明け渡し

奇跡のコースでは、私たちの役割はたった一つしかないと教えてくれています。その役割とは、聖霊(自分の心の中にある真実の部分)に自分自身を明け渡すということ。

私たち人間にはさまざまな能力があります。思考することや、話すこと、身体を使って運動したり、何かを感じることなど。

そうした自分の能力を丸ごと聖霊に委ねること、どうぞ使って下さいと聖霊に対して明け渡すことが、私たちの唯一のするべきことだと言うのです。

そのためには、自分にはいろいろなことが分かっているという思い込みを手放すことがどうしても必要になるのは明白です。

なぜなら、自分の能力で理解していると思っていること、独自の判断や思考によって実行することができるという思いをもったまま、明け渡すなどというのは到底不可能だからです。

私たちが、自分には何が正しくて何が間違っているかを判断できると信じていることは、聖霊からするとたった一つの基本的な間違いから生じることだと分かっているということ。

それは、私たちの本当の姿、本当は何者なのかということについて、大変な間違いを犯している、ただその一点だけが訂正されるべき唯一の間違いであるということです。

それ以外のことはまったく取るに足りないことであり、つまり正しいとか間違っているということを判断することさえ、意味のないことだと言うことなのです。

だとすれば、私たちが有しているすべての能力の使い方自体を改める必要があると分かります。自分には本当のこと、真実についてはさっぱり分かってはいなかったと認めること。

その上で、すべての真実を知っている聖霊に自分自身を明け渡すこと、そのことによって聖霊の邪魔をしないで済むことにもなるのです。

ということは、聖霊は自分の役割を私たちを通して実行することになるのです。間違っても、聖霊の役割を自分たちの役割と混同しないようにしたいものです。

流れの中で

私たちは、自分のことを尊重することは大切なことだと信じていますが、そこにはもしかすると大きな間違いが潜んでいるかもしれません。

それは、自分という存在は単独で価値があると思おうとすることと同じように思えるからです。実は、私という存在というのは与えられたものを与えるという連鎖の途中にあるということ。

その流れを堰きとめてしまうと、自分を含めたすべての価値がなくなってしまうのです。与えることは与えられることと一つであると分かれば、手に入れることで満足するという発想こそがその流れを止めてしまう元凶であると分かるはずです。

この時間の世界では、与えることが先に起きて、その後に与えられることがやってくるように知覚するようですが、本当は同時です。そしてその流れの中にこそ、自分を含めた価値があるのですね。

このことは、この世界の経済のメカニズムにも同じような部分があると見て取れます。つまり、自分や家族の未来を守るためにせっせと貯金をするということは、お金の流れをそこで堰きとめるという面があるのです。

経済の活性化はお金の流れをよくすることが絶対に必要なことなのは言うまでもありません。日本という国は世界一の借金大国なのですが、国民の貯蓄という面ではとても金持ちでもあるのです。

それは、個人の幸せを重んじるあまりに、一人ひとりが防衛にエネルギーを注ぎ込み過ぎてしまい、もっと大きな有機体としての国家などのことを疎かにしてしまっているということです。

それは実は本末転倒であり、有機体を全体としてみたときに、その中を新鮮な水が流れ続けることによってのみ、私たちは意味があるということを思い出す必要があるのです。

人との活動的な関係性の中にこそ、与え与えられるという流れを継続することができるのです。そこにこそ、私たちの全価値を見出すことができると思うのです。

そしてそれは、一人ひとりが満ち足りた心でこの人生を生きるということに直結すると思うのです。それを忘れないように、この現実の世界で自由に泳いでいきたいものです。

一つの心

十分に自己愛を見出すことによって、私たちは自立した人生を送ることができるようになります。何よりもまず自分の心や身体を大切にして、自己犠牲を排除することによって快適な人生になるわけです。

しかし、個体としての個人が自立して他と明確に区別されるようにして存在するためには、相当に我が身を守り続けることが必要なのです。

そのためには、自分と他人の違いというものが是非とも必要となります。人はそれぞれの差異によって、比べることが可能となるからです。

本当のことを言うと、そうしたたゆまぬ努力、他人とは違うということに対する警戒を怠らないようにエネルギーを使わなければ、個の存在は怪しいものとなってしまうのです。

それは、例えば透明な水の中にさまざまな色のインクを一滴ずつ垂らすとすると、しばらくの後にすべてのインクの色が混ざり合って、水全体が一つの色に溶け合ってしまうことに似ています。

もしも、そうさせずにおこうとしたら、つまり一つの色のインクが他の色のインクと混ざらないようにするためには、それ相当の仕組みを用意しなければなりません。

インクごとの比重を変えるとか、インクとインクの間に油のような溶け合わない層を作っておくとか、それは大変なことですね。

沢山の色のインクが、一つの水槽の中で互いに交じり合わずに固まりのまま、互いに別々の場所を占有しているさまを想像してみてください。

なかなか綺麗なものを想像できるかもしれませんが、その裏には巧妙な仕掛けがあるということです。私たち人間についても全く同じことがいえるのです。

個人としての自分が他と混ざらずに個として存続するためには、それぞれの違いを識別して、比較して、それを競争することで自分を防衛するという必要があるのです。

それが人類がずっと続けてきた戦争であるし、常に誰かを間違っていると裁こうとする思いであるとも言えるのです。

本当は、そうしたことを潔く手放してしまえば、すべてのインクが交じり合うように、私たちの心はたった一つだったということを思い出すことができるはずなのです。

「すべて」=無限

全体、あるいは「すべて」という概念は、無限でなければなりません。なぜなら、「すべて」というものが有限であるとしたら、その限界の外側というものを意識しなければならなくなるからです。

従って、「すべて」ということは限りがなく、ありとあらゆるものを包含するということ、「すべて」に含まれないものはないということです。

当たり前と言えばそうなのですが、しかしよく考えてみると私たちには、この「すべて」の正体である無限ということが本当には理解できません。

なぜなら、自分という存在を有限のものだと信じているからです。有限である自己が、無限について理解するということは原理的に不可能なことです。

従って、私たちが理解しうる無限とは、有限のものが沢山集まった末にあるものだという明らかに間違った概念に基づいているとも言えます。

私たちは心情的にも、無限は困ると思っています。もしも宇宙の広さが無限だとすると、それは本当に理解を超えてしまうことになるのです。

しかし、そのくせ有限のものについては、やはりその限界の向こうがあるはずだから、それは「すべて」ではないということも分かっています。

このようにして、私たちのマインドの中ではどうしようもない矛盾が生じているということです。何かがおかしいと結論付けざるを得ません。

何がおかしいのか、それは最初に戻って自分を有限の存在だと信じてしまったことにこそ、元々の矛盾の原因があると考えるのが順当です。

ということは、自分を無限の存在だということに気づくことができれば、矛盾を抱えて苦しむこともなくなるわけです。

そしてそのことを本当に思い出すことができたら、有限という概念には何の意味もないということにも気づくのかもしれません。

真の自己を見ると、それはいつも自分が無限であることを教えてくれるように感じます。その感覚を疑わずに、より明確に浸ることができるようになりたいものです。

真の民主主義

先月の初めだったと思いますが、国際テロ組織アルカイダのリーダーであるウサマ・ビンラディンがアメリカの部隊によって殺害されましたね。

ビンラディンは、アメリカで起きた9.11同時多発テロを指揮したリーダーとして、国際手配されていたわけですが、アメリカ側は彼を追い詰めて殺害するまでに約10年かかったということになります。

そして、聞くところによると、彼は殺害されたときには家の中にいて、武器を持ってはいなかったという情報もあるようです。

それが本当だとすると、アメリカの部隊、これは背後にはアメリカ政府があるわけですが、丸腰の人間を殺害したということになり、民主主義の精神が揺らいできます。

攻撃のできない相手をその家族も含めて、全員射殺してしまったということは、彼の血筋を一刀両断したかったということは確実です。

きっと彼の子供たちは、裁判になれば無罪となって、ビンラディンの意志が受け継がれて、これからもアメリカ国民がテロの標的になる可能性が大きくなることを危惧したからでしょう。

確かに、アメリカ政府の考えを理解することはできますが、日本を含めた民主主義の国家としてこのようなことが容認されるはずはありません。

勿論、正当なプロセスを経て、裁判を行ったうえで死刑が宣告されるならいいのですが、いかなる事情があろうとも、生きたまま捕捉することができる場合での殺害となると、大問題です。

今後、この事件がアメリカ国民によってどのように扱われていくのか、単に国民の敵をやっつけることができてよかったということで済んでしまうのか、とても気になるところです。

彼らの民主主義が本物なのか、ニセモノなのか、それが暴かれることになると思います。そして、我が日本は大丈夫でしょうか。

もしも、この事件が日本で起きたとしたらどうなのか、一度じっくり考えてみることも無駄ではないと思っています。

貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)

今までに我々人類が作り上げてきた物語には思わず引き込まれてしまうような興味深いものがありますね。それは、神話だったり小説や童話にいたるまで様々なものが数多く生み出されています。

その中には、貴い生まれの者が流れ流れて遠い国までさすらうといった種類の話しが沢山ありますね。そういう物語のことを、貴種流離譚(きしゅりゅうりたん)というそうです。

貴種とは、つまりは貴い生まれ、王子や王妃などに代表されるような位の高い家柄の人のことです。そういう人(子供の場合が多い)が、流離の旅に出る譚(お話し)だということ。

辞書には、次のように書いてあります。「本来高貴な生まれの子女が、事故や陰謀により陥った不幸な境遇で育ちながら、旅・冒険・活躍をする」、と。

主人公自身は、自分の家柄のことなどは知らないままに平民の中に混じって苦労しながらも、徐々に活躍していくといったものです。

「奇跡のコース」のテキストの中には、この貴種流離譚のことを思い出させるような内容が時々出てきます。例えば、次のような表現があります。

『分離状態とは、いわばきわめて重要なものから小さなものへと身を落としたようなものだ。』我々人間というものは、本当の自分の姿のことを忘れて、卑小なものへと身を落として生活していると言っているのです。

本当の自己とは、神の子としての真の神聖さを持っているし、分離という悪夢から目覚めたときにはすべての人は一つの心として分かち合っていることを思い出すことになると言っています。

私たちのこの人生という、冒険活劇が一体いつまで続くのか、それは一重に私たち自身が本当の自分のことを思い出そうとするかどうかにかかっているのです。

そしてそのときには、貴種流離譚のような物語の最後のように、本当の心の平安を思い出し、すべての苦しみから解放されることになるのでしょうね。

全体性と個体性 その3

昨日の続きです。

私たちの身体を作っている60兆個のすべての細胞には、身体全体の情報である遺伝子が一つの例外もなく組み込まれていて、そのために個体性と全体性がみごとに調和しているというお話しをしました。

一つひとつの細胞がただそれ自身のために生存しているのではなくて、全体を生かすためにだけ生命活動を続けているということ。

そして、そのことは私たち一人ひとりの人間についても同じことが言えるはずだということです。それなのに、私たち人間は個々の命こそが最も尊いものであると勘違いしてしまっているのです。

その理由は、細胞にとっての遺伝子に当たる全体(この世界、あるいはこの宇宙)に対する情報(知識)を失ってしまったと思い込んでいるからなのだということです。

もしも、その知識に目覚めることができたら、自分の使命が何なのかということを完全に思い出すこともできるようになるはずなのです。

それは、すべての人々に共通に分け与えられているもの、完全に分かち合うことができるものを探すことによって、全体に対する知識を思い出せるはずだということ。

もしかしたら、それはある種の神聖さであったり、純粋な愛の心であると言えるのではないかと思うのです。

なぜなら、そうしたものこそレベル付けや段階というような概念がないものだからです。度合いというものがある場合には、完全な共有は不可能になってしまいます。

目の前にいてくれる、その人の中にそうしたものを見出すことができたら、それが全体性への目覚めなのではないかと思っています。

そのときにこそ、私たちは自分という個体が100%全体のためにあると分かるのです。自分のために生きるのではなく、全体のためにこその個体であると気づくということです。

それは本来の自分、本当の自分の姿を思い出すことでもあり、そのときにはこの世界での自分の生のあり方が根本から変わってしまうかもしれません。

そして、それはきっと心からの平安、完全に満たされた心の状態に一瞬にして到達することができるのではないかと信じています。

全体性と個体性 その2

昨日の続きです。

私たちの身体を作っている60兆個の細胞の一つひとつが、個体としての機能を従順に果たしながらも全体としてうまく機能しているのは、それぞれが身体全体についての設計図である染色体という遺伝子情報を基にして機能しているからだというお話しをしました。

どの一つの細胞をとってみても、その細胞の存在目的は全体としての肉体のためであるということが明確になっているということです。

そうやって全体性と個体性が見事なまでに調和することで、一人の人間の身体が成り立っているわけです。

そして、私たち人間といえども、全体としてのこの世界というものと個人としての自分という個性の双方を知りつつ生きています。

しかし、人間一人と細胞一つの一番大きな違いは、個体一つの存在目的にあります。私たち人間は、個人の命ほど大切なものはないという根深い信念を持っています。

全体のために存在するというよりも、個体そのもののためにこそ命があるという信念であるわけです。この人と細胞との存在目的が正反対になってしまっている理由とは何でしょうか。

それは一重に、私たち人間が全体についての情報、つまり細胞で言えば身体の設計図である遺伝子情報を忘れてしまったからに違いありません。

もしも、その情報のことを思い出すことができたら、私たち一人ひとりの心の持ち方、あるいはそれを基にした生き方が全く変わってくるはずです。

本来の私たちの存在目的に目覚めるためには、是非とも細胞にとっての遺伝子情報、つまり全体性についての情報を思い出さなければならないということです。

そしてそれを思い出すヒントが遺伝子にあります。それは、あらゆる細胞に完全に共有されている情報だという、その一点なのです。

つまり、私たち一人ひとりが誰一人として抜け落ちることなく、全員に共通のものとして持っているもの、それを探せばいいと言うことになります。

個々によって違いを発見できるようなものではなく、逆に完全に一致しているものとは何かを知るためには、それを自分ひとりのうちに見出すことは不可能だと分かります。

明日に続く

全体性と個体性

誰もがおよそ知っているように、我々の身体は60兆個の細胞から出来ています。それは70億を超えそうだと言われている世界の人口の数と比べても、相当に天文学的な数字なわけです。

ところで、その一つひとつの細胞ごとに、これもよく知られているように染色体と呼ばれる遺伝子が組み込まれています。

これは、表現を変えて言えば、個々の細胞自体が身体全体の設計図をそれぞれに持っているということにもなるわけです。

例えば、爪の細胞の一つをとってみても、脳内の一つの細胞をとってみても、身体全体はこのように出来ているという全く同じ一つの情報を保持しているということ。

だからこそ、60兆個の細胞一つひとつが、それぞれ独自の機能を果たしながらも、全体としては一人の肉体としての生命活動を続けることができるのです。

そうした、全体性と個体性という両極端とも言える二つのものが、何の問題もなく、あるいは互いに連携することによって完璧な肉体があるということですね。

細胞同士は、どれがどれに依存するという一方通行的なものは一つもなく、それぞれが相互に依存しあって生きているということです。

個々のどの細胞一つとってみても、それらはすべて全体のためにあるということが明確になっています。決して、その細胞がそれ自体を生かすためにあるのではないと知っています。

なぜなら、細胞の一つとしての存在理由はまったくないからです。細胞はその機能を果たしながらも常に全体を存続することだけが唯一の存在理由であると分かっているのです。

なぜそうした、唯一の目的を忘れることがないかといえば、個別に大元からコピーした染色体をそれぞれが持っているからに違いありません。

このことをよくよく見つめているうちに、それは私たち人間の本質と同じなのではないかということに気づかされることになります。

明日に続く

視野の広がり

人は誰でも自分が信じていることを正しいと思いたいはずですし、実際に思ってもいます。そういうものがその人の生きるうえでの礎(いしずえ)となっているのですから。

自分があることに対して、何が正しいことなのか分からないということはいくらでもありますが、しかし正しいと思っていることを信じないでいることはできません。

誰に何を言われても、自分の信じること、自分がこれが正しいことなのだと思っていることを曲げない人がいますね。悪く言えば頑固者ですし、よく言えば優柔不断ではないはっきりとしたものを持っているということになるわけです。

人をどちらかのタイプに分けるとすると、正直申せば私はかなり優柔不断であると告白せねばなりません。

特に若いときには、誰かがこれが正しいと言えば、なるほどそうかもしれないと思い、別の人が別の物事を正しいと言っていれば、今度はそれが正しいと思ってしまうということが多々あったからです。

自分でも、何でこんなに固定した考え方をすることができないのか不思議でした。例えば、神を信じるかと聞かれても、あるときにはいるかもしれないと思い、またしばらく時が流れると神など信じないということもありました。

それが年齢を重ねるごとに、少しずつ「変わらないもの」が自分の中に出来てきた感じがします。それでも、このまま死ぬまで考えが変わらないだろうとは全く思えないのです。

それよりも、あることを正しいはずだと信じていたとしても、いろいろな経験や気づきなどによってそれまでよりも大きな視野で見ることができるようになった時に、違った見方ができるようになるということが沢山ありました。

それは正しいと信じていたことが間違っていたということではなくて、その範囲では相変わらず正しいと分かると同時に、もっと広い視野で見たときに場合によっては正しくなくなるということがあると分かったのです。

最近そうしたことが急激に増えているような気がしています。こうしたことが今後も続くのであれば、今まで以上にこれが正しいなどと太鼓判を押すことはできなくなります。

でも逆に言えば、実は自分がどうなるのかとても楽しみでもあるのです。今までまったく気づけなかったことに気づくことができるとしたら、それは本当に楽しみです。