信じることが真実になる

「奇跡のコース」の中では、本当の自分はスピリットだと言っています。私達は、そのことを忘れてしまったまま、この今の自分が本当の自分だと信じ込んでいるというのです。

しかし急にそんなことを言われても、はいそうですかと納得できるものでは勿論ありませんね。なぜなら、これが自分だと信じているからです。

ただしここで知っておくべきとても大切なことがあります。それは、私達は信じるものが正しいし、それが事実であり、それこそが本当だと思い込むということです。

ところが、一般的に私達は真実や事実というものは自分が信じることとは別のものだと思っているのです。

つまり、自分が幼い頃に地球が丸いとは信じてなかったとしても、地球が丸いという事実は変わらないということです。

自分が肉体を持った人間として生きているという事実は、別に信じているからそうなんだとは全く思っていないのです。

自分が信じる前にもうすでにそこにそうした事実が横たわっているじゃないかと思っているのです。しかし、そのことをよくよく見つめてみると、やはりしっかりと信じている心があると分かります。

意識的に信じていると自覚できるものとは、事実や真実が明確ではないものに限るのです。逆にそれが明らかだと認識しているものは信じる対象ではないと思っているということです。

だから、例えば神の存在については目で見ることができないので、信じるか信じないかという対象となるわけです。

自分が将来お金持ちになれるかどうかは明確ではないので、信じるか信じないかという範疇となるわけです。

ここが一つの盲点なのです。つまり、自分にとって明確であるものであっても実は信じているということなのです。

そして信じているからこそ、自分にとっては明確な事実や真実として受け取れるのだということです。だとすると、自分が身体を持った人間だということを信じるのをもしもやめることができたらどうなるか、興味深いとは思いませんか?

裁く目的

私達は、一分一秒ごとに誰かを裁いているといっても過言ではありません。つまり、それと気づかずに何度となく裁き続けて生活しているということです。

裁いている時というのは、大抵、相手の言動にイライラしたり、理不尽な思いやはっきりとした怒りを感じてみたり、恐れを感じたり、悪者と断定したり、拒絶をしたりと様々な反応をします。

裁くために我々は自分の知覚というものを歪ませているのです。それは生後まもなく開始して、少しずつ歪んだ知覚を自分に学習させて成長していくのです。

つまり、相手をそのままに見ようとするのではなく、常に裁きの目を通して見ようとするのです。それこそが歪んだ知覚であるわけです。

なぜそれほどまでにして、長い時間をかけて知覚を歪ませて裁こうとするのでしょうか?その目的、メリットとは一体何でしょうか?

相手を裁くということは、相手に罪があるという判断を下すということです。罪というと、言葉が重い印象を受けますが、要するに否定的に見るということです。

その目的は、自分を防衛する体制に入らせるためなのです。防衛状態に入ると、上記したような様々な反応を起こします。

攻撃的な怒りを感じてみたり、拒絶して遠ざかろうとしたりするわけです。どちらにしても、相手が悪くて自分は悪くないという状況を作り出すのです。

つまり、相手に罪があると判断することで自動的に自分には罪がない、あるいは自分の罪を忘れられるというメリットがあるのです。

ということは、自分の中にある罪悪感を隠すということが一つの大きな裁く目的であると言う事ができます。

私達は自分の心の奥に潜ませている大きな罪悪感を感じないように生きるために、裁くという行為を繰り返しているのです。

その目的は、その罪悪感を温存し続けることなのです。見ないようにしているものは、決してなくなることがありません。

そしてその最終的な目的とは、自分を個として周りから孤立させることなのです。そうやって、分離のこの世界が続いていくというわけです。

来月より次期講座が始まります

当オフィスでは、昨年よりいくつかの講座を開講しておりますが、来月6月よりまた新たな講座がスタートします。

従来どおりの「ヒーラー養成講座」及び「カウンセラー養成講座」と並んで、新規に「ヒプノセラピスト養成講座」も始まります。

また、「親子関係を改善する心理講座」と「人間関係を改善する心理講座」は、一つにまとまって「人間関係を改善する心理講座」として再スタートします。

講座を受講されているみなさんは、概ね何らかの内的な変化を自覚されているものと思います。これらの講座は、単に知らないことを聞いて学んでいくというだけではないからです。

講座で話し合う内容そのものが、各自の内面を深く見つめざるを得ないような状態になってしまうものばかりだからです。

しかも、通常のセッションのような自分とセラピストの一対一の関係ではなく、自分以外の受講者の発言や内面を見聞きすることで、思わぬ気づきを得ることもできるのです。

見ず知らずの他人の居る席で自分の内面を話すことなどとてもできないと思っている方も多いと思います。

しかし、何度も同じメンバーで繰り返し心の話をし合っていくうちに、自然と心が開かれて気がつくとふと楽に自分のことを話せるようになっているのです。

また、心理講座以外のすべての講座は、実習を重要視しているため、とても貴重な体験をすることが可能なのです。

個人セッションと比べても費用も割安ですし、このようにいいことずくめの講座です。みなさん、是非勇気を持って参加されてはいかがでしょうか?

きっと多くの価値ある気づき体験を何度もされると思います。ご一緒に学んでいきましょう。講座でお会いできるのを楽しみにしております。

裁かない生活

今まで何度となく「裁き」についてこのブログで書いてきました。なぜなら、それだけ裁かないでいることが難しいことだからです。

そして、裁かないでいられたら、自分の心はそれだけ心地いい状態でいられることも確かなのです。ですから、なるべく裁かないでいられるに越した事はないですね。

最近少し、以前と比べて裁かないでいる方法を体得することができたように感じています。そうは言っても、ほかの人からは気づいてもらえるようなレベルではないはずですが…。

自分の中での変化というのは、ほんの少しでも裁いているときには、ああ、裁いているということを自覚できるようになったことです。

今まで、無意識に裁いていたような小さなことでも、きちんと意識の上にあげて見定めることができるようになったと感じています。

この変化のきっかけとなったことは、奇跡のコースを読みふけっていたときに、相手の知覚が歪んでいると知覚する自分の知覚こそ歪んでいる、ということが明確になった瞬間があったのです。

勿論、理性ではそんなことは分かりきっていたはずなのですが、そのことがとてもしっかりと腹の中にストンと落ちたということなのでしょうか。

それ以来、自分が裁いているということに敏感になったように感じるのです。それは単に裁きたくないという意志というより、裁けるはずがないという感覚かも知れません。

この歪んだ知覚で裁こうとしている自分を客観視したら笑えてしまうというような感覚でしょうか。理由はともかく、そういう変化を今実感しています。

裁いていると自覚していても、どうしても裁いてしまうというのなら、それはそれで仕方ありませんが、気がついたら裁くのを止められるのだとしたら、気づくことの価値は充分にあります。

あとは毎日の練習が大切なのは言うまでもありません。いつも、自分の中の裁こうとする意識を見張っている訓練をすることですね。

そして、裁かない毎日を過ごせるようになったら、本当の幸せを手に入れることも夢ではなくなります。みなさんも実践してみてください。

印象的な昔の映画 その2

やはり子供の頃にテレビで見た洋画でものすごく印象深かったものがもう一つあるのですが、この映画のことは以前ミクシィの日記にも書いたことがあったと思います。

内容の一部しか覚えていないのですが…、ある女性が何かの病気で入院しているのです。ところが、その病院の医者や看護士さんたちがものすごく意地悪だったり、危険な人たちばかりなのです。

無理やり、必要もないような薬を飲まされてしまったり、危ない注射を打たれたりと、本当にありえないようなひどい病院なのです。

たまにお見舞いにくる父親にそのことを告げても、まったく取り合ってもらえず、何度も病院を変えたいと伝えても、聞き入れてはもらえないのです。

彼女は本当に家族に対しても失望していて、もう何もかもがいやになってしまっていました。どうして、こんなひどいことが実際に行われているにも関わらず、誰にもそのことがばれないのか不思議だったのです。

見ている自分も、何てひどい病院なんだろうか、どうして家族はもっと真剣に彼女の訴えを聞いてくれないのかとイライラしたと思います。

ところが、ある日の朝目が覚めてみると、何だか周りの様子がいつもと違うことに彼女は気づくのです。あれほど、悪意のあった医者が今日は妙にやさしい人に感じるのです。

いつもいじわるばかりをしてきていた看護士さんたちも、何だか別人のようにごく普通の看護士さんたちに思えるのです。

そのことを周りの人たちに話してみると、医者や看護士さんたちが、「おめでとう、あなたは回復しましたよ」と言って喜んでくれるのです。

実は彼女が入院していた場所は精神科の病棟だったのです。心が錯乱していた彼女にだけは、あのように周囲の人たちのことが歪んで見えていたということだったのです。

いつも見舞いに来てくれていた話を聞き入れないひどい父親は、実は彼女のやさしいご主人だったのです。二人はにこにこしながら、その病院を退院していきました。

この映画もとても考えさせられるものがありますね。自分の知覚というものが正しいと思い込んでいる人間の盲点を深く見つめさせられた思いがしました。

印象的な昔の映画

確か小学生の頃だったと記憶しているのですが、学校から帰ってくるとテレビで昔の洋画を放映していることがあって、よくそれを見ていたことがありました。

その中で、一つとても印象に残っている映画があって、40年以上も前に見たにもかかわらず今だに忘れていません。

それは確かアメリカのギャングが主人公なのですが、悪の代表みたいな主人公がとうとう警察に捕まってしまい、死刑が決定しているのです。

そこに、彼のかつての友人であった牧師さんが留置所に面会にやってきて、今までの罪を悔いてまっとうな心になってあの世に行きなさいと説得するのです。

しかし、彼は最後まで悪のヒーローのまま死ぬといって聞きません。そして、とうとう最後の日、彼が処刑される日がやってきて、牧師さんが彼に訴えるのです。

最後の最後に、お願いがある。君をヒーローだと思って悪の道に行こうとする子供たちが君の処刑される姿をテレビで見ている。

だから、最後に怖がるみっともない姿をわざと子供達に見せてやって欲しい。そうすれば子供達が悪の道に行かずにすむと言うのです。

彼はそんなことできるわけもないし、したくもない。俺は最後まで悪党のヒーローのまま死んで行くんだと言って聞かないのです。

牧師はあきらめて、帰るのです。そして、とうとう彼が処刑されるときがやってきて、それをテレビで放映するのです。

彼は最後の最後、処刑される寸前になって、急に殺さないでくれ!と泣き叫んで、みっともない姿をみんなに晒したのです。

それを見ていた牧師さんが涙を流してその映画は終わりになるのですが、彼の心のうちを観客に委ねる映画なのだと思いました。

死ぬ直前になって一度だけ愛の行動をしようとしたのか、それとも本当に死刑の恐怖に負けてみっともない姿を晒してしまったのか、どっちなんだろうかと…。

でも、牧師さんの涙がすべてを語っているのだろうなと思ったのです。悪党の彼が一番したくない惨めな姿を子供たちに見せるという愛の行為だったのだろうと。

自分を守ろうとしない愛の行為というのは、本当にすばらしいと思います。とても感慨深い映画でした。

何もしない時間

以前、このブログで「何もしない」でいることの心地よさについて書いたことがありました。それは何もする必要がない、何もしなくてもいいということの気持ちよさ、ありがたさについてでした。

ところが、そうした時間というのはそうそう長く続けていられるものではないのです。しばらくすると、手持ち無沙汰に感じるようになったり、あれこれと頭が動き出してしまったりします。

なぜ、長い時間その何もしないでいる心地よさを感じていることができないのでしょうか?それは気持ちよさの奥に隠された自分の本音の部分が顔を出しそうになるからです。

気がついてしまうと都合が悪いとして隠しているものが、そういう何もしない時間を過ごしているうちに徐々に表へ出てきそうになるのです。

その時にじっとしていることが次第に苦痛に感じられるようになってくるというわけです。さっきまでのあの心地よさとは180度違うイライラとした感覚になってしまいます。

その結果、何もしない心地よさは早々に店じまいしてしまい、またあれこれと何かをし出してしまうことになるのです。

私は最近、その何もしないでいる時間というのをわざと作ってあげて、しばらくして手持ち無沙汰感が出てきたなと思ったときに、コースの勉強をするようにしています。

そうすると、心のどこかでそんなの読みたくないなと拒絶している意識がいるとしても、比較的スムーズにテキストを読み始めることができるのです。

この作戦はいろいろな事に流用することができるはずです。やらなければならないと思っていることがあって、どうもそれを始められずに居るという場合があると思います。

そうしたときに、この何もしないでいる時間を作ってあげて、イライラ感が出てきたなと思ったときに何も考えずにそのやらなければと思っていたことに手をつけてあげるのです。

きっと抵抗なくやり始めることができるはずです。そういえば、このブログを書くときにも、何もしないでじっとしている時間から入るみたいです。みなさんも試してみて下さい。

幸せな心

以前にもどこかで書いたことがあったかもしれませんが、私の父親が1歳か2歳くらいのときのほほえましいお話しです。

その頃、年老いた曽祖父(ひいじいさん)が余命いくばくもない状態で布団に寝ているところに、幼い父親は勢いをつけて突進して寝ている曽祖父に体当たりをしたのだそうです。

曽祖父が怒らないことをいいことに、何度も何度も繰り返したそうです。それを見ていた家の者はヒヤヒヤしているのですが、曽祖父が「いいよ、いいよ」というものだから黙って見ていたそうです。

父親の実家は代々医者なので、そういった安心感もあったのかもしれませんが、常識的には何かあってはいけないので反射的に「やめなさい!」と止めるはずですね。

この話しを聞いて、その曽祖父、会ったことのない私にとっての曽曽祖父は安らかに永眠したのだろうことがイメージできます。

許しとはそういうことなのだろうと思うのです。自分の身体の心配をしなくなった気持ちでは、かわいいひ孫が喜んでいることこそが自分の幸せという思いだったのだと思うのです。

ここには全く犠牲的精神のかけらもありません。相手の喜びだけを素直に自分の喜びとして感じることができるのが愛ですね。

死ぬ直前であろうと、そういう愛の気持ちになれた人は本当に幸せだと思います。その人の目は相手の罪を見なくなった目なのです。

相手が幼いひ孫だからかもしれませんが、同じ見かたを誰に対してもできるようになれたら、それは本当に幸せな心の状態になれるでしょうね。

自分が本当に幸せになりたいのなら、そんなの不可能だとあきらめずに少しでも近づけるように意欲を持って生きることが大切だと思います。

ホワイトボード

昨年カウンセラー養成講座を開始するに当たって、ホワイトボードを購入しました。セッションルームになるべくモノを増やしたくないという気持ちはあったのですが、必要だと思って思い切って購入しました。

その後講座で使ったのは勿論ですが、一般の個人セッションでも頻繁に使うようになりました。今まで言葉だけで説明していたものを、図解できるようになったことでより分かりやすく伝えることができるようになったようです。

ホワイトボードはそこそこのサイズのものなので、本当はない方が掃除などしやすいのですが、実はそれにも増して有効な使い道を発見してしまいました。

それは、自分の心に浮かんだ大切なこととか、分からないことなどをすぐにボードに書いてみるのですが、そうするとそれがかなり明確になって心の整理がつくのです。

これは勿論プライベートな時間にやっていることなので、私が独りで部屋の中をうろうろ歩き回りながらホワイトボードに何やら書いている姿は誰にも知られていません。

文字にしたり、図にしたりするというのはとても効果的だということを今更思い知った感じです。小学校の頃から中学、高校、大学とずっと黒板やホワイトボードを先生が使うのを目の当たりにしてきたのに、その有効性には気づいてなかったということですね。

ノートやパソコンでもいいと思うのですが、ホワイトボードの一番便利な点は、大きな文字で書くことができるので部屋中から見ることができるということです。

これ、とても大事だなと思って消したくないときには、デジカメで撮ってパソコンに保存しておくこともできて、それもとても便利です。

頭の中だけでじーっと何かを考えているよりも、余程すっきりとしますし、本当に買ってよかったと今は思っています。

ネットで調べてみると、いろいろなサイズのものが比較的安価に入手できるみたいですので、もしも機会があったら入手してみるのも手かなと思います。

攻撃への対処法

みなさんは自分は何も悪くないのに、どうして相手は自分を攻撃してくるのだろうと思ったことはないでしょうか?

きっとそうした理不尽な経験というのは、誰でも一度や二度はあるはずですね。このようなことに遭遇した場合に、どう対処すればいいでしょうか?

攻撃を受けていい気持ちになる人はいないでしょうから、一番手っ取り早いのはそこから退散するということかもしれません。

負けるが勝ちという言葉もあるくらいですし、戦わずしてさっさと撤退することでそれ以上その相手と関わらないでいられるので、この方法は好みの問題は別として効果ははっきりしています。

でも相手が職場の同僚や上司だったり、家族などの場合には簡単に逃げるというわけにもいかないはずですね。いやでもまた明日も顔を合わせなければなりません。

逃げられない場合には、相手と面と向き合って勝負にでるか、あるいは顔で笑って心で泣いてという感じでやり過ごすかということになります。

理不尽な人を相手取ってどんなに頑張っても、うまく解決したとしてもそれはきっと一時のものでしかなく、いずれまた同じような攻撃を受けることになるでしょう。

また、むりやり表面的に相手に合わせてしまう方法は、そういうことを何度も重ねていくうちに、我慢という自己犠牲が怒りに変わって心が病んでいってしまいます。

どちらもあまりお勧めできる方法とは言えません。うまくできるかどうかは別として、根本的な解決方法をお伝えしますね。

それは、理由がどうであれ、あなたが攻撃を受けるということは、あなたの心の中に攻撃したいという気持ちがあるということを表していると知ることです。

まずそれが第一ステップです。特に攻撃的な気持ちを隠し持っている人は、このステップを簡単には納得できないかもしれませんが、納得するしかありません。

相手は単に自分の隠し持った攻撃的な気持ちを見せてくれているに過ぎないということをしっかりと理解することです。

そうすることで、ただ攻撃を受けて傷ついてしまったという被害者の立場から抜け出すことができるのです。

そして次に、相手の攻撃的ではない好ましい部分をイメージして、その感覚で相手を包んでしまうのです。それが本来の相手の姿だとするのです。

それがうまくいくと、相手の顔つきまで変わって見えてきます。そうすると、自分の心に暖かなものがこみ上げてくるのを感じることができます。

要は、あなたが相手をどう見るかによって、その通りに相手は変貌するのです。信じがたいかもしれませんが、無理もありません。

それでも、あきらめずにこうした作業を続けていくと、いつかきっと成功させることができます。その時の嬉しさは格別なものがありますので、気長に試してみて下さい。