何も分かってはいない

右も左も分からないような幼子と、成長した私達とで、一番の違いはどこでしょうか?それは幼子は自分が見ているものが分からないということに気づいているということです。

その分からないものばかりの中で、自分に対していやな感覚をさせるものについて恐怖を抱くようになるということです。

私は幼いころに、テレビでボクシングの試合を放送しているのを見ると、「喧嘩じゃないよ、ボクチング」とよく言っていたそうです。

きっと、初めて殴り合っている姿をみて何事が起こったのかと怖くなって、親に聞いたのでしょうね。その時の親の台詞を聞いて安心したため、見るたびにその言葉を唱えていたのだと思います。

このように幼子は自分が理解できないということに気づいているために、素直に教えを請うわけです。そして上の例のように本当のことが分かって恐れなくなるのです。

一方私達は、通常自分が見ているものを理解できているという認識で生活しています。それは幼い頃から何度も体験し教えられることによって学習してきた成果ですね。

それだけでなく、自分は正しく理解していると思い込んでもいます。そんなに自分を過信してはいないと思っている人であっても、これは同じなのです。

地球が太陽の周りを回っているのか、その逆なのかはよく分からないという人であっても、人とはこういうものに違いないという独自の確信を持っているのです。

ところが学んで来たその学習の内容が歪んでいたとしたらどうでしょうか?認めたくないですが、その場合は自分が当たり前だと思っていることを訂正せざるを得ません。

私達が学習してきた事象というのは、自分自身の内面を外に向けて投影したものばかりです。ですから、自分に都合のいいものばかりを題材として学習してきてしまったということに気づくことです。

全く公平とは言い難い学習過程ばかりを経験してきてしまったのです。もう一度、幼子の頃の素直な自分に戻って、自分の解釈を白紙に戻すことです。

本当は自分は何も分かってはいないという意識に戻るのです。そうして、自分の親の代わりにすべてを正しく見ることができる聖霊(自分の中の愛の心)に聞くことです。

本当のことを理解することができれば、幼い頃の私のように、作りこんで来た恐怖を手放すことができるようになるのです。