思考は真実を隠す

思考と意識の違いに気づくことができると、それだけで何かが変わってくるはずです。逆に言えば、その違いが曖昧であれば自我に100%乗っ取られて無意識でいるということです。

とにかく自我というのは、思考に基づいて活動しているので、思考がなくなってしまうと窒息することになるのです。

私たちが息を止めて何とかして持ち堪えられるのは、せいぜい2分とか3分くらいのものですね。自我はどうでしょう?

自我は思考なしの状態でも息を止めて冬眠しているような感じで、かなり長く生きていることができるのではないかと。

それでもあまりに長い間思考なし状態が続けば、いずれは自我は消滅せざるを得ないはずなのです。経験がないので、そのあたりは微妙なのですが。

もしもあなたが真実を垣間見たいと本気で願うのであれば、思考が作り出す自我の世界から離れる必要があります。

思考の描く世界は、真実を覆い隠すものでしかないからです。人間が生み出す社会というのは、そのほとんどが思考で彩られています。

思考の世界で生きることが悪いということではないのですが、それが全てだと思うのは間違いだということです。

それはあまりにも軽薄過ぎるのです。私たちの本質はこの社会の中にあるのではなく、その次元から離れた真実にこそあるのですから。

不安をそのままにしておく

あなたの人生が今そうなっているのは、良いことも悪いことも決してあなたのせいではありません。

それはあなたの生き方がそういう結果を生み出したのです。けれども、あなたの生き方を決めたのはあなたではないのです。

それは、幼い頃からの親との関係性の中で育まれてきたものです。従って、何がどうなろうともあなたのせいではないのです。

ただあなたのこれまでの考え方、生き方の結果が今のあなたの人生を作り上げたことに違いはないのです。

もしもこれまでの人生を振り返り、人生を変えたいと願うのであれが、それはこれまでの生き方や考え方を変えるしかありません。

これまで努力してきた人が、もっと努力をして人生を変えようとするのは間違いなのです。なぜなら、生き方が変わってないからです。

多くの人に共通する生き方というのがあるのですが、それは不安や心配事に対してなんとかそれを解決して安心しようとすることです。

この生き方を変えることができるなら、間違いなくあなたの人生は激変してしまうでしょうね。

つまりは、不安がやってきてもそれをそのままにしておくのです。不安と共にいるようにするということです。

すると不思議なことが起こります。あれほどしつこく自分を悩ませていた問題が、ひとりでに小さくなってしまうのです。

その理由は簡単。防衛が小さくなるにつれてそれだけ自己犠牲も小さくなるからです。その結果、無邪気で屈託のない自分の自然さが戻ってきてくれるのです。

不安がやってきた時にチャンスだと思って、それに対して何もせずにいるように心がけてみてください。その効果は意外に早くやってくるはずです。

分離という信念が恐怖を生む

信念というのは、堅く信じて疑わない事と定義することができますが、本当は信じることの中に疑いは必ずあるのです。

自分が信じていることが間違っていては困るので、安心するために疑う心を封印してしまうということです。

その信じることの最上級のものが信念であるので、信念の下には当然のこと疑いが隠されているということです。

そのことを知った上で、私たち自我が最も頼りにしている信念とは、自分は分離しているという考えです。

自分とはこの肉体の内側であって、外側の世界とは分離していると信じているのです。誰もがそのことを疑ったりしないのです。

けれども、分離という信念の奥には必ず疑いが隠れています。その疑いの心を捜すことです。それを見つけ出すのです。

なぜなら、もしも分離という信念は間違いだったと気づくことができれば、あらゆる恐怖感が消えてしまうからです。

私たちが抱えている恐怖感は、この分離しているという信念から作られるからです。恐怖から解放されたいのであれば、まずは分離を疑う心を見つけること。

岩のように固い信念に騙されない勇気が必要なのです。分離しているという信念が消失すれば、その瞬間から恐怖も消えてしまうはず。

自分の存在が全体と一つだと気づくことで、生死がなくなるのです。そうなったら全く違う人生を生きることになるでしょうね。

「くつろぐ」ためには…

私たちが「くつろぐ」ということをイメージするとき、当たり前ですが何か心配事などが頭に浮かんできたら、くつろぐことはできなくなってしまいます。

それをもう少し精度を上げて表現するなら、外側に注意(意識)を向ける必要を感じない時に初めて、くつろぐことができるのです。

仮に何か気になることがあったとしても、一時的であれそういった物事を一旦忘れていることができれば、くつろぐことができるということです。

つまりは、外側に向いていた意識を内側に向けることができれば、自然にくつろぐことができるとも言えるのです。

ただし間違ってはいけないのですが、内側に意識を向けるといっても自分のことを考えるということではありません。

考えてしまえば、その対象がたとえ自分自身のことだとしても、それは必ず外側の世界と繋がってしまうからです。

思考活動は常に外側の世界と関わることになるだけでなく、過去や未来とも関わってしまうことになるのです。

思考が緊張を作り出す張本人であり、思考から解放されて意識だけになることができれば、自ずとリラックスしてくつろぐことになるのですね。

広大な内側の世界に気づく

自分の外側で起きていることにばかり捉われて、その中心にいる自分自体のことを見過ごしてしまっている人は沢山います。

この状態であれば、何も人間に生まれる必要はなかったと思わざるを得ません。動物は皆そんなふうに生きているのですから。

せっかく人間として生まれたからには、人生の中心である自分自身にもっともっと注目して生活することです。

そこで初めて、自分は思考ではなく意識だということのニュアンスくらいは分かるようになるのだと思います。

外側の世界でありとあらゆることが起きていて、それに比べてちっぽけな自分の内側なんてと感じてしまうのかもしれません。

けれども、外側の世界と同じかそれ以上に内側の世界は広大なのです。見つめれば見つめるほど、底なしに深いことに気づくはず。

この世界でどれほどの成果を成し遂げたとしても、それが単に外側で起きていることであるなら、一過性のものに過ぎません。

代わりに内側に真実を見ることができるなら、それは決して一過性のものではないのです。人生を超えて普遍的な領域に踏み入ったということです。

それによって、無限に輪廻をし続けるのか、あるいは二度と戻らないことになるのかに大きく影響するのですね。

得難いものを得ている

友人の死を目の当たりにして、いつもよりも深く自分の死を見つめることができて、少しだけ生きる感覚が変化した感じがしました。

死をリアルに感じようとすればするほど、今この瞬間の生というものが有難いもの、得難いものを得ているという感覚になったのです。

そうなると、当然のことながら感謝のような気持ちが溢れてきますね。初めのうちは、今の仕事をするようになってからの人生への歓びがきました。

そのうち、自分にとって都合のいいことも都合の悪いことも、分け隔てなく全部丸ごとがプレゼントなのかもと。

更にいえば、ああやっぱり人生という物語は夢のようなものだなという感覚。不確かで、何一つ残るものがないのですから。

どんなに激しい夢であっても、朝目が覚めれば消えてしまうのと同じこと。身体から解き放たれて本質に戻れば、全ては夏の夜の夢と同じ。

若い頃はほとんど不可能に近いことかもしれないけれど、自分の死としっかり向き合うことのメリットは絶大です。

今日、亡くなった友人の最期の顔を見にご自宅まで押しかけてきました。ただ穏やかに眠っているようで、もうすでに本質に戻ったのかなと。

死を否定的に捉えない

大学時代の友人が今朝亡くなったという連絡をもらいました。長いこと気丈に病気と戦っていたのを知っていたので、気持ちは複雑です。

まだ死ぬには若いので残念と言う気持ちと、身体の痛みから解放されて良かったという気持ちの両方があるからです。

私は死と言うものをあまり否定的に捉えないので、ほかの友人達の反応と少し違うのかもしれません。

考えてみれば当然のことですが、私たちは誰もがいつも死を突きつけられた状態で人生を生きているのです。

それなのに、恐怖のあまりにそれを見ようともせず、死ぬのはいつも自分以外の誰かだとして向き合おうとしないのです。

だからいざとなった時に、慌ててしまったり絶望的になったりするのです。自分の場合はどうなのか、本当のところは分かりません。

けれども、もしも自分が死を受け入れることができたなら、その時にはいかに死に行くかに焦点が当たるようになると思います。

つまりは意識的に死ぬと言うことに全エネルギーを集中したいし、あわよくばその姿が誰かの役に立てばもっと嬉しいと感じます。

肉体から離れて、まだ少し自我が残っている状態で、色々と悪戯をしに回ろうと思っています。すぐに全体へと吸収されたら、もったいない気がしますので。

去り行く雲を見続ける

空一面が雲で覆われているような曇りの日であっても、その雲の向こう側には青空が広がっていることを私たちは知っています。

けれども、あまりに雨天が続くような時には、本当に青空があるのだろうかと疑いたくなることもありますね。

雲が思考だとすれば、青空は意識だと言えます。私たちがこれが自分だと思い込んでいる自我は思考の塊です。

つまり、雲を自分自身だと思っていて、その奥に隠されて決してなくなることのない青空こそが本当の自分だということを忘れているのです。

雲は常に行ったり来たりして、時にはその雲は小さくなって青空がしっかりと顔を覗かすこともあります。

晴天の時には雲がなくなり、青空だけが残る。私たちが知っている自分の死とは、雲がなくなることを言うのです。

日頃から決してなくなることのない青空(意識)こそが自分の本質だと気づいているなら、自分には死はやってこないと言うことになるのです。

これは知識として持っていても全く役に立つことはありません。いかに雲の隙間から見える青空に意識を向け続けていられるかが勝負です。

自分の最期に、去り行く雲を見続けていられるように今から準備しておきたものですね。

意識は病気にならない

高齢になって認知症になった母親を見ていると、新しく何かを学ぶということが全くなくなってしまったのが分かるのです。

短期記憶がなくなってしまったので、それは無理もないことなのですね。永久記憶領域に保存されている記憶については、まだまだ使えるのですが…。

もしもあなたが将来認知症になってしまったとしたらどうしますか?今の医学ではどうしようもないので、諦めるしかない?

私はそんなことはないと思っているのです。というのも、記憶というのは便利なものですが、単に思考が使うものなのです。

つまりあなたの意識はたとえ認知症になったとしても健在なままなのです。意識は病気になることがないからです。

何が言いたいのかというと、常日頃から意識的であることを心がけつつ生活しておけば、認知症になっても自覚が揺らぐことはないのです。

母親の場合は、残念なことに無意識的に生きてきてしまったために、いざ意識を使おうとしてももう間に合わないということです。

これは仮定の話しでしかないのですが、十分に意識的である人はもしかしたら認知症になる確率が低くなるのではないかと密かに思ってもいます。

理想を現実の世界に持ってくるな

子供の頃のことですが、理想の両親、理想の兄弟を勝手に作り出して、その家族の妄想の中で楽しむということをしていたことがありました。

それは大抵夜寝る前に布団の中で一人密かに楽しむのです。あまり夢中になってしまうと眠れなくなるので、ほどほどにして寝るのです。

けれども、その妄想は現実の家族とは違うものでしたので、それを追い求めるということはせずに済みました。

妄想の中で理想を作り出して楽しむのは別に悪くはないと思うのですが、理想を作って現実の中でそれを目指すとなると、事態は変わってきます。

というのも、理想の自分、理想の環境などを設定して、それを目指して生きてしまうと、間違いなく困難な人生が待っています。

それはそうですよね。理想とは程遠い現実からスタートしようとするわけだから、自分に対して厳しい評価をするようになるからです。

理想に到達できない自分を責めるし、あらゆる点で自分がダメ人間のように感じるだろうし、罪悪感にも苛まれることになるのです。

そしてその理想はいつまで経っても追い求める目標となって、実現することはありません。その間中苦しむことになるのです。

万万が一それが実現したとしても、喜んでいられるのは一時だけであり、また次の目標が必要になることは間違いありません。

月並みな言葉ですが、理想という未来に意識を向ける代わりに、今現在の自分を見つめて受け入れることができれば、それがどんなものであれ満たされることになるのですね。