自我は変化がお好き

オフの日に半日くらい寝てばかりいて、その後にビールを飲むのと、出かけて暑い思いをして汗をかいて、帰宅して飲むビールとでは味が全く違いますね。

ビールを美味しく飲むために、帰宅するまで極力水分を摂らないようにするというのもやってたことがあったと思います。

間違いなく健康にはよくないですけど。子供の頃、まだ家にエアコンがなくて夏の暑い日には窓を開けて網戸にしておくわけです。

その状態で、畳で横になっているときに、フワッとした何とも心地の良いそよ風が入ってくることがあって、あれはホントに気持ちいいもんですね。

そう言ったちょっとした気持ちよさというのは、きっと変化があるから感じられるものなんだろうなと。

帰宅して玄関を開けた時に、家の中がヒヤッとしてくれるととても気持ちがいいのです。これも変化を喜んでいるのです。

ところが、部屋に入ってずっと一定の温度で涼しい状態であると、確かにありがたいとは思うものの、ああ気持ちいい!とはなりません。

自我はいつも変化を求めているというのが分かりますね。安定志向のはずなのに、じゃあずっと安定していたらいいのかというと、そうでもないということ。

だから自我が強くいる限りは、ブッダの言う中道という理想的な生き方はできないということになりますね。

もしもあなたの人生がジェットコースターのような感じがするのであれば、それはあなたの自我がそれを求めているということです。

もしも穏やかな毎日を望んでいるのでしたら、自我の影響を小さくしてあげる必要があるということですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

非二元を考察するヒント

最近は非二元のことを多く発信しているのですが、二元と非二元をもっと平易な言葉でシンプルに対比できないかと考えてみました。

それで思いついたのですが、一般的な我々の世界観である二元性の世界というのは、モノがあるからそれを認識できると考えるのです。

つまり、モノありきで考えるのです。そんなの当たり前だろ!と思うかもしれないですが、それがそうでもないのです。

非二元では、何よりもまずは認識が先であると考えるのです。人から聞いた知識を使わずに注意深くみると、こちらの方が道理に適っていることに気づきます。

まずは認識が起きるのですが、ここはどんな先入観も使わずにいられるのです。だから、認識はリアルなのですね。

そのあとは、認識する主体と認識される客体があると想像するわけです。そしてそれを想像していることを忘れてしまうのです。

そして、あくまでも主体と客体がまずあって、その後に認識が起こるという具合にすり替えて考えるようになってしまったのです。

一度このように自分を騙してしまえば、これは気付かぬうちに強力な信念となって、疑うことがなくなるのです。

だから、認識だけがあるという非二元のことを言われれば、瞬間的に拒絶反応が起こってしまうというわけです。

どうでしょう?これが、非二元を考察するためのヒントになったらいいなと思います。

まるで紙芝居の一枚の絵のよう

昔「紙芝居」というのがあったというのをご存知でしょうか?実は、私自身かなり子供の頃ですが、家の近くに紙芝居のおじさんがたまに来てくれてたのを覚えています。

近所の友達と一緒に、おじさんの巧みな声色を使った語り口を聴いていたのですね。おじさんの肉声を聴くのが楽しいというのか。

紙芝居というのは、一枚一枚がただの静止画な訳ですから、今のアニメと比べたらどれだけ原始的かということですね。

それでも、かなりのリアリティを感じながらもその物語の中に入り込むことができていたのだろうなと。

あの紙芝居の一枚の絵を大きくして、自分の周りにグルッと見えるようにはめ込んだのが、今私が見ている部屋の様子だと。

そんな風に見えるんですよね。というのも、部屋の中の景色で動いているものが何もないので、本当に2次元の絵だなと。

自分の周りにという表現をしたのですが、実はその絵だけがあるように見えているだけで、それを見ている自分はいない。

それに3次元の空間もここには見当たらないんですよね。その絵の中に自分の身体と思しきものも含まれているのがミソですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

運転中の態度の変化

ほとんど毎日のように、クルマを運転しているのですが、いつもいつも交通ルールがメチャクチャなクルマや自転車などに翻弄される日々なのです。

なぜゆえにあんなふうな運転の仕方ができるんだろうか?とか、あれで死なないで無事でいられることが不思議だなとか。

酷さの順番で言うと、自転車、歩行者、クルマの順かなと。なぜイラッとしてしまうのかを分析すると、ある期待値があるからだと気付きます。

自分の期待値、つまりは想定される相手の動きというものがあって、それとのギャップを感じてしまうと、怒りと驚きと落胆とが入り混じるのです。

なので、できる限りは期待をせずにいられるようにしようと思うのですが、やはりそこはある程度のルールが必要なので、期待値ゼロは無理だなと。

そんなことを考えながら、ああでもないこうでもないをやっているうちに、ここ最近になって少しばかり自分の反応に変化が。

それはもしかすると、連日のように非二元の話をしていることの影響があるのかもしれないなと思うのです。

具体的には、所詮は誰もいないし実際には何も起きているわけではないと。もちろん、イラッとしてしまう自分さえいないのだし。

起きているように見えることがあるだけで、そんな紙芝居に一喜一憂するほどのこともないと気づいたのかもしれません。

この先の変化がどうなるのかも注目です。ただし間違っても、自分に何かを強いることだけはしないでおこうと思いますね。

無意識はリアルではない

何度もくどいようですが、非二元においてリアルなのは体験だけであって、それが現実だということです。

そしてその体験というのは、別の言葉で表現すれば「気づいている」ということなんだと。これ、新しい発見かもしれません。

何が起きているように見えていたとしても、実際には何も起きているわけではなく、それを体験として、気づいていることだけがリアルなんですね。

究極の言い方をしてしまうと、「気付き」だけがリアルなんだと。これ以外はもう本当に何にもないんです。

かつて、意識だけが実在するみたいなことを言っていたことがあったのですが、どうやらまたそこへ戻ってきた感じがしています。

ただ当時と違うのは、言っていることがもっと明確になったということです。本当に何もないということがはっきりした。

だとしたら、どんなことが起こっているように見えたとしても、ただそれに気づいてさえいればいいということ。

やっぱり、常に意識的であるということが重要であるということ。なぜなら、無意識はリアルではないからですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

体験は物理活動でも精神活動でもない

体験だけがある、体験がリアルな現実であり、現実とは体験のことだと言い続けてきました。これが分かりやすいのかどうかは定かではないですが。

ブッダは「行為はあるけど、行為者はいない」と言ったといわれているのですが、実際には行為もありません。あるのは、体験だけ。

「今この道を歩いている」のが現実で、「昨日もこの道を歩いていた」と思い出しているのがイメージだと捉えがちです。

けれども、実際にはどちらも同じようにイメージなのです。「今この道を歩いているという体験」が現実だし、「昨日もこの道を歩いていたと思い出している体験」も現実。

さらに言えば、物質的なものの実体がないのは明確なのですが、精神活動はどうなのかということがあります。

思考とか、感情とか、そういうものに私たち人間は支配されているように思われるのですが、本当のところはどうでしょう?

実は考えるということも、考えるという体験だけがリアルであって、思考そのものは幻想でしかないのです。

もちろん感情も同じこと。今私は猛烈に怒っているという場合、その激怒しているという体験だけが現実なのです。

怒りという感情は実体がないのです。ということで、すべての精神活動でさえ現実ではないということになりますね。

体験だけがリアル

非二元の気づきがやってくる以前は、スピリチュアルな情報を視聴するのが好きで、よく関連する動画を見たりしていました。

その中でも特別注視していたのがバシャールです。バシャールとは、どこぞの宇宙人たちが特定の人にチャネリングすることで、さまざまな貴重な情報を教えてくれたりするのです。

今はほとんど興味を持てなくなってしまったのですが、YouTubeのお気に入りの再生リストの中に残っている動画があったのです。

短い動画だったので、懐かしさでそれを見てみたら、何とリアルなものとはあなたの体験なんだと。それが現実なんだと明確に言っているのです。

「あなたの」というところだけちょっと気になるのですが、要するに体験が現実であり、現実とは体験なのだと。

体験する「舞台セット」上の小道具たちではないのだと。これって、私が非二元のお話をするようになって、よく使っていた表現だなと。

例えば、あなたが遊園地に行ってさまざまなアトラクションを楽しんでいるなら、その体験そのものだけがリアルであり、それが現実。

けれども、実際の遊園地やそこでの乗り物やアトラクションなどは非現実だということです。実体がないからですね。

人間というのは、同じ言葉を聞いたとしてもその時の自分の状態によって受け取り方が全く違ってしまうんだなということを改めて思い知りましたね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画も是非ご視聴ください。

個人の意識なんて決してあり得ない

ずっと長い間、私たちの本質は純粋な意識だということをお伝えしてきましたし、それは間違いではないと今でも思っています。

ただ非二元の気づきがやってきてからは、意識という言葉を使うことにちょっとした違和感を感じるようになってしまいました。

というのも、意識という言葉が非常に手垢のついた言葉になってしまっているので、多くの人がその人なりの連想をしてしまうという事実があるからです。

だからなるべく誤解してほしくないという思いから、この言葉を使わないようになったのですが、やはり歴史上の文献を紐解くと、意識という言葉を沢山使っているわけで。

今の私の理解としては、意識というのは少なくとも個人の意識というのはあり得ないという感覚になっていますね。

個人というのはあくまでも自我のレベルでしかないのです。だから、私は純粋な意識だということがもう言えないのです。

代わりに、意識というのは体験であり、見かけであり、現れであり、気付きそのものだということ。

そして、それだけがリアルであってイメージである時間や空間とは関係しないということです。ここは言葉を使っての説明は、ちょっと厄介ですね。 

自分は身体ではないって本当?

多くの人々が、自分は身体だという根深い思いを持って生きていると思うのですね。そんな中でも、身体ではないという感覚がある人もいるわけです。

私などは、かなり前から自分が身体であるはずはないと強く思ってきた歴史があると感じているのですね。

このような私と同じような感覚で生きている人も沢山いるのでしょうね。ところがです。どういうわけか、身体そのものではないと感じているのに、身体を主体的に見ていることは間違い無いのです。

たとえば、昨日自分は何をした?と記憶を遡ってみた時に、そこには必ず自分の身体が中心にあるのです。

たとえば、昨日は映画を見に行ったなあと思い出すとします。映画館まで出向くのは当然のこと身体なわけです。

けれども、自分は身体ではないと思うのであれば自分がしたことの中で映画館へ行ったというのが入り込むはずがないのです。

誰かとカラオケで沢山歌を歌って楽しい思いをしたという記憶でも、やっぱりそこには身体が中心的な役割を果たしています。

もしも自分は身体ではないとするなら、昨日のカラオケ店で自分は何をしたのでしょうか?身体を使って、カラオケ店に行って、身体を使って歌を数曲歌ったという説明になるのかなと。

あなたが身体ではないのなら、カラオケ店に行くことはできないし、カラオケで歌を歌うということもできません。

それとも、身体を使ってカラオケ店に移動して、身体を使って歌を歌ったのだということで辻褄を合わせているのでしょうか。

自分は身体ではなく、精神活動だという言い方もできるかもしれません。でもその精神活動って、身体の一部である脳によって起きているとしたら、やっぱり我々は身体だということになってしまいます。

私は身体ではなく、純粋な気づきそのものだという表明をしっかりできるようにするためには、もう少しこの辺りのことを突き詰めておく必要がありそうですね。

ーーーーーーーーーーーーー

こちらの動画もぜひご視聴ください。

人を三種類に分類すると…

osho は、人を三種類に分類できるというのです。一つ目は、見られる対象になってしまう人たち。つまりは演技者のこと。

二つ目は、傍観者になる人たち。そして、三番目は、観察者になる人たち。演技者になる時、その人は一個の物となってしまうのだと。

彼らの努力はすべて、人々を印象付けることにあり、どうすれば良く見えるか、どうすれば美しく見えるか、どうすれば最も良く見えるか、つまりは最善を装う努力だけをする。

対象物になる人は、偽善者となる。彼らは自分の顔を仮面で覆う。外見は善良に見せかけていても内側は…。

二番目の傍観者になる人たちは、膨大な群衆になる。何時間もテレビの前に座る。生きるということが、外側を見ることに費やされてしまう。

この眺め続ける人々は世界中に溢れていて、一つ目の演技者たちはこの傍観者たちを利用することになるのだと。

この傍観者とは、その目が他者に向いているのに対して、三番目の観察者とは、その目が自分自身に向いている者のことなのだと。

この違いは革命的であり、まさに根本的なことなのだと。視界から全ての対象が去り、あなたが、あなただけがいる。

気づきだけが残り、油断のなさだけが残る。この時、あなたは観察者であると。結局はこの観察者でいる時にのみ、自己の本質に気づくことができるのだと

私なりに補足すると、この純粋な気づきだけが現れとなって初めて、全ての実体が消えていくのだろうなと。