり、それをうまく利用して自我は一種の永久機関として成立するということです。

内側には誰もいない

昔SFモノの映画で見たことがあったのですが、ごく普通に生きていたある人物が何かのきっかけで自分は人間ではなかったと気づくのです。

サイボーグと言えばいいのか、あるいはシンプルにロボットと呼べばいいのか、とにかく血の通った人間ではなかったのです。

その時の彼のショックというのは、計り知れないものがあるでしょうね。自分は人間だと深く信じて生きてきたのですから。

それに似たことがかつてあったのですが、それは自分自身の内面深くに入っていった者たちが、そこには誰もいないということに気づいたのです。

私たちは自分が人間であることを疑わずに生きています。それが本当なのかどうかを見極めたいとも思わずに。

それでも少数の人々は、やはりそこに興味を持って内側を覗こうとするのです。まずはっきり分かるのは、肉体の内側をどのように捜しても、この自分は見当たらないということ。

じゃあどこにいるのか?見つからないだけで実在するはずだとすることもできます。それなら、「我思う、ゆえに我あり」という言葉があるように、考えることで自分があるのだと。

そう捉えるとすると、自分とは思考の塊ではないかと考えることができます。けれども、そんな怪しげな存在でいいのでしょうか?

思考なんて吹けば飛ぶようなあやふやなモノです。そんなもので自分が出来上がっているというのも、どうも納得しづらいですね。

この辺りで、多くの人は諦めてしまうのです。けれども、諦めずにずっと追求していくと、人物らしきものなどないということに気づいてしまいます。

思考を止めてもそこに残るもの、それは人物などではなく、つまり人間などではない普遍的な何かでしかないのです。

それが私たちの本質なのですね。自我にとってはこれは非常に不本意なことですが、認める以外にありません。