結果に意味はない

冬季オリンピックの開催中ですね。テレビのニュースなどで時折結果を見る程度なのですが、オリンピックは参加することにこそ意味があると言われた時代もありました。

しかし、報道のされ方などを見ていると結果がすべてだと明らかに言っているように思えます。金メダルを獲った選手と30位の選手では確かに扱いが違うのは仕方のないことですね。

その選手との人間的な係わりが少なければ少ないほど、結果がすべてという方向に行ってしまいます。なぜなら、結果以外に評価するような情報が少ないからです。

それがもしも、選手が身内であれば結果よりも本人の努力や練習の過程などを評価できますし、場合によっては怪我をせずに競技を終えてくれたらそれで嬉しいと思うかもしれません。

このように、応援の仕方、つまり結果重視かそうでないかというのは、応援する側と選手との係わり具合によって違ってくるということです。

これは何もオリンピックなどの競技に限ったことではありません。この社会における他人の評価というものも全く同じなのです。

例えば、ノーベル賞を受賞した人は当然高い評価をされて当然なのですが、もしかしたら身近で一緒に研究をしている人たちからは敬遠されているかもしれません。

私達は人を愛の目で見るときに、その人が成し遂げた成果や結果に捉われなくなります。幼い子供が何もできなくても愛しいのはそういうことです。

我が子を愛しいと感じるときに、100点を取ることができたからという理由ではないはずですね。かけっこでビリであろうと、愛しいのです。

自分が誰かのことを見るときに、その人のことをほとんど知らなければ成果を基に評価するしかありません。だから結果が大事というように短絡的になってしまうだけです。

そのことを否定的に思う必要はありませんが、そこには愛はないということを覚えておくべきです。そうすれば、パートナーを見つけるときに間違うことはなくなるはずです。

結果には本質的な意味は一つもありません。愛は結果に特別な意味を見出さないという事です。愛の対象は相手の存在であり、相手の中にある愛そのものだけなのです。