罪悪感の海

気が付いていようといまいと、私たちの心は深い海の中に沈んでいるようなものだと思って下さい。それはとても重みのある、ずっしりとしたまるで水銀のような海水でできています。

実際は水銀などではなくて、罪悪感という思いで作られた海なのです。その海の深いところに私たちは見たくない自分自身を隠しているのです。

罪悪感とは自分への駄目出しをする意識ですから、その中には否定せざるを得ないような自分ばかりが入っています。未熟さや情けなさ、惨めさや醜さなど、あるいは憎しみや絶望などです。

そうしたものを他人からも自分からも隠そうとして、その罪悪感の海の中に沈めてしまったのです。その中には、とても言ってはいけないような本音も含まれているかもしれません。

そうしておいて、海上に出ている自分がニコニコとして周りの人達とこの社会で暮らしているのです。海上に出ている表面的な自分と海の中深くに沈まされている自分とはかろうじて、細い管のようなもので繋がっています。

その管を通して、空気やエネルギーを送りつつ、互いにほんの少しだけのコミュニケーションを気付かない程度にはしているのです。

海上の自分が理不尽な思いをしたときには、腹も立つのですが、怒りを露わにしてはいけないという罪悪感の力によって、自分の言い分と怒りはその海の中にある心の中へと伝送されてしまわれてしまいます。

海上にいる自分が何食わぬ顔で淡々と生活ができるのはこうしたメカニズムが働いているからです。このような生活を何年も続けていると、海の中に沈められて隠したつもりになっているネガティブな自分が肥大してきます。

いやな思いを我慢するたびに大きく成長してしまうからです。そして、時期がくると、それは爆発するように海上へと向かうのです。但し管が細いために一度に出てくることはできません。

その時になって初めて自分の心に何か大きなものが隠されていると人は理解します。薄々は感じていたものの、それは都合の悪い自分であるために気付かないでいられたのです。

そこで人は癒しが必要なのだと気付くのです。癒しは二つのことを同時に平行して進めていきます。一つは罪悪感を感じてしまう裁く心が拠り所とする自分の正しさを手放していくのです。

そうすると、罪悪感でできた海水の圧力が減少するために、その中に置かれて固まっていた自分の心が少し緩んできます。そして、二つ目の癒しは、その緩んだ心の中の怒りや本音を開放してあげるのです。

この二つの相乗効果によって、比較的無理なく本来の自分が海上に出てきてくれるようになるのです。それは言葉では表現できないくらいに、気持ちのいいものです。

そうやってようやく、自分は生きているという実感を得ることもできるのです。本来の自分で生きるとはそういうことなのです。

自分の正しさを手放すということが本当に大切なことだということが分かっていただけると思います。