裁きと愛

「奇跡のコース」の中の言葉に、こういうものがあります。「裁きと愛とは正反対である。一方からはこの世界のすべての悲しみが生じる。しかしもう一方からは神ご自身の平安が来る。」

裁きとか神という言葉がどうも宗教じみていていやだという方もいらっしゃるかもしれませんね。私もそうでした。ただ、単なる言葉に翻弄されるよりも、自分にとって本当に大切なことかどうかが大事だと思います。

言い換えると、相手を悪者だとすることと、愛によって受け入れるということは真逆だと言っているのです。相手に罪があるという気持ちからは、悲しみしか生まれないですが、愛をもって受け入れたら心の平安を得ることができるということです。

残念ながら、私たちは相手を悪者にしたくてうずうずしている心の部分を持っているのです。その部分を使うと、相手を罰することによって自分を守れるという考えに縛られてしまいます。

それが自分を防衛する安全策だと思っているのです。有名人の誰かが何かの事件を起こすと、初めのうちはこぞってその人を悪者扱いしようとするのはそのためです。

しばらくバッシングが続くと、今度は別の気持ちがやってきて、もう責めるのはやめて欲しいという状態になりますね。人の心にはこうした二つの相反する部分があるということの証明です。

人を罰してしまうということには、実際のところ麻薬のような魅力があります。それは真の幸せとは全く違うのですが、私たちはどうしてもそこに抵抗できないような魅力を感じてしまうのです。

ある種ダイエットしてスリムな身体になりたいが、目の前にあるケーキは食べたくて仕方ないという気持ちと全く同じだと思います。

相手に罪があると思おうとする誘惑は、実は我々が気が付いているようなものとは桁違いに大きなエネルギーなのです。一般的には、人を悪者にしたいなどとは思っていないというような自覚がほとんどですね。

しかし、そこにはとても大がかりな仕掛けがあります。なぜなら、エゴの存亡がかかっているからです。すべての人が愛を選択してしまうと、この世には罪はないということがばれてしまい、その結果もうエゴは生き続けていくことができなくなります。

それはエゴの消滅を意味します。それはエゴが発生した時点まで戻り、すべては一つという愛の想念の中に我々の個人としての意識は消えていくことを意味します。

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