見捨てられる恐怖を強く内在していると、相手の期待に応えようとする人生になるという話しは以前にしました。
それは一般的に誰であれできることなら相手の期待に応えたいと思うものですが、そのレベルが尋常ではないのです。
どんなことがあっても、どんな犠牲を強いようとも、何とかして期待に応えなければと頑張るということです。
ところが、本人は自分が想定していることが間違いなく相手の期待に沿うものであるという勝手な思い込みに基づいているということに気づきません。
こうすることが相手の期待に沿うものだという判断は、実は数十年前の幼児の頃の親の気持ちに沿うのはこうだからという前提から導いているに過ぎません。
そんな昔の、しかも特定の人、母親や父親が相手の場合に作り上げたルールを基にしているのですから、大人の現在の自分の環境ではそのまま使えるとは限らないのです。
しかし本人はそんなことはおかまいなしに、きっとこれが相手の期待に応えられるやり方なんだとの独りよがりを貫こうとしてしまいます。
結局それは、相手にとっての本当に期待通りのものではないのですが、本人にはそれが分かりません。
ですから、相手に何でそんなことするの?と不満を言われたら、びっくりしてしまうのです。それだけでなく、大抵の場合には怒りがこみ上げてきます。
なぜなら、誠心誠意相手の意向に沿うようにとがんばった結果が不満を言われてしまうわけですから、これ以上どうすればいいのという気持ちになるからです。
そうやって自分一人で悪循環の中で困り果ててしまうのです。相手の本当の気持ちはその都度聞かなければ分からないし、聞いたとしてもその答えが相手の本心かどうかも分かりません。
結局、相手の期待通りに行動することは不可能であるということです。一番勘違いするのは、相手がありのままの姿を見せて欲しいと願っているということに気づかないことです。
いくら相手がそう言ってもその言葉を信じられないのです。子供の時に作ったデータベースにはそんなことは一言も書いてないからです。
自分は相手の期待に応える必要はないと分かることがとても大切です。その先にこそ、本当の意味で相手への献身という愛を与えるという幸せが待っているのです。