母親のセッションで分かったこと

先日、認知症になった母親の脚をマッサージしながら、ちょっとしたセッションをやってみたのですが、なかなか興味深い内容となりました。

そもそもセッションをしようと思った理由は、母親が空腹を感じると嫌な気持ちになるということを言っていたからです。

それともう一つ、彼女が持っている不安のうちの多くは食べ物があるのかどうかということなのですが、それがどこからくるのかを知りたいとも思っていました。

その不安と空腹の時の嫌な気持ちとの間に、何かしらの関連があるのではないかと思ってそこを掘り下げてみたのです。

すると、子供の頃はお腹が空いたら親が作ったご飯を食べるだけでよかったものが、若くして(19〜20歳)結婚してからは主婦として自分が食事の支度をしなければならなくなったと。

大家族の末っ子として生まれた彼女が、結婚を機に突然知らない土地に嫁いで、しかも六畳一間のアパートでたった一人で夫の帰りを待つ生活。

その心細さと寂しさ、そしてお腹が空いたら自分で食事の支度をしなければならないというのが、心の中で結びついてしまったのかなと。

そこで分かったことは、彼女は料理をすることが元々好きではなかったのですね。だから父親の死後、全く料理をしなくなったのです。

母親の中に棲んでいる甘えん坊で末っ子の女の子が未だに健在なんだなと。その子が空腹を感じるたびに、寂しさと悲しみも感じるのです。

それを分かってあげられただけでも、良かったかなと。ただ、その女の子の気持ちを見守ってあげて…、は通じませんでした。

そのため、問題の解決にはほど遠いし、こうした30分くらいのセッションの内容も全く覚えてはいないのですから、仕方のないことですね。

真理になぜ?は通用しない

子供の頃というのは、なぜ?やどうして?をたくさん持っているものですね。その答えは親も知らないということを思い知らされます。

そうしてそのうちには問うことを諦めるのです。私自身もそうだったと思うのですが、どんな疑問にも答えてくれる存在として、神がいるのだと思ったりしていました。

本当は、人間が神の存在を意識するのは死があるからなのですね。死の恐怖をなんとかしてほしくて神に頼ろうとするのです。

話しを元に戻して、全能の神という表現をするくらいなので、どんな質問にも答えてもらえると思っていたのかもしれません。

けれども、それは間違いだったと気づいたのです。なぜ?というのは、思考によって作り出されるものなので、真理とは無関係だと気づいたのです。

真理に対してなぜ?は無意味だということです。このことに対する深い理解というのは、とても大切なのではないかと。

自我は問題を解決すること、分からないことを分かるようにすることで安心しようとするものなのです。

けれども、自我に真理を理解することは不可能です。なぜなら、自我の理解は思考の世界のことだからですね。

なぜ?を解決することで安心することをやめて、ただ在るがままを受け入れることで本当の深い安堵がやってくるのですね。

本当の自由を満喫するには

私自身は一人旅というのをしたことがないのですが、皆さんはどうでしょうか?想像するだに気持ちよさそうですね。

何か壮大な自由を手に入れられたような感じもします。日常的なあらゆるしがらみから離れて自由を満喫する。

あるいは、あてもない気楽さ、目的地を定める必要もなく漂う心地良さ。そう言ったものを味わうのが一人旅のいいところですね。

ただそうした気楽さや自由さというのは、本当は日常でも味わうことはできるはずなのです。どうすればいいのか?

それは、ごく普段の日常を気楽な一人旅だと思えばいいのです。しがらみを作っているのは自分だし、目的地を定めるのも自分なのです。

全ては自分を安心させようとする自己防衛のせいだと気づくことです。防衛をなるべく控えて無防備になること。

それができればできるほど、一人旅と同じ気楽さと自由を手に入れることができるはずなのです。

本当の自由とは、あなたの自我から解放されることなのです。無防備になることでそれは実現します。ほんの少しの熱意と勇気さえあればですが…。

あなたが不完全なはずがない

この宇宙全体を神が創ったとしたら、その宇宙の一部である私たちも神によって創られたということになります。

それなのに、自分という存在は不完全だとするのは、その自分を創った神も不完全だとするのと同じで、神を否定することになりますね。

自分を不完全だと思い込むことはできますが、できるのはそこまでであって、それは真実ではないと見抜くことです。

そもそも不完全なものを完全なものにすることは不可能なことです。ところが、自我はそれが可能だと信じているのです。

目的を達成したら完全になる、期待通りの自分になれたら完全になる、そう思い込んでいるのですから、次から次へと挑戦が続くのです。

自我にとって完全さは未来にのみあるのです。今はまだダメだけど…というわけです。その未来は決してやってきません。

完全さは今この瞬間にしかあり得ません。本来は終着するところがないので、挫折することも失敗することもないのです。

あなたがたどり着くところがどこであれ、そこがあなたの到着地となるということです。これさえ掴めば、ずっと深い安心の中にいられるのですね。

思考を止めようとしない

幼稚園に通っていた頃のことですが、みんなで輪になって椅子取りゲームをやったことがありました。

先生がピアノを弾いて、それに合わせてグルグル歩くのですが、ピアノが止まった瞬間に一目散に椅子に座るのです。

椅子に座れなかった人が抜けていって、最後まで残る人が優勝するというゲームです。音楽がない場合は、みんなでただグルグル歩くのです。

で、先生がストップと言ったら我先にと椅子を目指すのですが、集中してそのストップの掛け声に耳を澄ますのです。

あの瞬間というのは、すごく集中していて雑念のようなものはほとんどなかったと言ってもいいでしょうね。

あなたの頭の中で活動し続けている思考も、あなたのストップ!という合図とともに停止してくれたらいいのですが…。

なかなかそううまくは行かないものです。というよりも、思考を停止させようとすればするほど、思考は反抗的に活動するものです。

もしも瞑想の時などに思考を止めたいと願うなら、ストップの合図よりも友好的に、その思考を見守る方がいいのです。

経験すればすぐに分かることですが、思考は見守られると逆に自動的にその活動を縮小するものなのです。

是非試してみてください。

もういいから、自然に生きろ!

普段はあまりないのですが、それでもたまに会社員だった頃のことを思い出して、結構大変だったなあと振り返ることがあります。

例えば、朝オフィスに出勤していざ職場のドアを開けようとしたときに、何となく吐き気がするような感じがしたこともありました。

ドアノブを握ることをほんの少しの時間ですが、躊躇しているような感覚もありました。もちろん入ってしまえば、なんでもないように挨拶を交わすのです。

また、ある年末年始の連休の時に、朝目が覚めた時に夜中ずっと仕事のことを考えていたことに気づいて、ああやばい状態だなと思ったこともありました。

そんな時、家の近所のローカルな踏切にいる、あの踏切番のおじさんになりたいと思ったり、とにかく何でもいいから気軽になりたかったのですね。

これも今思うと変な習慣ですが、朝少し時間に余裕を持って起きて、食事や身支度を済ませたあと、もう一度布団の中に潜るのです。

と言っても、15分くらいだったと思うのですが、これから戦場に向かう前にもう一度安らかな時間を持ちたいという願いだったのかなと。

その少しの時間にウトウトすることもあって、もしかして今セラピストとして生きているこの現実は、その時に見てた夢だったらどうしよう、そうだとしたら…。

目覚めた時に絶望するでしょうね。あまりに夢と現実の違いが大き過ぎるので。でも仮にそうだとしたら、きっとこの夢が役に立つはずです。

というのも、この夢のおかげで辛い毎日を生きなければならないのは、自分の生き方、考え方が原因だとはっきり気づいたからです。

あの時の自分にこの夢の中の自分から伝えてあげたい。もういいから、どんな代償を払ってでも自分自身を取り戻せ!と。

花はひとりでに開く

誰もがより幸せになりたいと願っているのですが、その幸せが一体どういうものなのかは案外ピンボケだったりしているのです。

もっと焦点を当てて、より詳細に精度を上げてその幸せの中身を見てみることです。そうすると、もしかしたら思っていたほどでもないかもとなるかも知れません。

つまりぼんやりとこうなったら幸せに違いないと、その幸せの輪郭を見ているだけでは気づけないことに気づくことになるのです。

突き詰めて自分が追い求めている幸せを真っ向から見定めてみた時、意外とそんな満ち足りた状態でもないかも?となるのです。

これが怖いので、多くの人はそこをぼやかしたままでいるのです。けれども、そうした気づきはとても大事なものです。

その気づきがあれば、そこそこの絶望感はくるものの、いつまでも不可能な期待値を夢見るバカバカしい生き方を止めることができます。

そして誤解を恐れずに言えば、幸せを求める生き方から離れていくことになるのです。幸せという概念を使わなくなるのです。

幸不幸から離れて、特別な自分になろうとすることからも遠のいて、日々を淡々と生きるようになるということです。

そして毎日のもっと何気ないことに注意が向くようになるのです。真夏の地獄のように暑い日に、サルスベリの花が元気に開いている姿を見て嬉しくなったり。

我々日本人の本来の感性である、自動詞の世界。花が咲くというのは、花は自然に、ひとりでに咲くと言っているのです。そこに何らかの原因があるとは見ないのです。

このひとりでに物事は起きるのだという感覚を思い出して、人生そのものを見直してみるのもいいのかなと思いますね。

所有と非所有のどちらでもない

自我というのは、所有することによって安心を得ようとする性質を持っています。そこに気づいていますか?

持っていないことが不安であり、持っていることで安心できると信じ込んでいるのです。その安心も一過性のものに過ぎないのですけれど。

いつかこのブログで書いたことがあったと思うのですが、小学生の頃に牛乳瓶の蓋でおはじきみたいなことをして、勝ったら相手の蓋を自分のものにするというゲームが流行ったのです。

思えば、物凄い数の蓋をみんなが持っていて、その枚数を互いに競っていたのです。自分は結構上位の方だったと思います。

それが行き着くところまで行った時に、突然ああもうこういうの嫌だなというのがやってきて、自分の所有する蓋を全部友達にあげてしまったのです。

そして、自分は一枚だけ持っていれば、それで勝負はできるし、万一負けてそれを取られてしまったとしても、その時は借りればいいのだと。

そうなった時の清々しさは忘れることができません。こんなに身が軽いという気持ち、守るべき財産がないという快適さ。

けれども、今思うと所有するという欲望と、それへの反発である非所有という自由さのどちらでもないということが大切なのだと気づいたのです。

所有することになったのならそれはそれでいいし、所有しないことになったのなら、またそれはそれでいいという中立の感覚。

これこそが不二一元論、つまりは中道を生きるということなのですね。

同化を外したい

私たちの誰もが患っているたった一つの病、それは「同一化」です。常に、何かと同化してしまって、それに気づかずにいるのです。

同化をはずすことさえできれば、自分の本質に気づくことになります。では一体何と同化しているというのでしょう?

まずは、自我ですね。私たちがこれが自分だと思っているもの、この個人としての自分を自我と呼ぶのですが、これは同化なのです。

そしてこの同化を継続したままで、他のあらゆるものとの同化も行なっているのです。同化とは、何かと一つになってしまうこと。

思考と一つになれば、思考と同化していることになるし、怒りや悲しみなどの感情と一つになれば、その感情と同化していることになるのです。

同化という病から抜け出すには、たった一つの方法があるのみです。それは、見守り続けることなのです。

ただ見ることによって、同化しているものとの距離ができるために、それが自分自身ではないと気づくことになるのです。

もしもあなたがしっかりと意識的に生きることができるなら、それは自分自身をずっと見守ることを意味するので、自我との同化が緩んでくるのです。

いつかはその同化が外れる日を夢見て…。

一つひとつの行為を丁寧に

私たちが何かを行為するときに、丁寧に行う場合もあれば、雑に行う場合もあります。こうしたことは、動物には基本的にはありません。

それはなぜかというと、意識的かどうかに関係することだからです。動物は常に無意識であり、人間だけが意識的である可能性があるからです。

物事を丁寧に行う時には、自動的に意識的にならざるを得ないのです。その逆も然りで、無意識的に行うと雑になる可能性が高くなります。

例えばクルマに乗った瞬間、気がつくとたくさんの動作をほとんど一瞬でこなしているのですが、無意識的になりがちです。

ブレーキを踏みながら電源スイッチをオンにし、エアコンのスイッチを入れ、シートベルトを締めて、サイドブレーキスイッチをオフにし、ギアをBレンジに入れ、e-pedal スイッチをオンにし、擬似音スイッチをオフにする。

今改めて書いてみて、これだけのことをほぼ無意識でやっているのですから、慣れというのは恐ろしいです。

この慣れが、人を無意識にしてしまう悪者とも言えますが、本当は自分が無意識になりたくて習慣のせいにしているだけなのです。

自我は意識的であり続けられると、自分の正体がバレる危険があるので、なるべくなら無意識的に生きて欲しいと思っているのです。

それはともかく、意識的であるということがあまりピンと来ないという場合には、一つひとつの行為を丁寧に行うように心がければいいのですね。